第11話 何を直す
用途廃止の届出の用紙は、約束どおり翌朝には事務所の机にのっていた。登記と測量のメイの細い字で、持ち主の欄にも日付の欄にも書きこみが済んでいる。空いているのは、何を廃止するのかを書く一行だけだった。
「そこはあんたが書きなさい。あの地下を直したのは、レトでしょ」
ミレアはレトに自分の机を明け渡し、自分は棚の前の丸椅子で、財産処分の用紙を膝に広げていた。
座ってみると、ミレアの椅子はレトには低かった。机の端には付箋の束が色ごとに並び、ペン立てのペンは、どれも軸がインクで汚れている。うかつに肘をつくと、何かの山が崩れそうだった。
レトはペンを握って、しばらく欄をにらんだ。それから、大きな字で書いた。
振興会館の地下。
ペン先を紙から上げたところで、棚の前の丸椅子のほうから問いが来た。
「地下の、どれ? 壁の石? 床の陣? 水路?」
ミレアは、自分の用紙から顔も上げていなかった。
「陣だよ。止まってるやつ」
「陣の、どこからどこまで」
「どこって……床に描いてあるとこ、全部」
「床の溝に流しこんだ銀の模様が、陣でしょ。壁の際で、水路の石の下へ潜りこんでる所も入るの?」
レトは答えに詰まった。
銀の模様が水路の石の下へ潜っているのは、知っていた。あの夜、膝をついてその上を這ったのだ。溝の縁の冷たさは、まだ指が覚えている。
「……潜ってるとこは入れない。石をはがさないと届かないし、水路はまだ使う」
ミレアは何も言わず、ペン先で自分の用紙をたたいた。次、という合図らしかった。
「……なんで今日は直さないんだよ。いつもなら、もう線引いてるだろ」
「あの石を一つずつ積み直したのは、あたしじゃないもの。直した人の言葉で書かないと、窓口で一つ聞き返されただけで詰まるわよ」
それだけ言って、ミレアは自分の用紙に一行書き足した。
「銘板は?」
「壁に打ってあるから、壁だろ」
「模様は」
「入れる。床の溝の中の銀は、全部」
答えるたびに、頭の中の地下が狭くなっていった。壁が抜け、水路が抜け、床の溝だけが残る。
「……これ、このまま出してたら、地下ごと廃止じゃん」
「そうね。あんたが積み直した壁も、水路もね」
レトは「振興会館の地下」に線を引き、その下に書き直した。
振興会館地下の、止まった刺激陣(床の溝の銀の模様)。壁と水路は含まない。
書き終えたとき、事務所の戸がたたかれた。
近所の金物屋の子が、工房のおじさんに頼まれたと言って薄い封筒を差し出し、返事も待たずに駆けていった。
封筒の頭には、天上府の丸い印が押してあった。開けなくても、厚さで分かった。
封を切ると、見慣れた書式が出てきた。この前出してきた包括許可の十三回目も、不許可だった。
理由の欄は、一行きり。
「何を」の特定が不十分。
レトは通知を持ったまま、机の上の下書きに目を落とした。線を引いたばかりの一行が、その下にあった。
「……さっき言われたのと、同じこと言われてる」
ミレアが丸椅子から首を伸ばして、通知をのぞいた。
「包括で、何を直したいって書いたの」
「包括なんだから、まとめてだろ。大きい修繕、まとめて」
「まとめて、何を」
レトは答えなかった。廃止する物なら、いま一行に絞れた。直したい物のほうは、町じゅうの大きい修繕、としか書いていない。
通知を二つに折って、鞄に押しこもうとした。
その前に、ミレアの指が伸びてきて、折った背に付箋を一枚貼った。「十三」とだけ書いてある。
「数えとくの。あんた、束ごと持ち歩くだけでしょ」
「数えてるって。十三だろ」
「通知に書いてあるからでしょ」
レトは付箋ごと、鞄の中の十二枚の束の上に通知を重ねた。
**
工房に戻ると、親父のドーマは作業台の前に立っていた。
崩落の怪我は治癒院で塞がったが、痛めた脚だけは休ませないと戻らないと言われていて、現場にはまだ出られない。作業台で鉋をかけるのが、今の親父の仕事だった。見積もりを出して現場を回すのは、レト一人だ。
事務机には、書きかけの見積書が三枚たまっていた。去年までの控えを横に開いて、親父の書いた単価を一つずつ写していく。写しながら、この数字でよかったのか、毎回少しだけ迷う。
