第15話 灯りを食う糸
誰も、すぐには口をきかなかった。
グラウだけが綴りを胸に抱えたまま、隠しから懐中時計を出して、頁の余白に何か書きつけた。
「止まった刻を、控えております」
所長が壁の針から目を離さずに、うなずいた。
ガルムが、天井の明かり取りの窓を見上げた。
「町が、また止まったのか」
ネイラが首の流量計を襟から引き出して、針を読んだ。
「流れています。止まったのは、この部屋の針だけです」
壁に並んだ計量器のガラスの窓が、内側から息を吹きかけたように薄く曇りはじめた。一つ、また一つ。端の窓から順に、白くなっていく。
天井の魔導灯が、じわじわと暗くなっていった。ふっと消えるのとは違う。芯を少しずつ引き抜かれていくように、明るさだけが細っていく。
「……なんだよ、これ」
レトの声が、思ったより小さく部屋に落ちた。書記の手から、ペンが転がった。
壁の裏の管の継ぎ目から、何かが這い出してきた。灯心のように細く、よじれた光だった。一本、また一本。光の糸は壁をゆっくり這い、ガラスの丸い窓に触れるたびに、その窓の曇りを濃くした。
「灯喰いです」
ネイラが言った。いつもの、平らな声だった。
「灯りとマナを吸います。計量器の管を伝ってきました」
ガルムの手が、腰の銃へ動いた。抜きかけて、止まった。
「……ここは柵の向こうじゃねえ。この弾は撃てねえ」
銃から離れた指が、行き場をなくして拳になった。
糸の一本が、ネイラの胸もとへ首をもたげた。首から下げた真鍮の流量計の針が、ぴくりと沈んだ。
ネイラは流量計を襟の内へ押しこみ、壁の下に並んだ計量の弁の前へ出た。
「流れを絞ります。食う物を減らします」
「東通り、閉めます」
一本目の弁が、きしんで回った。
「西通り、閉めます」
弁が閉じるたびに、管の中の流れが細くなった。継ぎ目から出かかっていた糸が、餌を取り上げられたようにしぼむ。
三本目の弁は固かった。ネイラが両手で握り直しても、取っ手は半分も回らない。
ガルムが大股で寄って、ネイラの手の上から取っ手をつかんだ。
「どけ、ネイラ」
太い腕に筋が浮いて、弁が、がくん、と回りきった。
「旧市街、閉まりました。残り、二本です」
ネイラは礼も言わずに、次の弁へ移った。ガルムも何も言わずに、その隣へついた。
「北通り、閉めます。……新市街、閉めます」
最後の弁が閉じても、天井の灯りは戻らなかった。糸の何本かが天井まで這い上がって、魔導灯の金具に巻きついている。書記の机の小さな卓上灯が、ちりっと鳴って、それきり点かなくなった。部屋の隅から、暗さがにじり寄ってくる。吐いた息が、うっすら白い。
餌を細くされても、糸は消えなかった。管の中に残ったわずかな流れに、しがみついている。
グラウは検針の綴りを胸に抱えて、壁際まで下がっていた。
「じいさん、もっと離れろって」
「手前はよろしいので。綴りのほうが、替えがききません」
ミレアは資格章に手を当てたまま、壁を這う糸をにらんでいた。章は、まだ光っていない。
「……泥獣なら、まとってる土か水かを見ればいい。でも、これは管から出てきた。管の中を流れてるのは、マナよ」
「だったら灯りだろ」
「灯りかもしれないし、管の持ち主の、別の神様かもしれない。外したら、通らないの。見ても分からないものは、確認できない」
弁の前から、ネイラが言った。
「所管が取れなければ、弁は朝まで閉めたままにします。そのあいだ、町の計量はすべて止まります」
ミレアの指が、章の上で一度こわばった。
レトの口が、先に動いた。
「見りゃ分かる……」
言いかけて、閉じた。見ても、ただの光の糸だった。
「……いや、見ても分かんないな」
レトは継ぎ目のほうへ足を踏み出した。その襟首を、太い指がつかんだ。弁から離れたガルムだった。
「坊主、どこへ行く」
「触んなきゃ、分かんないだろ」
ガルムは、レトの目を一拍だけ見た。それから襟首を放した。
