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Ⅶ

 アルバートとソフィアが、……アレスティア王国をひっくり返そうと目論むリンゼル侯爵派が用意したのであろう婚約披露宴の会場は、あまりにも何もかもがお粗末すぎた。それこそ、レティシアがどんな感情よりも先に呆(あき)れの溜め息をこぼしたくらいには。


 ──アルバート殿下が恥をかいたことよりも、臣下に恥をかかせたという事実の方が重い。そのことをアルバート殿下は分かっていらっしゃるのかしら?


 物心ついた頃から未来の王配候補として育てられてきたレティシアとしては、『もはやあまりの惨状に物を言えない』というのが正直な感想だった。


「れ、レティシア!」


 そんなレティシアをポカンと見上げていたアルバートが、不意に悲鳴のような声を上げる。恐らく今のアルバートは、腕にすがりついたソフィアが全力で爪を立てていることにも気付いていないのだろう。


「お前、そんなに美しくめかし込めるならば、なぜ僕の隣にいた時にそれをしなかったっ!? そうすれば僕だって、お前を捨てる前にもう少しは考えてやっても良かったのにっ!!」

「アンナ様」


 レティシアはとっさにアナスタシアと繋がった手に力を込めた。その力と短い呼びかけでレティシアの意図は通じたのか、口を開きかけたアナスタシアは言葉を発するよりも早く唇を引き結ぶ。一瞬、怒気に煽られてうねった白銀の髪も、アナスタシアが口をつぐんだ瞬間ストンと落ち着きを取り戻した。


 怒りに煌めく満月の瞳が、意図を問うかのようにレティシアを見上げる。変わることなくレティシアを第一に考えてくれるアナスタシアへ、レティシアは柔らかさと自信を湛(たた)えた笑みを以(もっ)て応えた。


 ──ここは、わたくしに戦わせてください。


 以前、この大広間でアルバートと対峙した時、レティシアの意識にあったのは諦観と逃げだった。あの時のレティシアは、アナスタシアを無意味でくだらない争いに巻き込みたくなかったからアナスタシアを引き止めた。


 だが、今は違う。


 レティシアはアナスタシアとともに戦うためにここに来た。アナスタシアを害する可能性がある有象無象どもを叩き潰し、格の違いを見せつけるためにわざわざアナスタシアと一緒に足(・)を(・)運(・)ん(・)で(・)や(・)っ(・)た(・)のだ。


「アルバート殿下。王宮には、いくつもの細かいしきたりと、暗黙の了解があります。上に立つ人間は、それに加えて臣下への気遣いと、気品が必要です」


 その覚悟とともに一段階段を降りてアナスタシアよりも前へ出たレティシアは、アルバートに対して口を開いた。


 今まで相対してきたレティシアとは何かが違うと、既にアルバートも感じているのだろう。レティシアにひたと見据えられたアルバートはすでに腰が引けている。


「なっ、そ、それくらい、僕だって分かっている!」

「ならばアルバート殿下。此(こ)度(たび)の振る舞いは、それらを踏まえての行動で、今の貴方(あなた)様とソフィア嬢の装いは、それらに合致したものであると、胸を張って仰(おっしゃ)るのですか?」


 レティシアの声は、大広間の空気に染み込むようにしっとりと広がっていく。


 レティシアの声は、アナスタシアのように澄んだものでもなければ、空気を割るような圧をともなったものでもない。為政者としてあろうとするならば、華やかさにも威厳にも欠けた声だと思う。


 だが『人を諭(さと)すことに向いた声である』と評価されてきた声でもあった。人の心にスッと染み込み、思わず耳を傾けさせるような、そんな声だと言われてきた。


 それはレティシアが意識してそういう色合いの声音を使ってきたからなのかもしれない。未来の王配として、アルバートに寄り添い、アルバートを助けるために身に着けた、ひとつの技術だと言えるだろう。


「今回の披露宴は、開催が随分急に決まりましたね。前回の舞踏会からも間がありません。招待される側の金銭的、時間的手間を考慮した上で、それでも開かなければならない場だったのですか?」


