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『特別である』ということは、『皆と平等に扱われることはない』ということ。
生まれた時から『特別』だったわたくしは、その意味を嫌になるくらいに知っていた。
「アナスタシア様は、生まれながらの聖女でございますから」
「そのようなことをなさらずとも、我々にお任せくだされば良いのです」
物心ついた頃から、わたくしの行動には制限がついていた。
『聖女』だから。生まれる前から、わたくしは聖女であったから。
アレスティア王国を守護する女神に選ばれし乙女。国の存続のためになくてはならない存在。
わたくしの安否は国の未来に関わる。だからわたくしは、己の身の安全を第一に考えなければならない。
その一点から、わたくしは厳重に守られた。
気軽にどこかへ出かけていくことも、幼い子供ならば誰でも経験しているようなヤンチャやイタズラも、わたくしには許されなかった。些細な傷を作れば、その隙をわたくしに許した周囲が厳罰に処されると分かっていたから、積極的に反発することも憚られた。
「アナスタシア様は、生まれながらの聖女でございますから」
「いつでもその座に相応しく、教養と品位を忘れてはなりません」
同時にわたくしの周囲は、わたくしに期待を押し付けた。
生まれながらの聖女。歴代の聖女を見渡してもいない、聖女の中でもさらに特別な存在。
ならばわたくしは歴代の聖女の中でも飛び抜けて優秀なのだろうと、わたくしの周囲は勝手に思い込んだらしい。
淑やかであれ。美しくあれ。聡明であれ。敬虔であれ。
ありとあらゆる偶像を押し付けられて、完璧でいて当たり前だとされた。少しでも何かを損なえば『調子が悪いだけですよね』『本当はできますよね』と、苦笑とともに嗜められた。
──一体、わたくしに、何をそんなに期待しているのかしら?
幸い、容姿と才能には恵まれていた。わたくしの外見は『聖女らしく』整ったものであったようだし、勉学も立ち居振る舞いも、学べば素直に実になった。聖女としての祈りの強さや力の扱い方も、歴代の中で突出して強いものであるらしい。
それでもわたくしだって、ただの幼子だった。たとえ生まれながらの聖女であり、王の子であったとしても、まだまだ頑是ない、ヒトとして不完全な存在であることに変わりはない。
完璧に振る舞えない時だってある。最初から何もかもが完璧にできたならば、それこそ人ではなくて神そのものではないか。
そうは思っても、口に出すことなんてできなかった。許されていなかった、と言った方が正しいのかもしれない。
──皆が求める『聖女』は、そんなことを言わない。
そして皆が求める聖女の姿から逸脱した瞬間、その部分のわたくしは『なかったこと』にされる。わたくしをチヤホヤする人間達は、彼らが見たい『聖女』としてのわたくししか見てくれない。それ以外のわたくしを殺していくのは、そんな『彼ら』だ。
──そうやってわたくしは削られていって、いつか『わたくし自身』はなくなるのではないか。
泥沼に沈められていくような絶望感。
物心ついた頃には、そんな冷たい檻の中に、足掻くことなく淑やかに起立していたのだと思う。
「御機嫌よう、アナスタシア様」
そんなわたくしの世界が変わったのは、わたくしが七つの時のこと。
周辺各国の重鎮が集まる夜会がアレスティア王宮で開かれ、わたくしもその場に顔を出した時のことだった。
「少々こちらへ。二人きりでお話がしたいのですが、よろしいですか?」
そう言って、前後左右を固める側仕え達が何かを言うよりも早くわたくしをその場から連れ出したのは、兄の婚約者である少女だった。
バートネット公爵令嬢、レティシア。挨拶を受けたことはあるから、名前と顔は知っている。
だけどそれだけの存在だった。『王太子の婚約者とはいえ、一臣下でしかない人間が聖女に対してこんな振る舞いをしても良いのか』とか、『何かを目論んでいたとしても、こんな少女の一人くらい、自分の力でどうとでもできる』ということを考えていたような気がする。
「申し訳ございません、アナスタシア様。わたくし、バートネット公爵の娘で、レティシア・バートネットと申します」
少女は、そんなに遠くまでわたくしを連れていくことはなかった。
少女がわたくしを連れていったのは、アレスティア王家の集団がいる場所からほど近いバルコニーだった。
人目は適度に遮られているが、人の気配はすぐ傍にある。何かがあればすぐに人が駆けつけられる場所だった。
「何用ですか」
部屋の外と内を仕切る壁を背にするように置かれたベンチへわたくしを着席させた少女は、深々とわたくしに一礼すると非礼を詫びた。わたくしの目から見ても、とても美しい淑女の一礼だったことを覚えている。
「このようなことをして、バートネット公爵家が無事であるとでも?」
「申し訳ございません。ですが、気になってしまって」
表情ひとつ揺らすことなく、淡々と非礼を詰めるわたくしに対して、少女は困ったように微笑みかけた。
「無礼を承知でお伺いします。アナスタシア様、足を怪我していらっしゃいませんか?」
その言葉と、向けられた温かな眼差しに、わたくしは初めて動揺を露わにしたのだと思う。
事実だったから。
