第8話 あるだろ、目の前に
"前回まで:許可より先に龍脈へ手をつけて町を救った修繕屋のレト。左手には、担保の印がまだ薄く残っている。
返してもらう条件は、一年のうちに添付書類を十二種類出しきること。ここから第一章です。"
振興会館の一階にある、行政術士ミレアの事務所では、朝から紙の束をひもで縛る音がしていた。
机の上にも床にも、様式のばらばらな紙が山になっている。どの山にも色つきの付箋が立っていて、「ザイム様」「コーロー様」「提出先不明」と書いてあった。机の端には焼き菓子の紙袋が一つ、口を折ったまま載っている。
レトが戸口から一歩入ると、ミレアは顔も上げずに言った。
「そこ、踏まないで。ザイム様の山」
足を上げたまま、レトは置き場所を探した。床に見えている板は、靴一つぶんもなかった。
ミレアは丸眼鏡を押し上げ、山を端から数え直した。
「一年って言ったでしょ。十二種類で、一年よ」
「一年もあるじゃん」
「十二種類で一年。一種類に、ひと月よ」
レトは紙の山から目をそらして、左手を握ってみた。手の甲には、判子を押したような神様の印が、まだ薄く残っている。握りこもうとしても、最後のひと締めが、まだ入らなかった。
許可より先に龍脈へ手をつけた、あの夜の担保だ。命の一部は、まだ向こうに預けたままになっている。
「全部出したら、いっぺんに戻るんだよな」
「戻らない。担保は、一度には外れないの」
ミレアは付箋を一枚はがして、隣の山へ貼りかえた。
「コクド様の分、ザイム様の分、最後に、全部そろったかを確かめる分。書類がそろった神様から、一つずつ」
「……分割かよ」
「龍脈を一括で使ったのは、あんたでしょ」
開けてあった窓から、紙の鳥が一羽舞いこんだ。神殿便だ。鳥は机に降りると、羽を広げるようにほどけて、一枚の紙に戻った。
紙の頭に、添付書類一覧(差し替え)と刷ってある。
ミレアが取り上げた。眼鏡の奥の目が一行ずつ下りていき、下のほうで止まった。
「十二種類って言ったわよね」
レトは横からのぞきこんで、番号の振られた行を数えた。
「増えた」
「……十四」
ミレアは焼き菓子を一つ取り出して半分かじり、口の中で何か数えた。
「十四種類で一年。一種類に、二十六日」
「……四日、どこ行ったんだよ」
「コクド様に聞きなさい」
ミレアの指が、いちばん下に足された二行をたたいた。
「コクド様の条件。振興会館地下、刺激陣の用途廃止の届出。同じく地下の、現況の届出」
「ようとはいし?」
「もう使わないって届けるの。あの銀の線」
あの夜、地下の床を網の目に走っていた銀の線のことだった。
「あれ、もう動いてないって」
「動いてないから届けるの。現況のほうは、直したあとの地下を届け直すの」
「直したのに、届けんのかよ」
「直したから、届けるの。台帳の上の地下と、本物の地下を、同じにするの」
ミレアは一覧を束のいちばん上に重ねると、縛り終えた束をレトのほうへ押し出した。
「持ってて。次の山を縛るから」
レトは左手で束を受け取った。紙の重さが指にかかったところで、握りが抜けた。束は指のあいだから滑り落ち、ひもごと床に転がって、端の何枚かが扇の形に散らばった。ザイム様の山の上だった。
ミレアは一度だけレトの左手を見た。それから黙ってしゃがみ、散らばった紙を拾いはじめた。一枚ごとに迷わず山へ振り分けていく指は、インクで汚れていた。
レトも右手で拾った。
「……悪い」
「いいから。それ、コーロー様の」
レトが鞄の肩ひもをかけ直して戸口へ向かうと、うしろから声が飛んできた。
「向かいに行くなら、用途廃止の届出の用紙、もらってきて」
