第27話 安売りが、客のためか
石を切る台の刃が、急に耳ざわりな音を立てた。
台ごと震えて、刃が止まる。レトは押し当てていた敷石から手を離し、円い刃を指で回して覗きこんだ。縁から真ん中へ向かって、髪の毛ほどの割れが一本走っていた。
親父が若いころから、一度も替えずに使ってきた刃だ。子どものころ、レトはこの刃の回る音で、石の硬さを聞き分けるのを覚えた。指の背で弾くと、いつもは澄んで返ってくる音が、ひびの入った鐘のように濁った。
「……嘘だろ」
台の上には、半分だけ切れた敷石が残っている。裏の家の、欠けた敷石の替えだ。明日の朝に据えると約束していた。
レトは槌と鏨を取りかけて、やめた。手で割れば、割れ口が波を打つ。隣の石と目をそろえて据える敷石には、刃で引いたまっすぐな切り口が要る。
レトは割れた刃を台から外して、事務机まで運んだ。
替えの刃の値段は、職人ギルドの型録で知っている。帳簿を開いて、一枚ずつめくった。どの月も、入ってくるマナより出ていくマナのほうが多い。めくる手が、だんだん遅くなった。
親父が現場を休んでから、レトは近所の頼みを一つも断れなかった。欠けた敷石も雨漏りの軒も、言われた額で直してきた。
「景気の悪い顔だな」
戸口に、すり切れた上等の上着を着たサカドが立っていた。図面筒を肩から下ろし、机の上の刃と帳簿を順に見た。
「意見書に、旧市街の工房の数を書きたくてな。歩いて拾ってたんだが……割れたか」
「見りゃ分かるだろ」
「診せてみろ」
返事を待たずに、サカドは帳簿を自分のほうへ引き寄せた。
「勝手に見んなよ」
「見るのが商売でな」
事務机のまわりには、石粉と灯り油のにおいがこもっていた。サカドは首の拡大鏡を外して机に置き、帳簿を一枚ずつ繰りながら、手近な紙の裏へ数字を書き写していった。その紙を見て、レトは声を上げた。
「それ、俺の不許可通知じゃん」
「裏は白い」
十四回目の通知の裏に、二本の列ができていった。左が入ってくるマナ、右が出ていくマナ。サカドはひと月ごとに横線を引き、右のほうが多い月にだけ、小さな印をつけていく。
「手はいいんだがな。つける値段が悪い。……いったん整理しよう。論点は二つだ。一つ、刃がなきゃ、次の仕事が受けられない。二つ、刃を買う分が、手元にない」
「……それ、さっき俺が一人で思ってたことだろ」
「声に出すと、紙に書けるんだ」
サカドはペン先で右の列をたたいた。
「で、この軒は?」
「角の店。……二回直した」
「二回とも、この値段か」
「魔冷えだって言われたら、しょうがないだろ。みんな財布閉めてんだから」
サカドはペンを置いた。
「魔冷えの町で安く受けりゃ、客は喜ぶだろう。だが、安売りが客のためか? 十年後も、同じ客の石を直せる値段か?」
レトは答えられなかった。十年後の値段なんて、考えたこともない。来月の灯り油をどうするかで、いつも手いっぱいだった。机の端の割れた刃に、目が行った。
「替えは、いくらする」
レトは型録を開き、刃の載った頁を指でたたいた。サカドはその値段を、通知の裏のいちばん下の余白に書いた。その下に一本線を引き、稼いだ分から月々返していく額を書き足す。左の列のどの月と並べても、無理のない額だった。
「……これ、借りろってことかよ。マナを」
「借りるのはマナそのものじゃない。使う権利だ。刃で稼ぐ分を、先に使わせてもらう」
サカドはそこで一度、言葉を切った。
「……俺が何のために借りて、どうなったかは、オクロで聞いたな。お前は、何のために借りる?」
床板が鳴った。
作業場との境の戸口に、親父が立っていた。痛めた脚をかばって、柱に片手をついている。
「……借りるな」
それだけだった。
