第14話 数字を出してください
ガルムは腕を組んだまま、所長の目を受けた。
「自分は、測ってねえ数字は出せねえ。ネイラの出した数字なら、そこにあるだろう」
所長はうなずきもせずに、綴りに目を落とした。
広げた頁には、あの夜のネイラの言い分が、本人の字のまま残っていた。浄水と治癒と結界には手をつけず、町の灯りと電信と工房を止めて、そのぶんを地下へ回した、と。
「地下へ流れたのは、流量計で八百万。備蓄から出した百万を除けば、町から回したのは七百万。本当に町から止めた分なら、町の家と工房の計量器でも、七百万減っているはずです」
「減っています」
ネイラが言った。所長は綴りから目を上げなかった。
「課長の流量計の数字は、課長の数字です」
レトは長椅子の上で、また腰を浮かせかけた。
「……疑ってんのかよ」
「確かめています」
ミレアの肘が脇腹に来る前に、レトは自分で座り直した。
「突き合わせは、一階の計量の部屋で行います。午後に」
所長は綴りを閉じて、席を立った。書記が慌ててペンを拭いた。
「数字の読める方を、そちらで一人立ててください。課長以外で」
誰も答えないうちに、所長は言い足した。
「綴りも計量器も、配分所の物です。こちらの者が読めば、こちらの数字にしかなりません」
廊下に出ると、ガルムが首の後ろを掻いた。
「脈なら読めるが、帳面の数字はさっぱりだ」
「行政術士も、計量の照合はできません」
ミレアが書類鞄を抱え直した。ネイラは何も言わなかった。
レトは石の壁の継ぎ目を、指でなぞっていた。数字の読める年寄りなら、一人だけ知っている。
「……うちの天税、親父の代から見てもらってるじいさんがいる」
ミレアが振り向いた。
「税理術士? 会計術士?」
「知らない。天税の人」
「資格の名前くらい覚えなさい。頼む相手でしょ」
「数字が合うか見てくれる人だって。それで足りるだろ」
ミレアは天井を仰いだ。ガルムが、レトの背中を一度たたいた。
「連れてこい、坊主。午後までだ」
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グラウ・ベルカの事務所は、旧市街の坂の途中の、自宅の一階にあった。
戸を開けると、紙と墨のにおいがした。壁の棚には、紐で綴じた分厚い控えの帳面が、背に年を書いて天井まで並んでいる。机の向こうで、黒い腕貫をした小柄な年寄りが顔を上げた。工房が使ったマナに応じて神様に納める天税の勘定は、毎年この人の机を通っている。
「おや。ハイネさんのところの。お父上の脚は、いかがでございますか」
「作業台には戻った。……あのさ、配分所で、数字が合うか見てほしいんだ。今日の午後。だいたいでいいから」
グラウは、ペンを置いた。
「だいたい、は手前の仕事にはございません。……流量計で出た量と、町の計量器で減った量を、突き合わせる。そういうことでございますな」
「それ。たぶん、それ」
「たぶん、も、ございません」
それから棚の、いちばん新しい年の帳面を一冊抜いて、腕貫をした手で抱えた。得意先の、月ごとの計量の控えだった。もう、行くことに決まっているらしかった。
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庁舎の一階の奥では、ミレアたちが先に来て、所長と並んで待っていた。所長はグラウの顔を見ると、ほんの一拍、口を閉じた。
「……ベルカさんですか」
「まだ、やっております」
所長はそれ以上何も言わず、部屋の戸を開けた。書記がペンを構えると、グラウは名乗った。
「税理術士、会計術士、グラウ・ベルカでございます」
胸には、資格章が二つ並んでいた。ガルムが自分の胸の章とグラウの胸を見比べて、ふん、と鼻を鳴らした。
「あんたも二枚か」
「手前は、四十年ほど二枚でございます」
ミレアが、小声で言った。
「帳簿の突き合わせが会計術士。天税の書類が税理術士。……覚えた?」
「今、覚えた」
計量の部屋の壁には、端から端まで、ガラスの丸い窓が並んでいた。窓の一つ一つで、細い針が震えている。町じゅうの家と工房の計量器が、壁の裏の管でこの部屋につながっているのだと、所長が短く言った。
レトは手近な窓をのぞいた。針は、細かく震えているだけだった。