「親父、漆喰の単価、去年のままでいいよな」
返事の代わりに、鉋の音が一度止まって、また続いた。たぶん、いいということだ。
帳簿を開くと、市からの発注書が一枚挟まっていた。毎年この時季に来る、市場の排水溝の縁石の据え直しだ。去年と同じ件名の下に、役所の活字で一行刷り足してあった。
魔凪につき修繕費を縮減。
マナの額の欄は、去年の七割だった。役所の言葉は、「縮減」の二文字だけ読めば足りた。
帳簿を閉じたところで、店先に影が差した。
向かいの乾物屋のおかみが、前掛けで手を拭きながら、自分の店の軒を指さした。
「レトくん、うちの軒、また下がってきちゃってさ。見てくれる?」
見るまでもなかった。通るたびに、軒の端が少しずつ下がっていくのを目で拾っていた。軒を支える木の楔が痩せて、梁との間に隙間ができているのだ。楔を打ち直して、腕木を一本足せば済む。
レトが帳面に見積もりを書いて見せると、おかみは眉を下げた。
「魔冷えだからさ、どこも財布を閉めてんのよ。誰も借りないし使わないから、マナが回らないんだって。そこを何とか」
「市は魔凪で縮減、客は魔冷えで値切りかよ。呼び方が違うだけじゃん。誰も頼まなきゃ、ずっと冷えたままだろ」
「だから頼んでるじゃないの。安く」
言い返せなかった。
レトは作業台のほうを振り返った。鉋の音は同じ調子で続いていて、親父の背中はこちらを向かなかった。親父なら、ここで何と言うのか。黙って首を振るのか、黙って引き受けるのか。レトには、どちらとも分からなかった。
「……その額でいいよ」
「助かるわあ。お茶、出すからね」
**
午後の日が、乾物屋の軒の下に斜めに入っていた。
レトは脚立の上で、痩せた楔を抜き、新しい楔を梁と柱の隙間にあてがった。いつもなら左手で楔を押さえ、右手の槌で叩きこむ。けれど今の左手では、槌の振動に負けて楔が逃げる。
レトは楔に肩を当てた。体の重さで押さえつけ、右手の槌で短く叩く。三度目で楔が噛んだ。軒の端が、指一本ぶん持ち上がった。腕木を足すのは、明日だ。
脚立から下りかけて、レトは手を止めた。
通りの向かい、工房の戸口に、親父が立っていた。柱に片手をかけ、痛めた脚に体重をのせないようにして、こちらを見ている。鉋の音は、いつのまにか止んでいた。
レトは足もとの道具袋を左手から右手へ持ち替えた。左手は、甲を内側に向けて腿の横に下ろした。
親父は何も言わなかった。しばらくそうしていてから、柱から手を離し、工房の中へ戻っていった。
入れ違いに、おかみが湯気の立つ湯のみを盆にのせて出てきた。
「お父さん、見に来てたねえ。心配なのよ、やっぱり」
「……見てただけだろ」
レトは右手で湯のみを受け取った。
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夕方、レトは明日の腕木の作業に使うマナの届けを出しに、配分所へ寄った。
王府の古い石造りの庁舎の二階は、昼間の熱がまだ壁に残っていた。窓口の列には、同じような届けを持った職人が三人並んでいる。軒一本ぶんのマナの欄に、レトは小さな数字を書いた。帳簿に挟まっていた市場の縁石なら、こうはいかない。縁石は市の物で、使うマナは王府の物で、直す許可は神殿の物だ。窓口が三つある。
前の職人は、届けを三枚まとめて出していた。レトの番が来ると、窓口の若い係は欄をのぞいて、少し笑った。
「軒一本で、届けを出す人も珍しいですよ」
「出さなきゃ使えないんだろ」
「使えません」
係は笑ったまま判を押した。
控えを受け取ったとき、窓口の奥の扉が開いて、配分課長のネイラが出てきた。首に下げた真鍮の流量計が、歩くたびに長衣の胸で揺れた。
階段のほうから、制服の配達人が上がってきた。配達人は窓口の端で、ネイラに封書を一通差し出した。厚手の封筒で、裏は赤い封蝋で閉じてある。蝋に押された印は、レトにも見覚えがあった。町の掲示板に貼られる布告の、いちばん上に刷ってある王府の印だ。
ネイラは受け取りの帳面に名前を書き、封書を受け取った。
裏を返して、封蝋を一度だけ見た。流量計を読むときと同じ顔のまま、封の上で指が止まった。それから封を切らずに、奥へ持って入った。