昔、サカドがこの工房で言ったのと、同じ言葉だった。サカドは机の拡大鏡に伸ばしかけた手を止めた。親父には何も言い返さず、紙の上の数字からレトへ目を移して、待った。
親父の口ぐせは「余計なことはするな」だった。借りもせず、手を広げもしなかったから、この工房は、新市街の店がばたばた閉まったあとも、旧市街に残っている。それは、レトにも分かる。
それでも、角の店の軒を思い出した。言われた額に収めるために、楔を一本減らして納めた軒だ。次の雨で、また漏れるかもしれない。そのとき刃がなければ、替えの石一枚切れずに、直しに行くこともできない。
割れた刃を手に取った。割れ目には、さっき切りかけた敷石の粉が、白く詰まったままだった。
「……借りるよ。刃の分だけ」
親父の顔は見なかった。
「そのかわり、もう安くは受けない」
戸口の床板が、もう一度鳴った。親父は黙って奥へ戻っていき、作業台のほうで、道具を置く小さな音がした。
サカドはしばらく戸口のほうを見ていたが、やがて通知の裏の数字に目を戻した。
「刃の分だけ、か。で、返し終わるのは、いつだ?」
「……次に、この刃が割れる前」
サカドの口の端が、少しだけ上がった。
「診断屋みたいなことを言う。それを紙に書け」
十四回目の不許可通知が、二つに折られてレトの前に置かれた。初めて役に立った通知だった。
「書類は、銀行の窓口でもらえる。名前の欄を間違えるなよ」
**
あくる朝、レトは裏の家へ行き、敷石は刃が届いてからにしてくれと頭を下げた。ばあさんは「待つよ」と言った。
その足で、地方マナ銀行の窓口へ借入の書類を受け取りに行った。
「お借入は、ご本人様の名義で?」
「は、はい。わた……俺の名前で」
借りる人の欄に「ハイネ工房 ドーマ・ハイネ」と書きかけて、二重線を引いた。その横に、自分の名前を書き直した。
使い道の欄には「刃」とだけ書いた。窓口係が欄を指でなぞり、顔を上げた。
「どちらの、何の刃でしょう」
「石を切る台の。……うちの工房の、一枚」
「では、そのとおりに」
書き足しながら、レトはミレアの事務所の机を思い出した。どこへ行っても、まず「何を」を聞かれる。
「こちらに印鑑を」
「……ここでも印鑑かよ」
工具帯の脇から木の印鑑を出して、言われた所に押した。
その晩、レトは事務机で近所への見積もりを書き直した。裏の家の敷石も、角の店の軒も、手間と石の値段どおりに一行ずつ。楔は、減らさない本数で書いた。
一枚目の額を書くとき、ペン先が一度、紙の上で止まった。裏の家のばあさんの顔が浮かんだ。レトは、そのまま書いた。
書き終えた見積もりの束は、思っていたより重く見えた。明日これを持っていって、何人に嫌な顔をされるのか、レトは数えないことにした。
同じ机で、特定修繕の包括許可も書き直した。十五回目の申請になる。広すぎると言われたぶん、「何を」の欄から「その他」を消し、範囲の欄からは、新市街の外れの、空き家ばかりの通りを消した。住む人のいない家なら、直してくれと戸を叩きに来る者もいない。
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翌朝、工房の戸を開けると、前の水路の音といっしょに、冷えた空気が入ってきた。戸の隙間に、紙が一枚差しこまれていた。
振興会館の大広間で開く、説明会の告知だった。上の段に大きな字で「総合神殿の建設計画について」、その下に一回り小さく「新しい刺激陣のご案内」とある。隅には、明るい色で完成予想の絵が刷ってある。日付は、注文した刃が届く日の三日前だった。
告知を畳んで工具帯に挟み、レトは新しい刃の届く日を、帳簿の余白に書きこんだ。
本日の不受理
申請:割れた刃の、気合いでの続行
申請者:ハイネ工房の刃
結果:不受理(理由:割れ目は、気合いでは閉じません)




