第23話 その人は範囲に入っていますか
朝になっても、補正の通知は鞄の上に開いたままだった。
ゆうべ封を切ってから、レトはそれを何度も読み直していた。足りない所、と刷られた下に、問いが一行だけ書いてある。
「その人は範囲に入っていますか」
それで全部だった。条文の番号もなければ、どの欄の話かも書いていない。
「……誰のことだよ」
寝台に腰かけたまま、レトは通知を窓にかざした。透かしてみても、続きは出てこなかった。
「その人って、俺か? 俺は入ってるだろ。直すの、俺なんだから」
それとも、ミレアか。坑道には一緒に入るが、あいつを申請の範囲に書いたら、たぶん付箋が三枚くらい飛んでくる。
「神様、主語くらい書けよ」
鞄から申請書の控えを出して、四つの欄を頭から読み直した。
何を、どの状態から、どの状態へ。そこまでは、メイの写しから拾った寸法がきちんと並んでいる。ミレアが指で叩いた「どの範囲で」の欄には、補強の区間の下に、組の名簿から写した名前が隙間なく続いていた。
アルベ・トゥース。ハンス・ローダ。コル・ネスタ。
夜明けまでかけて、一つも欄からはみ出さないように書いた字だった。一人も抜かさずに写した、と思っていた。三つ目の名前で、指が止まった。坑道の入口でミレアが名簿を読み上げたとき、番の年寄りが「知らん名だな」と首を振った名前だ。すぐ下には、足を折って郷へ帰った男の名前もある。工事の日に坑道から出てもらう人として、レトは、いま郷にいて坑道には来ない男まで、自分の字で書いていた。
入口の名札の板の前を、札を掛けずに素通りしていく男たちがいる。見積もりで坑道に入るたびに、その顔は何度も見ていた。籠を担いでレールの先の暗がりへ消えていった、日に焼けていない、青白い顔も覚えている。
それなのに書くときは、名簿しか見ていなかった。
レトは控えを膝に置いた。
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その日も、レトは見積もりの続きで坑道に入った。
メイが読み上げる梁の寸法を帳面に書き取りながら、目は勝手に奥へ行った。レールの脇で素石を割っている背中を、一つずつ数える。札の板に下がっていた数より、やっぱり多い。
声をかけようとして顔を上げると、相手はもう背を向けていた。籠を担ぎ直して、壁の光の届かない所へ入っていく。二人目も、三人目も同じだった。
柱の根もとで楔の具合を見ていた若い職人のティルが、レトの目の先を追って、声を落とした。
「あの人たちですか。……名前は、聞かないほうがいいですよ」
「なんで」
「聞かれたくないから、札を掛けないんでしょう」
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夕方、宿へ戻ると、おかみが受付の台から顔を上げた。
「また来てるよ、神様の手紙。きのうの今日で」
二日のあいだ、のぞくたびに首を振っていたおかみが、どうだ、という顔で封筒を差し出した。
トワルの工房あての宛名に線が引いてあって、その横に、宿の名前が母の字で書き直してあった。宛名を消した線まで、定規を当てたようにまっすぐだった。添え書きは入っていない。指でつまんだだけで、中身が一枚なのが分かった。
おかみは台の向こうから首を伸ばして、封筒をのぞきこんでいる。
「……薄い」
「薄いねえ」
「言うなよ」
発つ前に出しておいた、包括許可の申請の返事だった。通算で十四回目になる。
不許可だった。理由の欄には、一行だけあった。
範囲が広すぎる。
食堂では、ミレアが窓ぎわの卓に帳面を広げて、何かを写していた。レトは向かいに座り、二枚の通知を卓に並べた。
「広すぎるって言われて、こっちは入ってないって言われて……範囲って、なんなんだよ」
ミレアはペンを止めずに、横目で二枚を見た。
「十四枚目ね」
「数えんなよ」
「数えなくても、束が厚くなってるのは見えるの」
ペン先がインク壺に浸かって、また紙に戻った。レトは十四回目の通知を指で弾いた。
「何をって言われたから、全部書いたんだって。石垣も、杭も、滑車も。最後に、その他って」
ミレアのペンが止まった。
「……その他、って書いたの」
「書いた。漏れたら困るだろ」
「申請に『その他』って書く人、初めて見た」
「感心すんなよ」
「呆れてるの」
それから、ミレアは補正の通知のほうに目を移した。一行しかない問いを、ミレアは二度読んだ。
ペンが、もう一度インク壺に浸かった。
「で、それ、あたしに聞いてる?」
レトは口を開けて、そのまま閉じた。
「……聞いてない」
「そう」
ミレアは帳面に目を戻した。ペン先が、さっき写していた行の続きを拾いはじめた。
レトは二枚の通知を重ねて持ち、椅子を引いて立った。
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日の落ちた山の腹で、坑道の入口だけが青白くにじんでいた。
番の小屋の窓に、ランプが一つ灯っている。毛布を膝にかけた年寄りが、窓ごしにレトを見て、何も言わずに目を戻した。名札の板には、まだ札がいくつか下がっていた。どの札にも、持ち主の名前が焼いてある。レトが毎朝そこへ掛けていく札には、「客」としか書いていない。
ちょうど仕事じまいの刻限で、奥から男たちが出てくるところだった。札を掛けて入った者は、板の前で足を止めて、自分の札を外していく。そのあいだを、札を持たない男たちが、ひとかたまりになって抜けてきた。五人か、六人。誰も板のほうを見なかった。
坂を上るあいだに、言うことを決めておくつもりだった。何も決まらないうちに、入口に着いていた。
先頭の年かさの男が、レトの前で足を止めた。肩につるはしを担ぎ、髭に石の粉が白く残っている。近くに立つと、ランプの煤のにおいがした。
うしろの男たちも止まった。いちばん若い一人が、顔を伏せた。
その若い男の、日に焼けていない青白い顔に、レトは見覚えがあった。
年かさの男の目が、レトの手もとに下りた。重ねた通知の頭に、天上府の丸い印が二つ押してある。
「整理屋の使いには見えんな」
「……修繕屋だよ。奥の梁を直す」
男の眉が、わずかに動いた。黙ったまま、レトの顔と、工具帯に差した槌を見比べている。
レトは通知を握り直した。
「工事のあいだ、坑道から出てもらう人の名前が要るんだ。……あんたたちの名前、どこにも載ってなくて」
言ってしまってから、まずかったかと思った。名前が載っていないことは、ここにいる誰よりも本人たちが知っている。
うしろで、誰かが小さく笑った。笑い声というより、息が漏れただけだった。
年かさの男は、振り返らなかった。
「載ってる名前なら、ある。借りたのがな」
レトは息をのんだ。名簿に載っているのは、この男たちが借りた、他人の名前だった。その名前を、レトは一つずつ自分の字で写していた。
「……その名前で、書いたんだ。そしたら、これが返ってきた」
レトは補正の通知を上に重ねて、差し出した。男は受け取らずに、首だけ伸ばして、一行しかない問いを読んだ。唇が、字を一つずつなぞって動いた。
それから顔を上げて、しばらくレトを見ていた。
「工事の日に俺らを呼ぶなら、こっちの名前で呼んでくれ」
男はつるはしを肩から下ろし、柄の先を地面についた。
「ヨルンだ」




