第20話 それ、一生通らないぞ
あくる朝、宿の前の坂を、弁当の包みを提げた坑夫たちがぞろぞろ下りていった。
レトは坑道の見積もりの続きに出かけた。
ミレアは何も言わずについてきた。サカドは、きのうと同じ組の事務所の縁台で、そろばんをはじいている。ミレアは、ゆうべ宿へ戻ってからも帳面を開いたきりで、ほとんど口をきいていない。書類鞄の上の焼き菓子の紙袋は、口を折ったままだった。
坂の途中で、レトは一度だけ口を開いた。
「なあ、きのうの……」
「見積もり、今日も測るんでしょ」
ミレアは前を向いたまま言った。いつもの早口だった。眼鏡の奥の目が、少し赤かった。
「測るけど」
「じゃあ、坑道」
それで終わりだった。
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坑道の入口では、坑夫たちが一人ずつ板の前で足を止め、自分の名札を釘に掛けては暗がりへ入っていった。そのあいだを、札を持たない男が二人、誰とも目を合わせずに抜けていく。入口の小屋は、名札の番をする年寄りの詰所になっている。戸を開けると、毛布を膝にかけた年寄りの向かいで、若い男が机に覆いかぶさってうなっていた。
「……うーん」
レトと同じくらいの年で、肩も腕も太い。ペンの尻で机の紙をこつこつ叩いている手は、木のささくれの跡だらけだった。
年寄りが、顎で男を指した。
「ティルだ。組の頼みで、奥を直す申請を書いてる。朝からずっとそれだ」
坑道の柱や梁を組む職人だという。レトは横から紙をのぞきこんだ。コクドに出す修繕の申請書だった。何を、どの状態から、どの状態へ、どの範囲で。レトも何度も埋めた、四つの欄の様式だ。
「どの状態へ」の欄に、大きな字で一行だけ書いてあった。
いい感じに直す。
レトはその字を、しばらく見ていた。
「何を」の欄には、第四期の坑道の奥、とある。工事が途中で止まった奥の区間だという。
「それ、一生通らないぞ」
「は?」
ティルの眉が寄った。
レトの横で、ミレアが何か言いかけた。口を開けて、そのまま閉じると、腕を組んで一歩下がった。
「……なんで分かるんですか」
レトは鞄の口を開けて、角のすり切れた封筒の束をつかみ出した。十三枚ある。机に置くと、薄い封筒が思ったより厚く積み上がった。
「俺、何回も落ちたから分かる。『いい感じに』じゃ、何も決まらないんだよ」
ティルは束とレトの顔を見比べてから、一枚ずつめくりはじめた。どの通知の頭にも、天上府の丸い印が押してある。年寄りが毛布の上から首を伸ばした。
「……ずいぶん落ちたな」
「数えなくていいって」
「……全部、不許可じゃないですか」
「全部。理由も全部違う」
「それ、自慢になりませんよ」
「してないって」
そのうちの一枚で、ティルは丸い印の下の一行を声に出して読んだ。
「『いい感じに』は、審査の基準にならない……」
それから、ゆっくりレトを見上げた。
「……これ、まさか」
「書いた」
うしろで、ミレアが小さく咳払いをした。
ティルは束をそろえて返すと、むくれた顔でペンを握り直した。
「でも、ほかに書きようがないんです。行けば分かるんですよ。見れば」
「現場を見ない人が読むんだよ」
「見ない人って、誰ですか」
「神様」
「神様なら、見りゃ分かるでしょう」
「……俺もそう思ってた」
「奥じゃ、毎日人が掘ってるんです。俺の組んだ柱の下で」
ティルの声が、少しだけ低くなった。レトは椅子を引いて、隣に座った。
「どう悪いんだよ。奥の」
「どうって……」
口はそこで止まったが、手のほうが先に動いた。ティルは立ち上がって、詰所の柱を拳で叩いた。首をかしげて、もう一度叩く。
「奥の柱は、こうじゃないんです。こう、もっと……」
「この柱と、音、どう違う?」
「奥のは鈍いです。中で水を吸ってるみたいな」
