第9話 測ってから言ってください
事務所の戸を開けて入ってきた女は、名乗るより先に、床にしゃがみこんだ。
腰に下げた真鍮の水準器を外して床板に置き、小さなガラスの筒の中の気泡をのぞく。肩には巻尺と、輪に束ねた測り縄を掛けていた。
「北へ、六ミリ。下がっています」
レトはミレアと顔を見合わせた。
「……誰?」
「呼んだ人。台帳に載せる図面は、測る資格のある人が引くの」
髪を首のうしろで短く束ねた、ミレアより少し年上に見える女だった。作業着の膝には、どこかの床の砂が白く残っている。
女は水準器を腰に戻して立ち上がり、それからようやく頭を下げた。
「メイ・エオカです。登記と測量をしています」
「お待ちしていました、エオカさん。今日は地下だけお願いします。この部屋は、台帳の上では、まだ公社の事務室ですので」
ミレアは、客に向ける声のまま言った。
メイは床の紙の山のあいだを、一度も踏まずに机の前まで来た。ミレアに言われる前から、そうしていた。レトは、自分の足もとの「ザイム様」の山から、そっと靴をずらした。
ミレアが台帳の写しを広げて地下のいきさつを話すあいだ、メイはうなずきもせず、手帳も開かなかった。
「書かないのかよ」
「まだ測っていません」
「俺が言ってんのは、ほんとにあったことだって。古い水路の石は、北側だけで四十くらい積み直した。壁の高さだって、俺の肩くらいだから、だいたい……」
「当職は、測っていない物は書きません」
メイは、ミレアの差し出した依頼状の控えに目を落とした。読んだのは、下のほうの一行だけだった。
「測量の費用は、地下一層で、この額です。図面の写しは別です」
「承知しました」
ミレアは額も見ずに、自分の見積書の控えを引き寄せた。ペンの蓋をくわえた。
「おい、その額」
「レトの案件でしょ」
控えの合計の欄の下に、メイの額が一行書き足された。メイの手帳は、そのあいだも閉じたままだった。
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地下の鍵を借りるのに、ミレアは配分所の窓口で用紙を二枚書いた。返すときにも一枚要るらしい。奥の課長の机で、ネイラは顔も上げずに台帳を繰っていた。
鉄の扉は、町の灯りが消えた夜と同じ音で開いた。錆びた蝶番が鳴り、湿った土と古い油のにおいが上がってくる。
ランタンを提げて階段を下りると、古い水路の底はもう乾いていた。両側には、レトが積み直した石が並んでいる。レトは通りしなに、石と石の継ぎ目を指でなぞった。
「な。一つも動いてないだろ」
メイは返事をせずに、石の列へ巻尺を当てた。
手で据えた石が尽きて、型に流して固めた灰色の壁に変わった。その境で、メイが足を止めた。今度は灰色の壁へ巻尺を当てはじめる。引き出して目盛りを読み、手帳に書き、また引き出す。
壁に打ちつけた真鍮の銘板も、メイは巻尺で縦と横を測り、「振興事業 第三期」の字をそのまま手帳に写した。
通路の奥の暗がりからは、細く水の流れるような音がしていた。あの夜、詰まった管に無理やり押しこむようだった低い音は、もう聞こえない。レトはしばらく、その音のほうを見ていた。
「壁なんか測ってどうすんだよ。用があんのは床の陣だろ」
「壁も、地下の一部です。届けるのは、地下の形ですから」
メイは巻尺の端をレトに差し出した。
「そこの角に合わせて、押さえてください」
レトは右手で端を受け取り、壁の角に当てた。
「三ミリ、ずれています」
「三ミリくらい……」
「三ミリです」
レトは端を、爪の先ほど動かした。メイは目盛りを読んで、手帳に書いた。
床には、溝に流しこんだ銀の模様が網の目に走っている。ランタンを向けても、線は鈍く光を返すだけで、自分からは光らなかった。
「陣なんか、もう回ってないって……」
「測ってから言ってください」
メイは巻尺を巻き取り、手帳にもう一行書いた。
うしろで、ミレアが小さく吹き出した。