「これ、止まったりすんの?」
所長は、窓のほうを見もせずに答えた。
「近ごろ、針がときどき止まると、町から苦情が来ています。三件です。今日は、その話ではありません」
そのまま続けた。
「針が指すのは、今の流れだけです。前の刻にどれだけ使ったかは、そちらの綴りに残してあります」
書記が棚から、紐で綴じた分厚い検針の綴りを下ろした。一刻、時計の長い針が一回りするごとに一枚。通りの名前と番地が並び、その横に、それぞれの家がその刻に使ったマナが書いてある。
グラウは止める前の刻の頁を左に開いたまま、右の頁をめくった。
「では、止めた最初の刻から、読み上げてまいります。東通り、三番。止める前、六百十二マナ。この刻、九十八マナ。五百十四マナ減」
声は低く、平らで、一軒も飛ばさなかった。読み上げた数字は、そのまま口の中で足されていくらしい。石垣の端から端まで、槌で一つずつ叩いて音を聞いていくのに、どこか似ていた。
レトは机の上を見回した。そろばんが、どこにもない。
「じいさん、そろばんは?」
「持っておりません。重いので」
所長は流量計の控えを手に持ったまま、グラウの読み上げと見比べていた。ミレアは自分の帳面にも数字を写しはじめたが、三頁目で、ペンを置いた。
「……追いつかない」
「先生は、写さずとも結構でございます。手前が端数まで覚えております」
工房の欄に来ると、止める前の数字は一桁増えた。ハイネ工房の欄も通った。止めてからは、どの刻も、ゼロマナ。槌の音のしなかった夜が、数字になっていた。
綴りが半分ほど進んだところで、その声が途切れた。
グラウの指が、ある頁の上で止まっていた。
レトは横から首を伸ばした。頁の一番上に、刻の書きこみがある。その下に並ぶ通りの名前の横が、どの家の欄も、どの工房の欄も、空いていた。一行残らず。
「その刻は、地下へ流していた刻です」
ネイラが言った。
あのとき地上がどれだけ暗かったのか、レトは知らない。手のひらの下の石しか、見ていなかった。
グラウは一枚前と一枚後の頁を一度ずつめくって、空いた頁に戻った。
「止めていたあいだの刻を、この一刻を除いて足しますと、減った分は四百三十一万二千六百五マナでございます。七百万には、四割近く足りません。この一刻の数字がなければ、町が止めた分は足し上がりませんな」
所長が、手の中の控えから目を上げた。
グラウは胸に並んだ二つの資格章を、一つずつ指で押さえた。
「綴りに書いてある数字には、誤りが一つもございません。会計術士としてなら、判を押せます。税理術士としては、この一刻にどれだけ使われたか分からねば、納める天税の額が出せません。押せませんな」
部屋が静かになった。壁の流量計の針だけが、細かく震えていた。
二つの章が、一つの胸の上で、反対のことを言っている。後ろでのぞきこんでいたレトは、思わず声を出した。
「その二枚、お前の中で話し合えよ」
ミレアが、レトの袖を思いきり引いた。ガルムが口を手で覆って、肩だけ揺らした。所長は眉一つ動かさなかった。
グラウは気を悪くしたふうもなかった。
「話し合っております。いま、話がつかないのでございます」
「判が片方では、突き合わせは済みません」
所長が言った。ネイラは前を向いたまま、首の流量計を握った。
ミレアが、レトの耳もとで低く言った。
「この突き合わせが済まないと、ザイム様の精算が締まらない。……あんたの左手の担保の、ザイム様の分もよ」
レトは、自分の左手を見下ろした。指は、握れるところまでしか閉じなかった。
グラウは綴りを引き寄せ、空いた頁の一枚前と一枚後を、一軒ずつ指でたどりはじめた。東通り、三番。四番。唇だけが、小さく数字を刻んでいく。
ミレアが、同じ低い声で一言足した。
「二枚の件、あとで謝りなさい」
「なんでだよ。本当のことだろ」
「本当のことだから、よ」
レトは返事のかわりに、壁の針を見上げた。今の流れを指す針が、端から端まで並んでいる。あの夜、この針も動いていたはずだ。動いていたなら、誰かが綴りに書いたはずだ。
そのとき、針の一本が、かすかに震え方を変えた。
レトが目を寄せた次の瞬間、壁に並んだ針が、一本残らず、ことり、と音をそろえて止まった。