レトも拳を上げて、詰所の柱を叩いてみた。乾いた木の、軽い音が返ってくる。これより鈍いなら、芯まで湿っている。叩いたことのない奥の柱の音が、耳に浮かんだ。
「それ書けよ」
ティルは目を丸くした。
「そんなのでいいんですか」
「そんなのがいいんだよ。ただ、『みたいな』は取れ。何が、どうなってる」
ティルは自分の拳を見て、少し考えた。
「……柱の音が、鈍い。内側が、水を含んでる」
レトがうなずくと、ティルは「どの状態から」の欄に、ゆっくりそれを書いた。字は大きいが、さっきの一行よりずっとまっすぐだった。ただ、大きすぎて、最後の二字が欄の外へはみ出した。
「はみ出すと、だめなんだよ」
「だめなんですか」
「……だめだった」
ティルは黙って、はみ出した二字を線で消し、欄の中に小さく書き直した。
書きながら、ティルの左手が胸の高さの壁に伸びて、手のひらを当てた。
「壁は」
「冷たいです。下のほうは、じっとりしてて」
「どこから下だよ」
ティルは自分の腰骨のあたりを叩いた。
「ここ。……床から、九十センチくらい」
それも書かせた。
「壁が湿ってるのなんか、坑道じゃ当たり前ですよ」
「当たり前のことも、書いてなきゃ、ないことになるんだよ」
ティルは戸口の向こうの、完了の札が打たれた柱へちらりと目をやって、黙った。
「掘ったのは、どこまで」
「レールの終わりより、もっと先の、ずっと奥の……」
ティルの手が、宙で遠くを指した。
「何歩」
「数えたことないです」
「じゃあ、柱で。あんたが組んだんだろ」
ティルの指が、一本ずつ折られ、開き、また折られた。数といっしょに、唇が動いていた。三十本を過ぎたあたりで「これは親方に怒られたやつ」とつぶやいたのが、レトにも聞こえた。数え直して、何度目かで、ティルは顔を上げた。
「四十二本目の先です。そこから先は、掘るのが止まってます」
「全部覚えてんのかよ」
「組んだやつは」
ティルは当たり前のように言った。レトは、工房の前の水路の石を思い出した。どの段のどの石が冬にどう鳴るか、レトにも全部言える。
「陣は」
「床に銀の線が引いてあって、それが手前で、ぷつって」
「ぷつって、は書けないだろ」
言ってから、レトは口をつぐんだ。ミレアの言い方だった。横目でうかがうと、ミレアは窓の外を向いている。組んだ腕の先で、指が一本、自分の肘をとんとんと叩いていた。
「……何本目と、何本目のあいだだよ」
「四十本目と、四十一本目のあいだです」
ティルのペンが、欄の中で行を足していった。柱の音、壁の湿り、掘り止めた所、陣の切れた所。どれも、ティルの手が覚えていた話だ。
「どの状態へ」の欄まで来て、ペンが止まった。いい感じに直す、の一行が、まだそこにある。
「ここは、なんて書けばいいんですか」
レトは少し黙った。
「……そこは、あと」
「あと、って」
「申請が一回だけ通ったときは、石に手を当てて、どうなってりゃいいか分かったから書けたんだ。ここの奥は、まだ触ってない」
ティルは、机の端の十三枚を見た。
「落ちた人の言うことですもんね」
「うるさいな」
うしろで、紙袋の口を開ける音がした。振り向くと、ミレアは窓のほうを向いたまま、焼き菓子を一つ、かじっていた。
最後は「どの範囲で」だった。どこからどこまでを直すのか。ティルは壁に留めてあった坑道の図面をはがして、机に広げた。角の丸まった古い図面で、柱の位置に小さな点が打ってある。ティルは申請書と図面を見比べながら、入口から奥へ、点を一つずつ指でたどっていった。
四十本目のあたりで、その指が止まった。陣が切れていると言った、あの柱のあいだだった。ティルは図面を見て、それから自分の手のひらを見た。組んだ柱なら一本残らず覚えている手だった。
顔を上げた。
「そういえば……坑道の奥に、図面にない補強があるんです」




