第10話 届け一つに、届けがもう一つ
翌日、メイは朝の鐘と同時に事務所の戸をたたいた。挨拶のあと、ミレアが空けた机の上に、紙を二枚並べた。
左は、メイが引いた地下の図面だった。古い水路の石が一つずつ描きこまれ、灰色の壁にも銀の模様の溝にも、細かい数字が添えてある。右は台帳の写しで、地下の欄は刺激陣の一行きりだ。
レトは図面の上にかがみこんだ。北側の石の列を、指で端から追っていく。
「これ、俺が積んだやつだ。ほら、ここの一個だけ、ちょっと斜めに据えてる。上の石の重さを逃がしたくてさ」
「斜めです。三ミリ」
「……そこまで描いたのか」
「測りましたので」
メイは図面を少し引き寄せて、右の写しの、陣の一行に指を置いた。
「陣の行が残っているあいだは、壁も水路も書き足せません」
「じゃあ、現況の届出はどこに書くんだよ」
「先に、陣をもう使わないと届けます。床の線は残っていても、台帳では使わない物になります。陣の行が消えてから、壁と水路を書きます」
「その行、線で消して、下に書き足せばいいだろ」
「消すのは、届けです。人の手ではありません」
レトは黙った。この人と話すと、昨日からこればかりだ。
「用途廃止の届出の用紙は、当職が揃えます。出すのは、持ち主の名前です」
「持ち主って、陣の?」
「建物のです。陣は、建物に付いている物ですから」
ミレアが写しの束から一枚抜いた。台帳の写しで、持ち主の欄には「第七地域振興公社」とあった。
「……どこだよ、それ」
「あたしが毎月、家賃を払ってるとこ」
レトは写しとミレアの顔を見比べた。
「町と銀行と地元の商会が、マナを出し合って作った会社なの。文句の行き先が三つあって、どこにも届かないの」
ミレアは付箋を一枚はがして、持ち主の欄に貼った。事務所の部屋の欄に貼った「ここも」の、すぐ隣だった。
メイは水準器の気泡を一度のぞいてから、立ち上がった。
「用紙は、明日までに揃えます。持ち主の判をもらう話は、そちらで」
来たときと同じように、メイは紙の山を一度も踏まずに出ていった。
**
その日の昼過ぎ、レトとミレアは公社の窓口へ出向いた。窓口は、新市街のはずれにあった。
旧市街の石畳を抜けると、道が急に広くなる。両側には同じ形の建物が同じ間をあけて並び、どの窓にも鎧戸が下りていた。広い道のまん中を歩いても、誰ともすれ違わない。
「こんなに建てて、誰が住むつもりだったんだよ」
「建てたときは、来ると思ってたんでしょ。住む人が」
ミレアはそれだけ言って、書類鞄を持ち替えた。
目当ての建物は、一階に空き店舗が並び、窓口は二階だった。扉の札は立派な真鍮なのに、開けると机が一つきりだった。
腰の曲がった年寄りの事務員が一人で座っていて、ミレアが用件を言うと、はいはい、と奥の棚へ綴りを探しにいった。それきり、なかなか戻ってこない。
ミレアは椅子に浅く腰かけ、書類鞄を膝にのせたまま、壁の時計を一度だけ見た。レトは座っていられず、壁ぎわを歩きながら、掛かった写真を端から見ていった。どれも茶色く褪せている。
写真には、旗を振る人だかりや、できたばかりの振興会館の前で胸を張る男たちが写っていた。二階の窓には、まだ板が打たれていない。写真の下の札には、「大魔泡時代の振興会館」とある。
奥から、綴りを抱えた事務員が戻ってきた。写真を見上げるレトの横で足を止めたので、レトは札を指さした。
「大魔泡のころって、すごい魔法がいっぱいあったのか?」
事務員は少し考えてから言った。
「魔法は、さほどでも。土地が、よう売れましたなあ。買うた土地が、次の月にはもっと高う売れた」
「土地って、置いとくだけで高くなんのかよ」
「なると思うとったんです。みんな」
事務員は札を見上げた。
「名前のとおり、泡でしたなあ」
事務員は机に戻り、ミレアの話を聞き終えると、うなずいた。
「公社の名前で出すのは、構いませんよ。判も押しましょう」
事務員は机の引き出しを上から順に開けていった。三つ目の奥から、布にくるんだ角印が出てきた。布をほどきながら、首をかしげた。