「あんたが言われる側なの、初めて見た」
「うるさいな」
境のところには、膝の高さまで崩れた仕切りの壁が残っていた。古い水路と灰色の通路を隔てていた石積みで、落ちた石が根もとに転がっている。あの夜、レトの手が回らなかった所だ。
メイはその手前の床にしゃがみ、巻尺の先を銀の模様の向こうまで伸ばした。
その先で、溝にたまっていた泥が、ぬちゃりと盛り上がった。
腐った土のにおいがした。あの夜の牛ほどの体とは比べものにならない、犬くらいの泥の塊だった。取りこぼしか。泥獣は床に伸びた巻尺をたどるように、メイのほうへ泥の腕を伸ばしてきた。
「エオカさん、下がって!」
ミレアの声にも、メイは巻尺を巻き取りながら、しゃがんだまま半歩下がっただけだった。
レトの手が、腰の槌の柄にかかった。そのまま止まった。
レトは泥獣には手を向けず、すぐ脇の、崩れかけた仕切りの壁に、左の手のひらを当てた。握る力は要らない。当てるだけなら、この手でもできる。壁さえ戻れば、あいだはふさがる。
石の重さが返ってきた。どの石がどこから落ちたのか、手が覚えている。
足もとの石が一つずつ浮いて、元の場所へ積み戻っていった。下の段から順に、元の継ぎ目へすっと収まった。
最後の一つがはまったところで、レトは泥獣を見た。元の高さでは、犬ほどの泥でも乗り越えてくる。
通路の脇に、水路から外れた石がいくつか転がっていた。レトはそれも呼んだ。石は床をすべって壁を這い上がり、元の高さの上に、もう二段重なった。積み上がった壁が、泥獣とメイたちのあいだをふさいだ。
泥の腕が石にぶつかって、べしゃりと潰れた。
「元より高いでしょ、それ。あんたの修繕の許可は、元の形に戻すまでよ」
ミレアに言われても、レトは壁に当てた手を離さなかった。
「壁を直しただけだろ。泥獣には何もしてないって」
「越えた二段は、許可の外。神様の窓口には、そのまま見えてるんだからね」
メイが立ち上がり、壁の脇に巻尺を当てた。通路の壁には、仕切りの石が噛んでいた跡が、元の高さで途切れている。
「跡までが、九十一センチ。今は、百二十七センチです」
「今それ測るのかよ!」
「今の形ですから」
ミレアは上の二段とメイの手帳を見比べて、眼鏡を押し上げた。
壁の向こうで、泥獣がまたぶつかった。石が鳴り、手のひらへ響いてくる。左手の甲の、薄く残った印のあたりがじんとした。
レトが石越しに探っても、泥の中で何も応えない。脈のない、ただの土の重さだった。
「こいつは土だ」
ミレアは迷わなかった。胸の資格章に手を当てた。
『所管確認。……本件、所管は、土地と確認する』
章が光り、不受理のときのようには消えなかった。
壁の向こうで床の石が割れる音がした。仕切りの上からのぞくと、床から伸びた岩の枷が泥の体に巻きつき、泥を土へ引き戻していくところだった。泥は床の土と見分けがつかなくなり、においだけが少し残った。
メイは、そのあいだも寸法を取る手を止めていなかった。泥獣のいた溝の幅まで、巻尺を当てて書きこんでいる。
「泥獣の寸法も、要りますか」
ミレアが、メイのほうを見ずに答えた。
「要りません」
**
メイが最後の寸法を書き終えたのは、ランタンの油が半分ほど減ったころだった。
レトは途中から、言われる前に巻尺の端を持つようになっていた。銀の模様の溝の深さ、通路の幅、天井までの高さ。古い水路の北側の石は、四十一あった。
「だいたい合ってただろ」
「四十一です」
引き上げる前に、メイが仕切りの前で足を止め、何も言わずにレトを見た。レトは首を振って息を吐き、いちばん上の二段を、手で一つずつ下ろした。メイが黙って巻尺を当てた。
「九十一センチです」
階段を上がり、鉄の扉に鍵をかけた。廊下の窓からの明かりの中で、メイは手帳を閉じた。
「地下は、ちゃんとあります。台帳の上では、陣のままですが」
レトは、さっき石を積み戻した自分の手を見下ろした。