 その声音の中に今、レティシアは意図して圧を載せた。


 アルバートのために磨いた技量に、アナスタシアと添い遂げる覚悟を載せて。


 レティシアは言葉の剣を、他でもないアルバートに向かって突きつける。


「そ、そんなの、王太子の僕の命令なんだぞっ!? 臣下ならば従って当然……!」

「勘違いをしてはなりません。大きな会を開く時は、こちらが『呼んでやっている』のではない。向こうに時間を確保してもらい、手間をかけて『来てもらっている』のです。そのように心がけよと、陛下からも教えていただいているでしょう」


 さすがにアルバートも殺気に似た圧を察したのだろう。


 ビクリと震えたアルバートは必死に反論を口にするが、レティシアはその言葉も容赦なく斬り捨てた。その上でレティシアはスッと目を細める。


「それに、その服装です」

「なっ……! 僕は言うに及ばず、ソフィアも完璧な装いをしているだろう! お前達が押し付けてきた服装よりも、ずっと洒落(しゃれ)ていて、僕もソフィアもよく似合っている!」


 ──洒落ていて、ですか。


 本日のアルバートの装いは、赤を基調にした華やかなものだった。


 恐らく新たにアルバートの『側近』になった者達が早い段階で用意していた物なのだろう。華やかな中にも落ち着きがある赤は、確かにアルバートの容姿に映えている。生地も良い品が使われていて、型も最新の流行を取り入れた洒脱なものだ。


 隣に侍るソフィアも、柔らかな緑色のドレスはこの日のために特別に仕立てられた物なのだろうと一目で分かる代物だった。


 場に集う誰もがあり合わせの物で間に合わせるしかなかった中、一人だけ『完璧な装い』に身を包んでいるソフィアは激しく浮いている。同時にその違和感は『彼女だけがずっと前からこの時期にこういった場が設けられるということをあらかじめ知らされていた』という事実を浮き彫りにしていた。


 ──それが何を意味するか、きっとソフィア嬢も、深い部分では理解できていないのでしょうね。


 だが今、一番の問題になるのはそこではない。


 あまりにも浅慮なアルバートの物言いに呆れの溜め息をこぼしてから、レティシアは二人の服装に関して一番の過(あやま)ちを指摘した。


「お二人の本日の装いは、場合によっては国王陛下と王妃陛下への反逆行為と見なされます」

「な……っ!?」

「色です」


『ここまで言われてもまだ分からないのですか?』とレティシアは冷たい目でアルバートを見据える。


 その冷たさに気圧(けお)されたのか、あるいはようやく理解が追いついたのか、ビクリと肩を跳ね上げたアルバートはサッと顔から血の気を失っていった。


「お言葉ですけどレティシア様」


 だがどうやらソフィアは、ここに至ってもまだレティシアが言いたいことを察することができないらしい。


「色だけで反逆を疑われるなんて、とんだ言いがかりですわ」


 アルバートの腕に縋(すが)ったまま、ソフィアは尖(とが)った声を上げた。


 レティシアを見据えるソフィアの瞳には、怒りとも侮蔑とも取れる激情が宿っている。一方でソフィアの表情には、怯えと控えめな笑みが浮かんでいた。


 今のソフィアの姿は、遠目で見る分には『突然の言いがかりに怯えながらも、健気にアルバートのために声を上げた深窓の令嬢』として人々の目に映ることだろう。妖精のように儚く可憐な容姿も相まって、誰もがソフィアを擁護したくなるに違いない。


 ……もっともそれは、発言の中身に知性と良識が伴っていれば、という前提が付くものではあるのだが。


「レティシア様がアルバート殿下からドレスを贈られたことがないからって、嫉妬からそんな言いがかりをつけなくても……」

「ソフィア嬢」


 あまりにも『あんまり』な反論に付き合うのも馬鹿らしく感じたレティシアは、ソフィアの言葉を断ち切るように声を上げた。


「あなたは殿下や周囲の表情を見ても、まだその言葉を続けますか?」

「えっ……」


 レティシアの指摘と周囲へ視線を配る仕草を見て初めて、ソフィアはアルバートの顔色に気付いたようだった。


 ギクリと体を強張らせたソフィアは、さらに階下のホールへ視線を巡らせる。そこでようやく自分が立たされた状況を理解したのか、ソフィアは先程のアルバートをなぞるかのようにサァッと顔色を失っていった。


