第16話 空白の一刻
グラウは白い欄に指を置いたまま、所長のほうへ向き直った。
「勘定を申しますと、三つでございます。一つ、町から地下へ回したのは七百万マナ。町の計量器でも、七百万減っていなければなりません。二つ、針の止まったこの一刻だけ、数字がございません。白紙のままなら、天税庁は、町がふだんどおり使ったものとして埋めます。それでは、七百万の減りがどこにも出てまいりません。三つ、こちらで数字を入れるには、この一刻のうち、町がいつからいつまで暗かったかを、ほかの記録で押さえることでございます。押さえられれば、あとは控えから推計で出せます」
レトは、白い欄と壁の針を見比べた。
「……暗くなった刻と、明るくなった刻が分かりゃいいんだな」
グラウが、欄から指を離さずにうなずいた。
弁の前から、ネイラが言った。
「ふだんどおりには、使っていません。町は、止めました」
所長が、ネイラのほうを見ずに言った。
「それを、課長の申告ではなく、ほかの記録で出してください」
ネイラは口を閉じた。首の流量計に添えかけた手が、途中で下りた。
グラウは綴りを閉じて、腕貫の手で抱え直した。
「では、向こうに埋められる前に、こちらで埋めましょう。残っている記録から数字を推し量る、推計で」
所長は壁の針を一度見上げてから、書記に言った。
「査問は、推計が出しだい再開します」
**
グラウの事務所の机に、得意先六十軒の計量の控えが積み上がった。グラウは一冊ずつ、町を止めていた晩と同じ刻の頁を開いては閉じていく。唇だけが動いて、そろばんの音はしない。レトが横からのぞくと、どの年の控えにも、ハイネ工房の欄があった。日が傾くころには、同じ刻に町がふだんどれだけ使うかが、端数まで出ていた。
「あとは、その刻に町が本当に止まっていたか、でございますな」
裏づけは、レトとミレアが町を回って集めることになった。
「あの夜、何刻から何刻まで暗かったか、覚えていらっしゃいますか」
ミレアが聞くたびに、相手は首をひねった。暗かったのは覚えている。刻までは覚えていない。金物屋の隠居は、腕を組んで長いこと考えてから言った。
「暗くて、時計が見えんかった」
ミレアは、その一言もそのまま帳面に書きとめた。三軒目を出たところで、レトは言った。
「そんな聞き方で、答えられるやついないって」
「じゃあ、あんたが聞きなさい」
ハイネ工房の隣のパン屋のおかみは、粉のついた手を前掛けで拭きながら出てきた。
「親父さんの脚は、どうだい」
「まだ現場には出てない。……それよりさ、あの晩、暗くなったのって、いつだった?」
「いつって言われてもねえ」
「通りの槌の音は? 夜なべの」
おかみの手が止まった。
「……そうだ。槌の音がやんで、すぐだよ。窯の火も落ちて、それっきり朝まで手探りさ。朝のパンが、一個も焼けなかった」
ミレアのペンが帳面の上を走った。レトは、通りに並んだ工房の看板を見上げた。
「親方は、夜なべをやめたら日誌に刻をつける。うちの親父もだ」
「ああ、つけてるね。この通りの親方は、みんなそうさ」
おかみはそう言ってから、奥の冷えた窯のほうを振り返った。
「あの晩は、いつもより暗かったよ」
レトは、あの晩の灯りは俺の修繕に回ったんだ、と言いかけて、やめた。
ミレアがペンを止めて、おかみに帳面を向けた。
「今のお言葉、このまま書いてよろしいですか」
「いいけど、そんなこと書いてどうすんだい」
「神様に出します」
それから、レトは通りの工房の戸を、一軒ずつたたいて回った。
「ハイネのせがれだけど。あの晩の日誌、ちょっと貸してくんない?」
鍛冶屋の親方は「ドーマんとこのか」と言って、棚から煤けた日誌を下ろした。ほかの親方も、名前を聞くと同じように出してくれた。
パン屋の前の縁台に、借りてきた日誌が並んだ。どの日誌も、あの晩の頁は、夜なべをやめた刻で終わっている。並べてみると、その刻が家ごとに少しずつずれていた。
「どれを書けばいいのよ」
ミレアが、ペンの尻で縁台をたたいた。レトは、いちばん遅い刻の書いてある一冊を、上に載せた。
「いちばん遅くまで叩いてた家の刻を取る」
「早い家の刻を取れば、止めた分は多く出るでしょ」
「早くやめた家は、灯りが落ちたからやめたのか、ただ切り上げたのか、日誌じゃ分かんないだろ。いちばん遅い家なら、灯りが落ちるまで叩いてた」
レトは、その一冊を縁台の真ん中へ押し出した。
「それに、多く書いたら盛ったことになる。親父の見積もりだって、盛った数字を役所に出したら一回で突っ返される。神様に出すのも同じだろ」
ミレアはレトの顔を見て、それから、その一冊の刻を帳面に書き写した。
柵のほうへ歩きながら、ミレアが帳面を閉じた。
「槌の音で聞くなんて、どこで覚えたの」
「覚えてない。あの通りに住んでりゃ、分かるじゃん」
「分からないでしょ、普通は」
「……そうなのか」
ミレアは、柵の向こうの空き地のほうへ目をやった。
