第26話 成功だよ、どこから見ても
翌朝、レトが顔を洗って部屋へ戻ると、窓ぎわの机はもうサカドに取られていた。
「……ここ、俺の部屋だろ」
「机があるのは、この部屋だけでな」
サカドは顔も上げずに、紙を一枚広げた。鉱山の倉庫で見つけた控えの綴りから、ゆうべのうちに抜いておいたらしい。トワルの刺激陣の第三期が終わったあとで、天上府へ出した効果の報告の写しだった。項目と数字が、上から一行ずつ並んでいる。
戸口から、ミレアが蜂蜜の焼き菓子の袋を提げて入ってきた。机の上の紙を見るなり、袋を寝台に置いて、写しの横に回りこんだ。
サカドの指が、項目を上からたどっていった。
「開いた店、四十二軒。……景気のいい数字だろう」
指が、ある一行を押さえた。
「第三期。雇用、百八十六人増」
「百八十六って、第三期の工事だけで?」
うちの通りの工房の職人なら、親方から見習いまで全部足しても、両手の指を二回折れば足りる。レトは、折りかけた指をそのまま下ろした。
「陣が龍脈を叩くたびに、町で汲めるマナが増えた。増えりゃ、町の連中もつられて借りて、使う。新しい店が開いて、新市街に人が住んだ。振興会館の前には、毎日行列ができてた」
「カナールさん。その報告、天上府には、そのまま通ったんですか」
ミレアが聞くと、サカドは鼻で短く笑った。
「通った。成績のいい報告ほど、よく通る」
いつもなら、ここで論点を一つ、二つと数えはじめる声だった。今朝は、紙の上の指が動かなかった。
「成功だよ。どこから見てもな。……だから第四期もやった。トワルは借りてでも、陣を叩き続けた。町はずれの第一期の試しの陣なんか、景気づけに何べんも叩いたもんだ」
窓の外の坂からは、荷車の音と、屋台が油を熱しはじめたにおいが上ってくる。この町のほうが、戸を閉めた店ばかりのトワルより、ずっとにぎやかだった。
ゆうべの食堂で、家を建てたと言った年寄りの赤い顔が浮かんだ。レトは写しの百八十六を見て、それから窓の外を見た。
「うまくいってたから続けた、って……それ、悪いことなのかよ」
サカドは写しを二つに折り、もう一度折って、上着の内ポケットにしまった。
ミレアは何も言わずに帳面を開き、端のほうに、百八十六と小さく書きつけた。焼き菓子の袋は、寝台の上に置かれたままだった。
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昼の鐘のあと、レトは番の小屋の陰でヨルンをつかまえた。
帳面と鉛筆を出すと、ヨルンはしばらくそれを見ていた。
「俺らの名前を書いて、どうする」
「工事の日に、奥にいる人を全員外へ出す。誰がいるか書いとかないと、出したかどうか分かんないだろ」
うしろの男たちが、顔を見合わせた。一人が、低い声で言った。
「整理屋に回すんじゃないだろうな」
「こいつは修繕屋だ」
ヨルンは振り向かずに答えた。それから男たちを顎でしゃくり、一人ずつ名前を言っていった。
レトは聞いたとおりに書いた。字の分からない名前は、本人に聞き直した。本人も字は知らなかったので、聞こえた音のとおりに書いた。いちばん若い男は、自分の番が来ても口を開かなかった。ヨルンが拳の背でその背中を小突くと、若い男は地面を見たまま名前を言った。声が小さかったので、レトは二回聞いた。
ヨルンは最後に、自分の名前を言った。
レトは鉛筆を止めた。
「……奥の、左に寄せた梁。あれ入れたの、誰か知ってるか」
ヨルンは、坑道の入口のほうを見た。
「崩れかけてたからな。俺らの頭の上だった」
レトは何も言わずに、帳面に並んだ名前を上から見ていった。
その日の夕方、レトは補正の申請を書き直した。「どの範囲で」の欄には、組の名簿から写した名前が並んでいる。その下に、帳面の名前を一つずつ書き足していくと、欄には収まらず、下の余白までつづいた。