「手だけだ。顔は近づけるな」
「レト。急いで」
「急かすなよ」
「急かしてるの」
レトは、糸がまだ尾を引いている継ぎ目の、指一本ぶん手前の管に、左の手のひらを当てた。
地下で泥獣に触れたときの、のしかかってくる重さはなかった。生き物の脈もない。管は冷たかった。冷たいのに、触れた先から、明るさだけが指のあいだを逃げていく。つかもうとしたときには、もうない。
石なら、叩けば音が返ってくる。水なら、重さが返ってくる。これは、手のひらから取っていくだけで、何も返してこなかった。
継ぎ目から垂れた糸の先が、レトの指のほうへ向きを変えた。爪の先から、感覚が薄くなっていく。後ろで、ガルムの靴が床をこすった。
レトは手を離さないまま言った。「灯りの側だ」
「確かなの」
「流れの重さが、どこにも来ない。持ってかれるのは、明るさだけだ」
ミレアが、章を押さえた。
『本件、所管は、灯りに燃やすマナと確認する』
暗くなった部屋で、胸の章が光った。光ったまま、消えなかった。
消えかけた魔導灯のガラスが、内側から一度だけ、澄んだ音を立てた。天井よりずっと上のほうで、誰かが厚い帳面を一枚めくったような気配があった。紙の擦れる音はしないのに、部屋じゅうの空気が、その一枚ぶんだけ動いた。レトの首筋が、ひとりでに粟立った。
糸が、いっせいに震えた。よじれがほどけ、細い光の筋になって、継ぎ目から管の中へ吸いこまれていく。魔導灯の金具に巻きついていた最後の一本が、天井からするりと下りてきて、ネイラの足もとの弁のあたりで、すっと消えた。
天井の魔導灯が、ゆっくりと明るさを取り戻した。ガラスの曇りが、縁から引いていく。ネイラが弁を一本ずつ開け戻すと、止まっていた針が、端の一本から、一つずつ動き出した。
ガルムが長い息を吐いた。それから大股でレトの前へ来て、左の手首をつかんだ。手のひらを上に向けさせ、太い親指で指の腹を一本ずつ押していく。
「冷えただけだ。……顔は近づけてねえな」
「近づけてないって」
「近づけてたでしょ、半分くらい」
ミレアが言った。レトは返事のかわりに、手首を引き抜いた。
所長は壁の前に立ったまま、最後まで一歩も動いていなかった。
「書記。今の刻を」
「止まった刻と、動いた刻と。控えてございます」
グラウが答えた。書記は床から拾ったペンを持ち直した。
ミレアが章から手を離した。レトは管の継ぎ目を見たまま聞いた。
「……今の、どこへ還ったんだよ」
「ケイザー様」
「会館に補助を出した神様かよ」
「灯りに燃やすマナも、ケイザー様の受け持ちよ。……覚えた?」
「今、覚えた」
それで、思い出した。レトは綴りを抱えたままのグラウのほうへ向き直り、首の後ろを掻いた。
「じいさん。さっき、章が二枚あるならお前の中で話し合えって言ったの……悪かった」
グラウは、胸の二つの章を一度ずつ見下ろした。
「二枚とも、気にしておりません」
レトはもう一度、灯喰いの出てきた継ぎ目の管に手を当てた。中を流れるマナは、指先にやっと分かるほど細かった。工房の炉へ来る流れと比べたら、糸と川ほども違う。
「これっぽっちを食ってたのかよ」
ネイラが、開け戻した弁の目盛りを読んだ。
「針を動かす分だけです。食われれば、針は止まります」
レトは壁を見上げた。端から端まで並んだ針が、また細かく震えている。さっき、一本残らず音をそろえて止まった針だった。
「……町を止めたあの夜も、こいつが?」
グラウが壁際から戻ってきて、机に綴りを開いた。あの夜の、数字が空いた頁だった。刻の書きこみの下に、何も書かれていない欄が並んでいる。
グラウは、その一刻に指を置いた。
「ここの針が止まっていたのなら、そうでございましょう」
指は、白い欄の上から動かなかった。
「神様がご覧になるのも、この針の数字だけ。この一刻、神様の帳面も白紙でございますな」