 考えが足りないなりに、ソフィアもようやく気付いたのだろう。


 自分とアルバートに突き刺さる周囲の視線が、隠しようがないほどに凍て付いているということに。


「ご存じないならば教えて差し上げます、ソフィア嬢」


 幼子が『イヤイヤ』と駄々をこねる時のように首を横へ振ったソフィアは、キュッと両腕でアルバートの腕に縋りつく。一方アルバートはソフィアを振り払おうとする己を必死に押し留めるかのように全身をブルブルと震わせていた。


 そんな二人へ、レティシアは淡々と『事実』と『常識』を突きつける。


「アレスティア王国では、『赤』は国王陛下の、『緑』は王妃陛下の象徴色です」


 公(おおやけ)の場で国の要人達が纏(まと)う色はある程度決まっている。式典の種類や場に応じて多少の違いはあるが、おおよそ基本的な部分は変わらない。


 式典や夜会に参加する際、目上の人間と服装の印象が被るのは目下の無礼と見なされる。服装の色や型に規定がある葬儀や祭事への参加を除き、参加者は目上の人間が纏いそうな色を外した装いに身を包むというのがアレスティア貴族階級での『暗黙の了解』だ。


 特にルビーのような赤色は『王の赤』、エメラルドのような緑色は『王妃の緑』と呼ばれ、アレスティアの貴族達は代々その色の使用を避けてきた。そこに当代はアナスタシアが纏うダークブルー……『聖女の紺碧』を加えて、『臣下は絶対に着用を避けるべき三色』としている。


 赤、緑、紺が全面的に使えないというわけではない。三人が纏う衣装とは印象が異なる色あいであれば、周りも眉をひそめるようなことはしないだろう。


 ──だけど、今のアルバート殿下とソフィア嬢の装いは……


 確かに、多少の色味の違いはある。完全に同色とは言えない。


 だが二人が纏う色彩は、あまりにも『王の赤』と『王妃の緑』に近すぎる。二人揃ってというのも、ここが婚約披露の場であることもよろしくない。まるで『すでに自分達こそがこの国の王夫婦である』と喧伝するかのような振る舞いだ。『現国王夫妻の地位を簒奪する』という宣戦布告の意と解釈されても弁明はできない。


 この衣装を用意した人間は、恐らく『王の赤』と『王妃の緑』をイメージする色彩を二人に纏わせることで、『アルバートとソフィアの婚約は正当なものである』と見る者に印象付けたかったのだろう。やりたかったことの意図はレティシアにも分かる。


 しかしこれは、悪い方向に思い切りが良すぎた。


 ──『赤』と『緑』を揃えることで正当性を示したいならば、もっと色味を淡くするなり暗くするなりして、【『赤』と『緑』に連なる色】という印象にまとめるべきだった。


 アルバートの傍にいたのがレティシアを始めとした旧側近達だったならば、今のアルバート達がやりたかったことを波風立てずに実現させることができただろう。アルバートが無知のまま暴走するようなことがあれば、アルバートの地位を守るために、不興を買ってでも止めたに違いない。


 アルバートにどれだけ嫌われていようとも、将来的に国を背負う立場にいるアルバートのために、……引いてはアレスティアという国のために動く覚悟が、レティシア達にはあった。


 突き詰めて言ってしまえば、そこにアルバート個人に対する好悪は関係ない。自分達は『国を守る』というアレスティア貴族としての責務からアルバートを支えていただけであって、それは王太子の椅子に座る人間がアルバート以外の誰かであっても変わらなかっただろう。


 その点に関しては、非情だったと言えるかもしれない。


 だが『正しいこと』であったとは思っている。少なくともアルバートが今この瞬間まで誰かに追い落とされることなく王太子であれたのは、……己が無知で暴虐であることを突きつけられないまま『王太子』という地位で甘い汁を吸っていられたのは、彼らの献身があったからに他ならないのだから。


 だがアルバートは、無知を自覚しないまま、彼ら全員を切り捨てた。


 それが意味するところを、きっとアルバートは今この瞬間から、ようやく思い知ることになるのだろう。


 ──どんな未来がやってこようとも、選んだのはアルバート殿下自身。


 国王陛下が帰還すれば、アルバートの問題行動に対して糾弾の声が各所から上がるだろう。公爵家を筆頭とした有力貴族も、国政中枢で重職を担う人間も、誰一人として今この場にはいない。彼らはすでに行動で彼らの内心を表している。


