第13話 母さんの窓口
査問は、所長の「代理人の届けは、様式で出してください。続きは明朝です」の一言で打ち切られた。
ネイラは椅子に座ったまま、手帳に何かを書きつけていた。その背中に誰も声をかけられないまま、レトたちは部屋を出た。廊下に出たところで、ガルムがレトの襟首をつかんだ。
「坊主、お前も来い。お前の書類もある」
昼過ぎには、レトは治癒院の奥の小部屋にいた。ミレアも、頼まれもしないのについてきた。寝台が一つと、窓際に小さな机と椅子、干した薬草の束を吊るした棚があるだけの部屋だ。
ガルムは窓際の椅子に腰を下ろすと、治癒衣の胸から資格章を二つとも外した。手のひらに並べてしばらく見比べ、治癒師の章を下の段に、深緑の縁取りが一本多い章を上の段に付け直した。労務術士の章だ。
戸口の外の廊下では、ミレアが壁の棚を机の代わりにして、代理人の届けの様式を書き写していた。配分所でもらえた見本は一枚きりだった。窓口の係は棚の奥から黄ばんだ紙を探し出してきて、代理人の届けなんて十年ぶりです、と言ったらしい。ミレアはそれを付箋で棚に留め、一字ずつ写している。
ガルムは立って戸口まで行き、付け直した章を、太い指でこつんとたたいてみせた。
「査問は、許可の話じゃねえ。人の身分の話だ。課長の席を外すかどうかなら、働く者の書類だ。こっちの章で出せる」
「存じています」
ミレアはペンを止めずに答えた。所長に受け取ってもらえなかった用紙は、書類鞄の底にしまったままだった。
寝台の端に腰かけていたレトは、目を丸くした。
「おっちゃん、さっきまで治癒師だっただろ」
「治癒師のわしは、いま休憩中だ」
「章に、休憩中という決まりはありません」
廊下から、ミレアの声だけが飛んできた。
「わしの決まりだ」
ガルムが豪快に笑い、棚の薬草の束が揺れた。
ミレアは写し終えた様式を棚に置いて乾かすと、書類鞄から紙を二枚抜いて部屋に入ってきた。どちらにも「コーロー様」と書いた付箋が立っている。事務所で山に分けていた添付書類のうちの二枚だ。
「オウガ先生。こちらも、お願いします。私では書けませんので」
「ミレアが書けばいいって。書類、得意だろ」
「書けないの」
ミレアはレトのほうを見ずに言った。
「命と、働く人の書類は、労務術士の受け持ち。中身が合ってても、あたしが書いたら、それだけで受理されないの」
「査問の代理も、これもかよ」
「……そう」
言い返しは、それきりだった。
代理人の届けのほかに、この章でなければ書けない書類が二つあった。事前着手で命を削った者が出す生命力使用報告書と、それに添える、ドーマの休業の届出だ。同じ崩落の夜の届出だから、一緒に出す。
ガルムは先に、休業の届出を引き寄せた。
「ドーマは、いま何してる」
「作業台で鉋かけてる。現場には出てない」
「なら、そう書く」
作業台の仕事に限って就く、現場の仕事は休む、とガルムは大きな角ばった字で書いた。
それから報告書を机に広げた。氏名、生まれた年、事前着手をした日時と場所。上の欄から順に埋まっていく。
報告書のなかほどに、あの夜レトがどれだけ命を削ったかを書く欄があった。左手の担保を外すのに要る欄だ。ガルムのペンは、そこを飛ばして下へ行った。
「書かないのかよ。おっちゃん、ずっと俺のこと見てただろ」
「見てただけだ。道具で測ってねえ数字は書けねえ。書けるのは、見たことだけだ」
「空いてても、受理はされる」
机の端から、ミレアが言った。様式のいちばん下の小さな注を、ペン先でさしている。測れなかったときは、立ち会った治癒師か労務術士の所見で代える、と刷ってあった。
「空欄だからって、左手の不利にはならない。でっちあげた数字のほうが、一生通らないわよ」
ガルムは数字の欄を空けたまま、その下の「所見」と刷られた枠に書きこんでいった。レトが机の向こうから逆さまに読むと、顔色は紙のよう、唇は紫、左手の指先は石に当てたまま震えが止まらず、とあった。