「……なんで向かいに行くって分かるんだよ」
「その鞄。入ってきてから、一度も下ろしてないでしょ」
**
廊下に出ると、吹き抜けの広間の、石の階段が見えた。一段目にはロープが渡してある。さらに廊下の突き当たりにもロープが張られ、立入禁止の札が下がっている。
用があるのは廊下の向かいの扉だった。鞄の中には、ゆうべ工房の事務机で書き上げた、特定修繕の包括許可の申請書が一通入っている。大きな修繕もまとめて任せてもらうための申請で、十二回続けて落ちた、あの申請の通算十三回目だった。書いているあいだ、作業台のほうからは、親父の槌の音が一度も途切れずに聞こえていた。
ミレアには見せていない。見せたら、また線を引かれる。
コクドの小神殿の受付には、ほかに誰も並んでいなかった。
「魔法の使用には、神様の許可が必要です」
受付の神官は、もう何百回も言ってきた声で申請書を受け取り、欄が埋まっているかだけを指でなぞった。
「申請者ご本人で、お間違いありませんか」
「わ、私……いや、俺です。十三回目の」
「回数はうかがっておりません。念のため、印鑑を」
レトは工具帯の脇から木の印鑑を出し、左手はポケットに入れたまま、右手だけで押した。返ってきた控えは、鞄の中の十二枚の通知の束の上に重ねた。
申請書が奥の台へ回されるのを見送ってから、レトは受付の台に両肘をついた。
「それと、ようと……用途廃止の、届出の、用紙をください。この建物の、地下の」
「物件を確かめます」
神官は背中の棚から分厚い台帳を下ろし、ページをめくりはじめた。やがて指が一つの欄の上で止まり、そこを押さえた。振興会館と書いてあるのが、レトにも読めた。
神官の肩ごしに、窓が見えた。中庭をはさんだ向こうに、別館が建っている。どの窓にも板が打ちつけてあり、雨に打たれて黒ずんでいた。
神官は台帳から顔を上げた。
「この建物の地下の陣、まだ使ってることになってますよ」
「あの、使って……使ってないって。別館だろ、あれ。窓に板まで打ってあるって」
レトが窓の外を指さしても、神官の指は台帳から離れなかった。
押さえた欄には、振興会館の地下の用途が一行だけ書いてあった。刺激陣(龍脈の汲み上げ増進)。その横に、使用中の印が押してある。印は、まわりの欄の字と同じだけ色あせていた。
「届出が、出ておりませんので」
「止めたのに、止めたって届けてないってこと?」
「出ておりません」
レトは台の脇を回って窓の前まで行き、ガラスをたたいた。
「見てくれって。ほら」
陣は、あの別館の地下にある。
「……あるだろ、目の前に。見りゃ分かるだろ」
「現地の確認は、受付の業務ではございません」
神官は、窓のほうを見もしなかった。
「俺、あの下にいたんだって。床の線が光ってたのも、弁を閉めたら消えたのも見た。石だって俺が積み直したんだ。あれのどこが使用中なんだよ」
「台帳にあるとおりに、申し上げております」
「じゃあ、どう届けりゃいいんだよ」
「記載の中身については、お答えできません」
「中身じゃなくて、やり方を……」
「記載の中身については、お答えできません」
一字も違わない返事が、二度来た。
レトは口を開けて、閉じた。前に申請のどこが悪いのか聞いたときも、この人はこの声だった。
もう一通の、現況の届出のほうも同じだった。台帳の地下には、陣の一行しかない。積み直した石も、泥水の抜けた水路も、書く場所がなかった。
「……用紙は」
神官は台帳を閉じ、背中の棚から一枚抜いて台に置いた。用途廃止の届出、と刷ってある。
「こちらです」
レトは右手でそれを受け取った。帰りぎわに振り返ると、奥の台の上に、朝出した自分の申請書がまだ同じ向きで載っていた。