「冒険者の人たちって、撃ったら帳面につけるのよね。あの夜、柵の番は誰だったの」
「セルマのばあちゃんだ。……暗い中で撃ってりゃ、刻も書いてるか」
柵の手前で番をしていたセルマに話すと、夕方、グラウの事務所まで来てくれた。年寄りの冒険者は、灯りの消えた晩に柵のそばで撃った弾の記録簿を、机に置いた。一発ごとに刻を書いた行が、帳面一冊ぶん続いている。セルマは終わりのほうの行の、角の丸い印鑑の跡を指でたたいた。
「灯りが戻ってから撃ったのは、終わりの二発さね」
「一発ずつ、刻まで書いてたのかよ。ばあちゃん」
「撃ったら書く。それだけさね」
グラウは記録簿を自分のほうへ向けて、頁を一枚ずつめくった。
「行き届いた帳面でございますな」
「あんたの棚ほどじゃないさね」
グラウは記録簿を、机の真ん中に置き直した。
「証言は証言。数字にいたしましょう」
グラウの指が、終わりから三つ目の行を押さえた。
「暗いうちに撃った最後の一発が、これでございますな。少なくともこの刻までは、町は暗かった、といたしましょう」
グラウは推計の綴りに、一行ごとに根拠を書きつけていった。書き終えてペンを置くと、目を閉じて、唇を小さく動かした。
「町が止めた分を足しまして、六百九十九万六千七百二十五マナ。町から回した七百万とは、三千二百七十五マナの違い。計量器の目盛りの、誤差の内でございます」
「……目盛りの読み違いくらいしか、違わないってことか」
「さようで」
グラウは胸に並んだ二つの資格章のうち、税理術士の章を指で押さえて、綴りの末尾に判を押した。
「話、ついたのかよ」
グラウは判を置いた。
「つきました」
ミレアが、ペンに蓋をした。
「これで、勘定が締まります」
ミレアはその場で推計の写しをザイム様との協議記録に綴じ、封をした。帰りに小神殿の窓口へ預けると、封筒は台の上でひとりでに折れて紙の鳥になり、夕焼けの空へ上がっていった。レトは窓口の前で、紙の鳥が屋根の向こうに見えなくなるまで見送った。
**
その夜、工房の作業台で、レトは槌を握り直した。
いつもなら途中で止まる左の指が、柄の木目に沿って、もう一段深く閉じた。手のひらに、柄の丸みがじかに当たる。地下から戻ってこのかた、届かなかった所だ。試しに作業台の端の石を叩くと、返ってきた音は、右手で叩くときの音に少し近づいていた。
拳の最後のひと締めは、まだ入らない。
奥の作業台で、親父の槌の音が一つだけ途切れて、また続いた。
**
次の査問の日、二階のいちばん奥の部屋では、机の前の椅子が三つになっていた。端の一つに、グラウが座った。
グラウは推計の綴りを開いて、一行ずつ読み上げた。六十軒の控えの数字。通りの工房の日誌の、槌のやんだ刻。冒険者の記録簿の刻。
「パン屋のおかみ、証言。窯の火、落ちる。『あの晩は、いつもより暗かったよ』」
端数を読むときと同じ低く平らな声のまま、グラウはその一行を読んで、次へ進んだ。ネイラは前を向いたまま、まばたきを一つした。
所長は流量計の控えを手もとに置いて、一行ごとに見比べていた。そのペン先が、パン屋の証言の行で止まった。読み終えると、所長はもう一度、頭から読んだ。
「暗かった刻の始まりは、何を根拠に」
「通りの工房の日誌でございます。集めて刻をそろえたのは、そちらのハイネさんで」
グラウが、手のひらで長椅子のほうを示した。所長の目が、レトに来た。
「後ろの方。どうそろえましたか」
レトは長椅子から立った。
「灯りが落ちたら、通りの槌は一軒残らず止まる。だから、いちばん遅くまで叩いてた家の刻を取りました」
所長はうなずいた。
「記録します」
書記のペンが動いた。レトが長椅子に腰を下ろすと、所長は綴りに目を戻した。
「暗かった刻の終わりは、何を根拠に」
「冒険者の記録簿の、暗いうちに撃った最後の一発でございます。少ないほうを取っております」
「わかりました」
部屋には、書記のペンの音だけがしていた。
所長は綴りを閉じた。
「照会三回、返信なし。回した量は、判のとおり。規定上は、代決の範囲です」
長椅子の端で、ガルムの組んでいた腕がほどけた。低い声が、ネイラの背中に落ちた。
「……だとよ、ネイラ」
所長は書類を一枚抜き出して、判を押した。配分課長ネイラ・アデルをその職にとどめる、と書いてある。所長はそれを、机の向こうへ差し出した。
「次の配分計画からは、私の判を通してください」
ネイラは立ち上がって一礼し、両手で受け取った。首の流量計が、長衣の胸で一度だけ揺れた。
レトは長椅子の上で、ミレアに顔を寄せた。
「……残ったんだよな」
「残ったの。条件付きで」
「条件付きって、どっかで聞いたな」
「あんたの左手でしょ」
本日の不受理
申請:あの晩焼けなかった朝のパンを、推計で焼いたことにすること
申請者:パン屋のおかみ
結果:不受理(理由:推計では、腹はふくれません)