 国政中枢部を担う人間達は、今回の一件でアルバートを見限った。


 彼らは次代の王としてアルバートを支持しないと決定し、すでに行動に表す段階まで移行したのだ。


 ──陛下の御子は確かにアンナ様とアルバート殿下しかいない。だけど他に王位を継承できる人間がいないわけではない。


 この国には王弟もいれば、王弟の子息達もいる。普段の言動を見比べれば、アルバートよりも彼らの方が余程為政者が何たるかを弁(わきま)えていると言えるだろう。


 彼らにはそれぞれに優れた能力があり、支えてくれる自派の貴族達も付いている。いつ己に王位継承権が回ってきてもいいように、彼らは日々の研鑽と根回しを忘れていない。


 そんな状況下でありながら今までアルバートの地位が盤石だったのは、国王選(え)りすぐり側近達がアルバートを支えていたからだ。その中には婚約者であるバートネット公爵家令嬢レティシアの存在もあった。アルバートが王太子として闊歩できていたのは、レティシア達の存在があったからこそだ。


 だが今のアルバートは、自らその支えを捨てた。新しい支え達がアルバートに用意した場がこ(・)れ(・)だ。この場に集ったわずかな者達も、これを機に彼らを見限ることだろう。


 ──無能を戴いて、ともに沈もうとする人間などいない。


 無能を戴くことを望む人間は、得てしてその無能を操って自身こそが頂きに立つことを画策する。


 だが今回の黒幕は、事を急ぎすぎた。あるいはアルバートの方が黒幕の想定以上に無能だったのか。


 これではルーベルスとリンゼル侯爵派がアレスティア内部をかき回すよりも早く、アルバートが他派に追い落とされて消えることになるだろう。


 ──まぁ、わたくしにはもう、関係のないことではありますが。


 冷静に思考をめぐらせたレティシアは、さらに突き放すように言葉を続けた。


「わたくしの今までの服装には、それなりの意味がありました。わたくし達が殿下に進言してきた事柄も、ご提案してきたことも、……服装のひとつひとつにまで苦言を呈したことも、含まれていた意味は同じです」


 要人達とも、目下の者達とも印象が重ならないように。隣に立つアルバートよりも、決して目立つことがないように。未来の王配としての気品を忘れず、それでいて華美にも貧相にもならないように。


 そうやって諸方面に気を使っていると、使える色彩も型も限られてくる。加えてレティシアは並の男性よりも背が高い。限られた型の中から自分が着ても見苦しくないデザインを選ぶと、自然と型はいつも同じ物になっていた。


 赤みが強い髪や瞳のせいで映える色も限られていた。だからアルバートの目には『レティシアはいつも同じようなドレスしか着ない』という風に映っていたのだろう。


 全てはアルバートのためだった。当人がそれを理解できていなくても、レティシアはその重要性を理解し、己にできることを実践していた。


 レティシアだけではない。かつてのアルバートの側近達は皆、アルバートのためにと様々な思慮を巡らせ、時には我慢も強いられていた。


 だがその心がアルバート自身にひと欠片(かけら)でも届くことは、結局一度たりともなかった。


 ──あぁ、でもアンナ様は、お目にかかるたびにわたくしの装いの細かい違いに気付いて、いつも褒めてくださっていたわね。


 ふと、凍て付いた心の中に、ポッと温かな花が咲きほころんだような心地がした。


 その熱が、心の内側から凍えていきそうだったレティシアの全身を温めてくれる。戦い抜く力を、今も与え続けてくれる。


「アルバート殿下。あなたの新しい側近達は、今までのようにアルバート殿下を守ってはくださいません」


 そう、アルバートに必要なのは『お友達』ではなく『側近』だった。甘い言葉ばかりを吐く無能どもが集まったところで、為政者としての任を果たせるはずがない。


 言われている内が華で、言ってくれる人が傍にいてくれる内が華だったのだ。


 ──わたくしも、もう。


 その心を凍て付くような視線に込めて、レティシアは真っ直ぐに『絶縁状』をアルバートに叩き付けた。


「生き延びたいならば、御自身が賢くあらねば」


 レティシアの視線の冷たさに射すくめられたのか、あるいはレティシアからの拒絶の言葉に衝撃を受けたのか、アルバートはより一層顔色を悪くすると頬を叩かれたかのように体をビクつかせる。


