Ⅷ
差し込む光は柔らかな熱を帯びているのに、体を預けた寝台は妙に寒いような気がした。
「ん……」
眠りから覚めたレティシアは、その違和感に眉をひそめる。寝返りを打った体が無意識のうちに掛布の下の寝台を這うが、滑らかなシーツの感触が伝わってくるだけで何かを探り当てることはできなかった。
そこまでをノロノロと理解してから、レティシアはハッと我に返る。
「アンナ様……?」
隣で眠っているはずであるアナスタシアがいない。
そのことを理解した瞬間、レティシアはガバリと跳ね起きていた。
──アンナ様? どこへ……!?
この寝台でアナスタシアと休むようになってから、レティシアが一人で目覚めを迎えたことはなかった。レティシアがどれだけ寝こけていても、アナスタシアは隣に寄り添ってずっとレティシアを見守っていてくれる。
『おはようございます、レティ』という甘い声と、麗艶な笑み。レティシアの手を包み込む柔らかな体温とともに、レティシアの朝は始まるのだ。
それがないというだけで、何だか心がザワリと不穏に揺れる。
──一体何が……
昨日の夕刻、アルバートとソフィアの婚約披露宴に顔を出した後、アナスタシアは宣言通りにレティシアと二人きりのダンスパーティーを楽しんだ。アナスタシアのエスコートはどんな曲でも完璧で、レティシアはそんなところでも改めてアナスタシアに感心してしまった。
気心の知れたアナスタシアの側使え達が用意してくれた空間は心地よく、レティシアとアナスタシアは時間も忘れて楽しく踊り続けた。その後、二人で軽く食事を取り、お風呂に入って体を解して、ともに寝台に入ったのが日付が変わる前だったと記憶している。
アナスタシアがまとう香りと柔らかな熱に包まれて、レティシアは昨晩もストンと眠りに落ちて、今の今まで深く眠ってしまっていた。アナスタシアが寝台から出たのがいつなのかも分からない。
──不覚を取るにも程がある!
もしかしたら、神殿から何か火急の呼び出しを受けたのかもしれない。アルバートの一件の方で何かがあったのかもしれない。
少なくとも不穏分子がこの部屋に入り込み、アナスタシアを拐っていったということはないはずだ。そうであればさすがにレティシアが気付いて目を覚ますだろうし、アナスタシアが無抵抗で拐われるとも思えない。
恐らくだがアナスタシアは、己の意思で寝台を降り、この部屋を後にした。
レティシアの目覚めを待たずに用事を優先したということは、呼び出し主が誰であれ、火急の用件であるということは確かだろう。あるいはレティシアの目が覚めるまでの間に片付けられる、何てことない用事だったのかもしれない。
自分を安心させるためにそんな考えを胸中で転がしながら、レティシアはひとまず寝台から降りる。
その時になってようやく、レティシアは来客がいたことに気付いた。
「え?」
ベッドサイドに置かれた、小さな丸テーブルの
上。
そこに今、レティシアの片手に収まってしまいそうなほどの小鳥が留まっている。
「どうして、こんなところに……」
白銀の羽毛を備えた小鳥は、ふくふくと丸みを帯びていて大変愛らしい。小鳥らしい落ち着きのなさでキュルキュルとレティシアを見上げた小鳥は、レティシアの視線がこちらに向いたことに気付くとチョンチョンチョンと飛び跳ねるようにレティシアの方へ寄ってくる。
そんな小鳥へ、レティシアは反射的に指を差し出していた。テーブルの端からピョンッと飛び跳ねると同時に羽を広げて宙を舞った小鳥は、危なげなくレティシアが差し伸べた指に着地する。
──一体どこから迷い込んだのかしら?