「最後に押したのは、いつでしたかなあ」
ミレアの指が、膝の上の鞄の留め金を、かちりと鳴らした。レトが息をつこうとしたところで、事務員が「ただ」と言い足した。
「もう一枚、要りますなあ」
「……もう一枚、ですか」
ミレアの声が、少し低くなった。
「あの会館は、事業の神のケイザー様の、補助のマナで建てましたでしょう。補助で建てた物の使い道をやめたり、変えたり、人に貸したりするときは、補助を出した神様にお断りを入れる。財産処分の届出というやつです」
「貸したり、って」
レトはミレアを見た。ミレアは眼鏡を押し上げて、聞こえなかった顔をした。
「それに、陣をやめたあとも建物が町の商売の役に立つかどうか、診てもらって、その意見書を添えることになっとります。書類は、そちらで」
「十四種類もある届けの、たった一つを出すのに、届けがもう一つと意見書かよ」
「一つで済んだら、あたしの仕事がないでしょ」
ミレアは小声でそう言ってから、事務員に向き直った。客に向ける声に戻っていた。
「財産処分の届出は、私が作ります。意見書は、商店街の診断屋さんにお願いします」
「そんなら、揃ったらまた来てください。たいてい、ここにおりますで」
「たいていって、ほかに誰かいるのかよ」
「おりません」
事務員は角印を布にくるみ直し、三つ目の引き出しの奥へしまった。
帰りの広い道で、レトは指を折って数えた。
「用途廃止を出すのに、財産処分。財産処分を出すのに、意見書。で、現況の届出は」
「その全部のあと」
レトは空を仰いだ。四本目の指は、折るのをやめた。
**
商店街の診断屋のサカド・カナールが事務所に来たのは、その日の夕方だった。図面筒を脇に抱え、紙の山を器用にまたいで、机の前に立った。
「いったん整理しよう。出すのは三つだな。用途廃止の届出、財産処分の届出、それに俺の意見書」
指を三本立ててから、サカドはレトのほうを向いた。
「で、本質は? レト、あの建物の柱や梁は、まだ使えるのか」
「使える。上の階の床は、梁の継ぎ目が二か所浮いてるけど、柱は叩くと音が詰まってる。中まで傷んでない。地下の水路は俺が積み直したから、当分どこも動かない」
「固定費のでかい体だが、骨は残ってる、と」
サカドは図面筒から紙を一枚抜き、裏に四角を描いて、柱の印を打った。それから首に下げた拡大鏡を目の前に下ろし、台帳の写しをのぞきこんだ。指が欄を順にたどっていき、建てた時期の欄に来た。
「振興事業の、第三期か」
そう言ったきり、サカドは拡大鏡から目を離さなかった。
横からのぞいたレトは、その上の行を指でたたいた。刺激陣(龍脈の汲み上げ増進)と、平らな字で写してある。
「その汲み上げ増進ってやつ、あの銀の線でどうやって増やすんだよ」
サカドは拡大鏡を上げた。
「龍脈を叩いて、詰まった流れを押し流す仕掛けだ。流れが戻りゃ、町で汲める量も増える。昔はよく効いたんだ。ケインズ式って呼んでな、困ったらまずそれだった」
サカドは写しを揃えて、ミレアのほうへ押しやった。
「財産処分の意見書なら、書いたことがある。だいぶ昔だがな。三日くれ」
「お願いします、カナールさん。様式は、こちらで揃えておきます」
ミレアはサカドに頭を下げ、もう財産処分の用紙に一行目を書きはじめていた。
工房へ戻るついでに、レトはサカドと一緒に事務所を出た。
廊下の窓からの光は、もう傾きかけていた。玄関へ向かう途中で、サカドの足音が止まった。
「龍脈の恵みを地域の活力に!」と大きく書いた、色あせた計画の絵の前だった。地面の下から伸びる太い矢印と、笑っている人の顔。右上の隅には、小さな四角い囲みがある。
レトは二、三歩先で振り返った。サカドは図面筒を壁に立てかけ、両手を後ろに組んで、何も言わずにその絵を見上げていた。
レトは声をかけようとして、やめた。傾いた光が絵の上を少しずつ下りていき、右上の小さな囲みが影に入っても、サカドは見上げたまま動かなかった。