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翌朝、オクロのコクドの小神殿で、受付の神官は、欄が埋まっているかだけを目で追って確かめた。
「申請者ご本人で、お間違いありませんか」
「はい。俺が本人です」
神官の目は、そのまま欄を下りていった。「どの範囲で」の所で、少し長く止まった。
「お名前の入った申請は、写しをコーローの窓口にもお回しします」
「なんで?」
「決まりですので」
声は、トワルの神官と同じくらい平らだった。
「念のため、印鑑を」
「……だから、なんでだよ」
「慣習です」
レトは木の印鑑を押した。隣からミレアが身を乗り出して、結果の通知はトワルの事務所へ回してほしいと頼み、宛先を書き添えた。
小神殿を出たその足で、レトは組の事務所に坑道の補強の見積もりを届けた。勘定係は額の欄を見て、目を細めた。
「安いですねえ。助かります」
うしろからのぞいたサカドが、片方の眉だけを上げたが、何も言わなかった。
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発つ朝、駅へ下りる坂の途中で、ミレアが揚げ菓子の屋台に寄った。
油の鍋の前で、屋台の男が常連らしい客と話していた。
「組に、助成の照会状が来たってよ」
「どっから」
「駅前の通りから一本入った、あの小神殿から回ってきたんだと」
レトの足が止まった。自分が補正を出した、あの小神殿だった。
「……俺が出したとこかよ」
紙袋を受け取ったミレアは、前を向いたまま歩きだした。
「組の助成は、名簿の人数ぶん出てるの。出してるのはコーローの窓口。そこに、名簿の名前と、名簿に載ってないのに奥で働いてるヨルンさんたちの名前が両方届いたら、人数が合わないでしょ。照会は、それを確かめに来るの」
レトは坂の上を振り返った。山の腹に、坑道の入口が小さく開いている。番の小屋の屋根も、その横の札の板も、ここからでは見分けがつかなかった。
「……それ、ヨルンたちは……」
坂の下で、サカドが懐中時計の蓋を開けて呼んだ。
「レト。軌道車が出る」
半日揺られるあいだ、ミレアは書類鞄を膝に抱えたまま、一度も眠らなかった。中には、振興会館の配置の図の写しが入っている。
「これとエオカさんの寸法を並べれば、届出が出せる」
独り言みたいな声だった。
レトは窓の外を流れていく川を見ていた。番の小屋の陰で、二回聞き直した小さな声を思い出した。あの名前は、帳面にも、申請の余白にも、自分の字で書いてある。上着のポケットの中で、帳面の角を何度も指でなぞった。
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トワルの駅を出ると、槌の音はどこからも聞こえなかった。川の上の空が、オクロより広く見えた。
駅前の通りは、半分の店が戸を閉めていた。開いている店の前にも、行列はない。旧市街の石畳を、荷車が一台、ゆっくり上っていくだけだった。
その通りを抜けて振興会館の前まで来ると、玄関脇の掲示板に人だかりができていた。真新しい貼り紙だった。総合神殿の建設計画、と大きな字で刷ってある。ばらばらの小神殿を、一つの建物にまとめる計画らしい。色の濃い絵の中で、建物の前の通りに人があふれ、その隅には新しい刺激陣も描いてあった。
「……総合神殿って、乗り換えの駅にあったやつかよ」
ミレアは貼り紙の下の小さな字に、目を細めた。
「あれは軌道会社が建てたの。こっちは、町が建てるって」
人だかりの前のほうで、閉まった店の板戸を背にした男が、隣の男の肩をたたいた。
「ケインズ式の陣も入るんだと。これで、また人が来る」
笑い声が、輪の中に広がった。何人かが、うなずきながら貼り紙を指さしている。
レトはサカドを探した。
サカドは人だかりのいちばん後ろにいた。両手を後ろに組んで、黙って貼り紙を見上げていた。