窓も扉もしっかり閉まっていたはずだ。アナスタシアが小鳥を飼っているという話も聞いた覚えがない。
そんな疑問を抱きながらも、レティシアは小鳥と視線を合わせるように小鳥が留まった指を己の顔の前まで運ぶ。
その時になって初めて、レティシアはその小鳥の瞳がアナスタシアと同じ満月のような金色であることに気付いた。
──! もしかして、この小鳥は……
【おはようございます、レティ】
ハッとレティシアがある可能性に思い至った瞬間、小鳥は囀りの代わりにレティシアがよく知っている声で話し始めた。
凛と涼やかで、レティシアに向けられる時だけ特別に甘くて柔らかいその声を、レティシアが聞き間違えるはずがない。
これはアナスタシアの声だ。
【よく眠っているレティを起こすのは忍びないし、お手紙を残していくには時間がないので、わたくしの『力』を残していくことにしましたわ】
──アンナ様は、こんな風にも力が使えたのね。
予想外のことに驚きながらも、アナスタシアが伝言を残してくれていたことにレティシアはわずかに体の緊張を解く。
──伝言を残す余裕があったということは、少なくともアンナ様は、自発的かつ平和に、この部屋を後にしたということだもの。
【神殿から、火急の件ということで呼び出しを受けましたの。聖女の祈りが必要だから、至急来てくれと。神官長が使役する小鳥が直接『声』を届けに来たから、わたくしの侍女達は何も知りませんわ。あまりに急なことだったから、メイベルとマリンダにも……】
だがその安堵は、次の瞬間に崩れ落ちた。
「っ!?」
声が不自然に途切れた瞬間、フルリと小鳥の体が震える。その変化にレティシアが嫌なものを感じた瞬間、小鳥はレティシアの指に留まったままデロリと姿を崩した。ハッと息を呑んだ瞬間、白銀の塊になって溶け落ちようとしていた小鳥はパッと光の粒になってかき消える。
「アンナ様っ!?」
アナスタシアの身に何かが起きた。
レティシアは聖女に関して詳しいことを知っているわけではない。だがなぜか今だけは自分の予感が外れていると思えなかった。
──昨日の晩に、話していたばかりだわ。
アレスティア王国を内側から瓦解させようと暗躍しているリンゼル侯爵とルーベルス帝国にとって、現状で一番の邪魔者はアナスタシアだ。
恐らく当初の彼らは、アナスタシアとここまで真っ向から敵対することになるとは思っていなかったのだろう。
確かに今までアナスタシアは、己が握る強権で政を歪めることがないよう、あえてそういった場からは身を引いてきた。
彼らの当初の計画では、アナスタシアが事態に気付いて動き出すよりも早く全てが終わる予定だったのだろう。実際のところ、アナスタシアもレティシアの身の安全がかかっていたからここまで思い切れただけで、他の場所から仕掛けられていたらここまでのことはできなかったかもしれないと口にしていた。その場合、対処が後手に回って、ここまで優位を取れなかった可能性が高いとも。
【レティ、気を付けてちょうだい。彼らは必ずこのタイミングで動きますわ】
レティシアと優雅にワルツを踊りながら、アナスタシアはそう口にしていた。
アレスティア王国が誇る最強の切り札。
どちらの陣営も自陣に関わってくることはないと無意識のうちに思考の外に追いやっていたその切り札は今、自らの意思でアレスティア高位貴族達の味方についている。それが国政云々やら責務云々やらではなく『最愛の人を救うため』という至極個人的な理由である以上、リンゼル侯爵側がアナスタシアを自陣に寝返らせることは不可能だ。
リンゼル侯爵派の黒幕は、そのことに気付いている。傀儡と化したアルバートやその取り巻きとして派遣された人間達まで理解が及んでいるとは思えないが、黒幕当人にはそれくらいの頭があるはずだとアナスタシアは言っていた。
【懐柔も離反もさせられないと理解しているならば、排除のために手荒な手段も辞さないはず】
婚約破棄の現場からレティシアを颯爽と拐い、自身の立場を表明するだけ表明して表に姿を表そうとしなかったアナスタシアに、リンゼル侯爵派はただでさえ手をこまねいていた。
そんなアナスタシアがレティシアをともなって公の場に姿を現した上に、あんなに真正面からアルバートを叩きのめしていったのだ。国王帰還の目処も立った今、リンゼル侯爵派の焦りと苛立ちは最高潮に達している。
【見知らぬ人間からの接触には、絶対に応じないで。届け物も受け取っては駄目。たとえ見知った人間からの接触であったとしても、緊急性がなければ全てに決着がついた後に回してほしいの】
わたくし、レティの身に何かがあったら、居ても立ってもいられませんわ。
悲痛な表情で訴えかけるアナスタシアに、レティシアは柔らかな笑みとともに頷き返した。それでアナスタシアの心の平穏が保たれるならば、喜んでアナスタシアの指示に従うと。
──アンナ様、わたくしだって……!
アナスタシアの身に何かがあれば、レティシアだって居ても立ってもいられない。どうしてレティシアには釘を刺したくせに自身はこんな軽率な行動を取ったのかと、胸を掻きむしるような焦燥にレティシアは思わず胸元で手を握りしめる。
──いいえ。アンナ様が悪いわけではないわ。
分かっている。アナスタシアが呼び出しに応じたのは、呼び出し主が神官長で、さらに火急の用件と告げられたからだ。そうでなければアナスタシアだって誰にも伝えずに寝台を抜け出すなどということはしなかっただろう。
──神殿にまで、ネズミが入り込んでいたのね。
よりにもよって、アナスタシアに何より近しい場所に。アレスティア王国を、……聖女を守り、支えるべき場所に。アナスタシアが信頼を置いていた場所に。
「……っ!」
レティシアは寝台の傍らに置かれていた愛剣を掴むと、そのまま身を翻した。
怒りに突き動かされるがまま駆け出した体は、かつてない程の熱を抱えているような心地がした。