読んでいるうちに、あの冷たい石の手ざわりが、指先に戻ってきた。
ガルムはペンを置いた。
「左手、出せ」
レトは言われたとおりに出した。指を閉じると、最後のひと締めのところで、どうしても止まる。ガルムはしばらくそれを見ていた。それから手を伸ばして、レトの左の手首を太い指で押さえた。地下で、石に手を当てていたときに押さえられたのと、同じ所だった。
「もう一回やったら、戻らねえぞ」
低く、静かな声だった。
「命は、寝ても、わしが治しても戻らねえ」
指は重かった。押さえられているのは手首だけなのに、体ごと寝台に押しつけられたようで、レトは返事ができなかった。
ミレアは、付箋を一枚剥がして黙った。
**
コーローの小神殿は、治癒院の隣にある。あの夜、申請を出しに駆けこんだ夜間窓口と、同じ格子の窓口だった。
入口の前で、レトの足が鈍った。
「……ここ、母さんの窓口じゃん」
「ほかにコーロー様の窓口があるか」
ガルムは二つの書類を入れた封筒を持って、さっさと中へ入った。レトはそのうしろについた。待合の長椅子では、腕を吊った石切りの職人が一人、自分の番を待っていた。
格子の向こうには、母のペトゥラが座っていた。白い神官の長衣に、深緑の帯を締めている。
「ご用件を承ります」
「労務術士、ガルム・オウガ。生命力使用報告書と、添付の休業の届出だ。本人の代理で出す」
「印鑑はお持ちですか」
ガルムは治癒衣の懐から、レトの拳ほどもある印を出して、どんと押した。格子が少し鳴った。
ペトゥラは封筒から書類を出し、欄が埋まっているかだけを指でなぞって確かめはじめた。中身は読まない。
袖口に朱肉の跡のあるその指が、なかほどで一度だけ止まった。空いたままの、息子の命の欄の上だった。
ペトゥラは顔を上げず、レトのほうも見なかった。指はそのまま所見の枠へ下りて、ガルムの角ばった字の上を通りすぎ、最後の欄まで行った。
「受け付けました」
いつもの、窓口の声だった。
出口でレトは、格子のほうを振り返った。母はもう、腕を吊った職人の書類に目を落としていた。
「……母さん、何も言わなかったな」
「窓口だからな」
外に出ると、ガルムは胸の章を二つとも外して、上と下を入れ替えた。
「治癒師のわしの、休憩はしまいだ」
そう言って、治癒院の戸口へ戻っていった。中から、主任、三番の寝台です、と若い治癒師の呼ぶ声がした。
レトは左手をポケットに入れた。手首には、まだ指の重さが残っていた。
**
翌朝、配分所の二階のいちばん奥の部屋は、きのうと同じように窓が閉めきってあった。ただ、机の前の椅子が二つに増えていた。
片方にネイラが、もう片方にガルムが座った。ガルムの胸では、深緑の縁取りが一本多い章が、また上の段に来ている。治癒衣の上に、灰白の長いコートを着こんでいた。
レトはきのうと同じ長椅子の端に、ミレアと並んで座った。ミレアは書類鞄を膝に抱えて、背筋を伸ばしたまま前を見ている。
所長はガルムの出した届けに目を通し、胸の章に一度目をやった。
「きのうは、治癒院の主任と名乗られましたが」
「今日は、こっちの章で来た」
書記のペンが一瞬止まって、それから律儀に動いた。長椅子の上で、ミレアが目を閉じた。
所長は表情を変えずに、届けを書記に回した。
「代理人、労務術士、ガルム・オウガ。受けます」
ネイラは前を向いたまま、首の流量計に手を添えた。膝の上の手帳は、閉じたままだった。
所長は記録の綴りを広げた。それから顔を上げて、ネイラではなく、ガルムを見た。
「地下へ回したマナの、数字を出してください」
サカドの診断
診断の対象:胸の章を、上と下で付け替える治癒師
所見:章を入れ替えるたびに、引き受ける仕事が一つ増えている。休めと言う側が、いちばん休んでいないのは、よくある症状だな。
処方:休ませる人ほど、誰かに見ていてもらう必要がある。この先を見張る役なら、ブックマークを一つ置いてくれ。続きは、そこから追えるだろう。




