第22話 四つとも書く
宿の部屋の机は小さくて、ランプを置いただけで半分がふさがった。
レトは鞄から中身を出して、順に置いた。メイが帳面から写してくれた寸法の紙。ティルの書きかけの申請書。自分の帳面。白紙の様式は、置き場がないので、手前の端に重ねた。
白紙の様式は、坑道を出たその足で組の事務所へ寄ったときに渡された物だった。勘定係は見積もりの進み具合を聞くと、台の下から様式を一枚出した。それなら補強の申請も、修繕屋のハイネさんの名前で出してくれないか、と勘定係は言った。
「うちの若いのが書くと、どうも通らんもんで……」
ティルは事務所の隅で、気まずそうに頭をかいていた。それから、書きかけの申請書を折りたたんで、レトに押しつけた。
「これ、使ってください。『いい感じに』は、もう消してあります」
「見りゃ分かるよ」
「……『どの状態へ』は、空いたままですけど……」
「それも見りゃ分かる」
宿の机で、ペンをインク壺に浸してから、レトは向かいを見た。
ミレアは椅子に浅く腰かけて、紙袋から蜂蜜の焼き菓子を出しているところだった。書類鞄は足もとに置いたまま、留め金も外していない。
「……手伝わないのかよ」
「あんたの申請でしょ」
それきり、焼き菓子をひとくちかじった。
いつもなら、レトがペンを持つより先に、ミレアの付箋が貼られている。
レトは様式に向き直った。
「何を」の欄に、まず「坑道の補強」と書きかけて、やめた。
坑道は長い。直す所は一か所にしぼれ、とミレアに何度も言われた。線を引いて、その下に書き直した。坑道の奥の、図面にない補強が入った一区間。その梁と天井。
奥の割れ目は、梁とは別の話だ。今夜は、梁のことだけ書く。
字は、欄の中に収まった。レトは欄の端を指でなぞって、はみ出していないのを確かめた。
「どの状態から」は、水の来る側から書くことにした。
メイの写しを引き寄せて、数字を一つずつ拾った。右の壁は、床から三十六センチまで削れている。
その壁ぎわの、右の柱のことは、ティルの下書きにもう書いてあった。柱の音が、鈍い。内側が、水を含んでいる。ティルが大きな字を、欄の中に小さく書き直した跡がある。レトはそれを、そのまま写した。自分で叩いたときも、そういう音だった。
水を吸った右の柱の頭がつぶれて、右の梁は左に四センチ五ミリ傾いている。楔を噛ませてからは九ミリ。楔は今だけのものだから、それも書いた。
天井の石が疲れている、と書いたところで、耳の奥でミレアの声がした。『疲れてる』って書く気?
レトは「疲れている」に線を引いた。
向かいで、焼き菓子がさくりと鳴った。
天井の石のことは、手が覚えていた。左側だけが硬く張りつめていて、右へ手をずらすと、張りが抜ける。最後に、図面にない左の梁が一本で天井の重さを受けている、と書いた。
「……ミレア。『梁』って、下が木でいいんだよな」
「いい」
字は教えてくれるらしい。レトは「梁」の字を、もう一度ていねいになぞった。
「どの状態へ」の欄には、少し考えて、「元どおり」と書きかけた。三文字目まで書いて、ペンが止まった。
元の図面には、あの左の梁は描いていない。図面どおりに戻したら、いちばんいい仕事をしている梁の行き場がなくなる。誰が入れたのか知らないが、あれがなかったら、天井はとっくに落ちている。
レトは「元どお」までを、ていねいに消した。
しばらく、ランプの芯がじりじり鳴るのを聞いていた。手のひらに、天井の石の張りがまだ残っていた。
直ったら、どうなっていればいい。
レトは書いた。梁が、両側で重さを受ける状態。
ミレアの手の焼き菓子が、口の手前で止まっていた。レトが顔を上げると、ミレアは何事もなかったように、それをかじった。
「どの範囲で」には、まず補強の区間を書いた。四十本目の手前から、四十一本目の柱まで。
それから、ペン先を宙に浮かせたまま考えた。
毎朝、宿の前の坂を、弁当の包みを提げた坑夫たちがぞろぞろ下りていく。名前を知っている顔は、まだ一人もいない。梁を組み直すあいだは、あの中の誰も、天井の下にいてはいけない。工事の日に坑道から出てもらう坑夫の名前も、書いておくことにした。
区間の寸法のほうは、思ったより手間取った。メイの写しは柱の何本目から何センチと書いてあるのに、坑道の図面は入口からのメートルで描いてある。図面の点を一つずつ数えて、写しの数字と照らしていくうちに、二度数え違えた。三度目で、やっと合った。
ランプの油が、半分ほどに減っていた。
名前のほうは、組の名簿を上から写して済ませた。
窓の外が、白みはじめていた。
ペンを置くと、右手の指が、握った形のまま固まっていた。開いて、閉じて、また開く。
レトは四つの欄を、頭から読み返した。何を、どの状態から、どの状態へ、どの範囲で。どの欄にも、「いい感じに」は一つもなかった。
向かいを見ると、ミレアは椅子に座ったまま、紙袋を膝に乗せていた。紙袋は、もう空になっていた。
「……読んで」
ミレアは黙って様式を受け取り、一行ずつ目を下ろしていった。いつもの早口は、一度も出なかった。「どの状態へ」の欄で、目が少し長くとまった。
最後まで読み終えると、ミレアは「どの範囲で」の欄を、指先で軽くとん、と叩いて、紙をレトに返した。
「自分で出してきなさい」
レトは、叩かれた欄を見下ろした。区間の寸法は、三度数えて合わせてある。名前も、一人も抜かさずに写してある。何が足りないのかは、ミレアには聞かないことにした。
聞けば、たぶん教えてくれる。でも、それでは自分の申請にならない。
レトは様式をたたんで、封筒に入れた。
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オクロにあるコクドの小神殿は、駅前の通りから一本入った所にあった。受付の神官は、トワルの神官とは別の人だったが、決まった文句を抑揚なく読み上げる声は、同じだった。
受付の台の横の壁に、修繕の申請の書き方の見本が、日に焼けて貼ってあった。「どの状態へ」の欄には、「竣工時の状態」とだけ書いてある。レトは少しのあいだ、その一行を見ていた。
「申請者ご本人で、お間違いありませんか」
「わ、私が……いや、俺が本人です」
「受付いたしました。念のため、印鑑を」
レトは、何も聞かずに印鑑を押した。神官は欄が埋まっているかだけを指でなぞり、封筒を奥へ回した。
小神殿を出て、石段に腰を下ろした。遠くの選鉱場から、槌の音が切れ目なく上ってくる。左手を膝の上で開いて、握れるところまで握った。
四つとも、自分で書いた。
今度は、通るかもしれない。
レトはしばらく、槌の音を聞いていた。
それから二日、レトは見積もりの続きで坑道に入り、日が暮れて宿へ戻るたびに受付をのぞいた。
「神様の手紙は、そんなに早く来ないよ」
宿のおかみは、受付の台から顔も上げずに言った。二度目には、のぞく前に首を振られた。
ミレアは何も聞いてこなかった。ただ、レトが受付をのぞくたびに、少し離れた所で足を止めていた。
二日目の夕方、宿の受付に封筒が一通届いていた。
天上府の丸い印が押してある。受け取って、レトは手のひらで一度弾ませた。鞄の中の不許可の束の、どの一枚よりも、少しだけ厚かった。
部屋で封を切った。
補正の通知だった。足りない所を直して出し直せ、と書いてあった。