**
レトが事務所に戻って受付でのことを話すあいだ、ミレアは紙の山にひもをかける手を止めなかった。窓をたたいたところまで聞いて、ようやく顔を上げた。
「神官に窓を見せて、どうするの」
「見りゃ分かるだろ」
「神官は見ても書けないの。台帳は、届いた紙の形でしか変わらないんだから」
ミレアは用紙を受け取って、机の端に置いた。
「台帳の写し、取ってくる」
「地下のとこだけでいいだろ」
「地下だけ間違ってる台帳なんか、ないの。ほかも全部見る」
ミレアはペンと請求の用紙を持ち、廊下の向かいへ出ていった。
工房へ戻る気にもなれず、レトは事務所の隅で、右手だけで紙の束にひもをかけて待った。戻ってきたミレアが、その結び目を引っぱってみた。
「これ、ほどけないでしょ」
「ほどけないように結んでんだよ。石を吊るときの結び方」
「紙は吊らないの」
ミレアはそう言いながら、結び目をほどこうとはしなかった。
写しは、その日の昼すぎに届いた。十何枚かの紙に、字の大きさまでそろった平らな字が並んでいた。
ミレアは束をそろえて机に広げ、端から読んでいく。レトも一枚めくろうとして、左手の指で薄い紙の端をつまみそこねた。二度目もつまめなかった。
ミレアは写しの頁を押さえたまま、空いた手で色つきの付箋の束をレトの前に置いた。
「あんたは、これ。あたしが言ったら、一枚ずつちょうだい」
「……俺、付箋係かよ」
「付箋係を馬鹿にしないの。付箋が出てこないと、あたしの手が止まるんだから」
レトは向かいの椅子から、逆さまの写しをのぞいた。地下の欄はすぐに分かった。陣の一行きりで、使用中の印がそこにも写してある。
「一枚」
ミレアは受け取った付箋を地下の欄に立て、一階の紙をめくった。
一階の欄の頭には、部屋の名前ではなく、「一階 東一」「一階 東二」と区画の番号が振ってあった。ミレアの指は、用途の欄と、その横の印の枠だけを追って下りていく。
レトは逆さまの番号を目でなぞりながら、受付まで十三回通った廊下を、頭の中で歩いてみた。石の階段の脇から、東側の扉を一つ、二つ。三つ目は、いま自分が座っているこの部屋の扉だった。
ミレアの指が「一階 東三」の欄を過ぎて、次の欄へ下りかけた。
「待った。そこ」
レトは身を乗り出して、一つ手前の欄をつついた。
「一階の東の三って、ここだろ。ミレアの部屋じゃん」
ミレアの指が止まった。用途の欄には「公社事務室」とある。眼鏡の奥の目が、その横の、貸付の届けを受けた印を押す枠へ動いた。枠は空いていた。
「……貸すのに要る届けが、出てない」
「誰が出すんだよ、それ」
「持ち主」
「ミレアは?」
「毎月、家賃を払ってる」
レトは吹き出した。こらえようとして、もう一度吹き出した。
「行政術士の事務所が、無届けかよ」
ミレアは何も言わずにレトの手から付箋を一枚取り、「ここも」と書いて、写しの欄に強く押しつけた。押しつけた親指の下で、付箋の端が少しよれた。
「……家賃の受け取りは、全部取ってあるから」
「誰も聞いてないって。……ほかにもあんの?」
「数えてる。一枚」
レトは笑うのをやめて、付箋を一枚差し出した。
窓の外が暮れかけるころには、机の上の写しは付箋で縁取られたようになっていた。
レトは首の凝りをほぐそうと、写しから顔を上げた。その目の端で、表通りの灯ったばかりの街灯が、二度またたいた。
「……ミレア。いま、街灯が消えた」
「ついてるでしょ」
ミレアは写しから目を上げずに、次の付箋を待っていた。
レトは窓の外を見たまま、付箋を差し出した。表通りの街灯は、もう何事もなかったように灯っていた。