 そんなアルバートへ、レティシアはドレスの裾を持ち上げながら優雅に一礼した。


 アルバートのために身に着けた優雅さで。


 アルバートのためではなく、アナスタシアのために。レティシアを『生涯唯一、最愛の伴侶』と高らかに宣言してくれたアナスタシアの恥とならないように。


 レティシア・バートネットとして積み上げてきた全てを込めて、レティシアはアルバートへ淑女の一礼を向けてみせた。


「どうぞソフィア嬢とお幸せに。病める時も健やかなる時も、どうぞ人生の端々まで、ソフィア嬢とともにお過ごしくださいませ」

「れ、レティシア……!」


 アルバートは今更焦ったようにレティシアへ手を伸ばす。だがソフィアに腕を取られているアルバートは一歩たりともレティシアとの距離を詰めることはできない。


 そんなアルバートの姿を視界の端で捉えていながら、レティシアは一切の未練を見せることなくアルバートへ背を向けた。


 レティシアが振り向いた先には、アナスタシアが静かに控えている。


 レティシアと視線を合わせたアナスタシアは、ふんわりと柔らかく微笑んでくれた。それだけでレティシアの体からはホッと力が抜ける。


 レティシアの全てを受け入れ、慈しみ、守り、溢(あふ)れんばかりの愛情でレティシアを包み込んでくれる頼もしい伴侶へ、レティシアは無意識の内に手を伸ばしていた。自ら一歩階段を降り、レティシアの手を取ったアナスタシアは、自然な仕草でレティシアの手を掬(すく)い上げるとレティシアの指先へ細(ささ)やかな口付けを落とす。


 その上でさらに階段を降りてレティシアとの距離を詰めたアナスタシアは、レティシアの耳にだけ届く声で小さく囁(ささや)いた。


「やっぱり、レティはカッコいいわ」


 予期せぬ言葉に、レティシアは思わずアナスタシアを振り向くように顔を動かす。


 階段の途中にいるせいで、いつも以上に視線が近い。そのまま顔を寄せれば唇が触れてしまいそうな場所にアナスタシアの顔がある。


 視界で像が結ばれるか否かというギリギリの距離で、蕩(とろ)けた満月の瞳が獲物を狙うような空気を湛えて笑っていた。


「見惚れてしまって、わたくしの出番がありませんでした」

「アンナ様」

「わたくし、きっとこうやって、何度も何度もレティに恋をするのね」


 その言葉に、レティシアは無意識のうちにアナスタシアと繋がった手を握りしめる。


 指と指を絡ませ合うように握り合えば、互いの手袋の布地を間に挟んでいてもアナスタシアの熱を感じることができた。その熱を『甘い』と感じてしまうレティシアはきっと今、アナスタシアと同じくらい蕩けた瞳をアナスタシアに向けているのだろう。


「さて。ご挨拶は終わったことですし」


 そんなレティシアに一度甘く微笑みかけてから、アナスタシアは視線をアルバートの方へ向けた。


 その表情が『聖女』としての張り詰めたものに変わった瞬間、アナスタシアの腕はレティシアの視界を塞ぐかのようにレティシアの頭をアナスタシアの胸へ引き寄せる。まるで『そんな蕩けた顔をわたくし以外に見せてはダメ』と言わんばかりの仕草に、レティシアは大人しくアナスタシアの胸へ顔を埋(うず)めた。


「わたくし達は、これでお暇(いとま)いたします。この場にいては、皆も楽しめないでしょうから」


 そんな自分達の背後で、アルバートの喉からヒュッと断末魔の悲鳴じみた吐息が聞こえたような気がした。


 だがそれでももう、レティシアはアルバートを振り返ろうとは思えない。レティシアを解放したアナスタシアも、アルバートへは視線を向けず、レティシアにのみ蕩けるような顔で笑いかける。


「参りましょう、レティ。良ければそのドレス姿をしっかり堪能させてちょうだい。わたくしの部屋で、二人きりでダンスも踊りましょうね」

「はい、アンナ様」


 甘い言葉を臆面もなく口にするアナスタシアへ、レティシアも甘く笑って答える。


 再び手を取り合って階段を登っていくレティシア達を引き留める声は、もはやどこからも上がらなかった。



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