普段あまり出歩かないことに加えて、自分の成長に合っていない礼装用の靴は、今のわたくしの足には少しきつかった。それでも立っている分には問題はなかったし、今日の服装に合わせて仕立てられている靴に代わりの品はない。
それが分かっていたから、誰にも不具合を伝えることなくここまで来た。だけどわたくしの予想は甘かったらしく、社交上の必要に迫られてダンスを一曲踊った時には、踵が擦れて痛くなっていた。
それでも、泣き言なんて言えるはずがない。
わたくしは、生まれついての聖女。この歳で『白銀の聖女』と崇められ、今日だってアレスティア国王以上の重鎮としてこの場にいる。
その矜持の下に、わたくしはこの場で求められる役割を完璧にこなし続けた。ダンスだって何曲も踊った。限界をとうの昔に越えた踵は激痛を訴え、靴の中は血まみれになっていると分かってはいたけれど、表情ひとつ崩したつもりはない。現に側仕え達は誰も何も気付いていなかった。
それを普段関わりが一切ない少女に見抜かれた。あまつさえ、こうして正面から指摘されてしまっている。
「っ……」
──わたくしは、生まれついての聖女。
聖女は、完璧でなければならない。
『完璧な聖女』はこんなことで怪我なんてしない。『痛い』なんて、口が裂けても言えない。
──否定、しなければ。わたくしは、『完璧な聖女』でいなければならないのだから。
そう考えていたはずなのに、あまりの動揺から口を効くことができなかった。
そして少女にとっては、それが十分な答えになったらしい。
「失礼いたしますね」
わたくしが何かを言うよりも早く、少女はサッとわたくしの足元に跪くとわたくしのドレスの裾をめくった。
年端のいかない同性同士でも許される無礼ではない。だというのにわたくしがそれを無抵抗に受け入れてしまったのは、驚きが強かった以上に、少女の手に慈しみの心がこもっていると分かったからだろう。
わたくしの足が必要以上に目に入らないようにほんの少しだけドレスの裾を持ち上げ、跪いた自身の膝の上にわたくしの足を置いた少女は、わたくしの足に視線を落とすとわずかに眉をひそめた。
思えばわたくし自身の目にわたくしの足が映らない角度で検分していたのは、わたくしの足をドレスの裾で隠して少女の目に触れないようにすると同時に、わたくしの目からも傷口を隠して惨状を自覚させないようにという配慮をしてくれていたからなのだろう。
「靴のサイズが合っていませんね。これはさぞかし痛かったでしょうに」
それでも、思わずといった雰囲気でポロリとその言葉は少女の唇からこぼれ落ちた。
「痛くなど、ありません」
その言葉にハッと目を瞠ったのは、少女よりもわたくしの方が早かった。自身が無意識のうちに紡いでいた硬質な声で、やっと我に返ったと言った方が正しいのかもしれない。
「わたくしは聖女です。生まれついての聖女であるわたくしが、この程度で痛いなどと言うはずがありません」
「え? どうしてですか?」
やっと自分を立て直したわたくしは、上品に、だがまくし立てるように言葉を続けた。
だがそんなわたくしに気後れすることもなく、少女は実に自然体のまま首を傾げる。
「痛いものは、痛いです。聖女であろうが、王であろうが、同じ人間ですもの。同じように痛みを感じるはずです」
その言葉に、今度こそわたくしは言葉を失った。
「怪我をすれば、痛いです。当たり前のことではありませんか」
……当たり前。
当たり前だと、言われた。
初めて、だった。『同じ人間』だと言われたのは。
怪我をすれば、痛い。自分が痛いのだから、あなただって痛いはず。それは身分に関係なく、皆同じであるはずだと。
そう言って、目の前の少女は、自分と同じ目線でわたくしを案じてくれている。
そう。彼女は『完璧な聖女』ではないわたくしを指摘して消そうとしているのではない。ただ真っ直ぐに、わたくしを、……聖女ではなく、『わたくし自身』を案じてくれている。
わたくしを真っ直ぐに見上げて首を傾げた少女にあるのは、そんな純粋な心だけだった。それが表情と態度を見ているだけで、わたくしには分かってしまった。
「あっ……失礼、いたしました。思わず……」
そんなわたくしの様子を、どう受け取ったのだろうか。
少女は一瞬顔を曇らせると、わたくしの足元に視線を落とした。
「わたくしも、『バートネット公爵令嬢なのだから』『王太子の婚約者なのだから』と、よく言われるのです」
続けてそう語り始めた少女は、柔らかな微笑みの中にほんの少し寂しさのようなものを混ぜた。その『寂しさ』が何から来るものなのか分かるような気がしたわたくしは、思わず息を詰めて少女の声に耳を澄ます。
「公爵令嬢なのに、剣の稽古をさせられています。殿下をお守りできる存在たれと。勉学も、礼儀作法も、周囲よりも厳しくて。でもそれがこなせて当たり前だ、完璧であって当たり前だと言われるのです。少しでも嫌な顔をすると『つらいと思うな』『いつも気品と余裕を忘れるな』とも、言われてしまって」
表情同様に柔らかな声音で語りながら、少女はそっとわたくしの足から靴を脱がせた。
開放感にほっとすると同時に、少女のドレスを汚してしまうことに思わず身じろぎをしたが、少女は指先の動きだけで『どうぞそのまま』とわたくしの足を嗜める。
その仕草は決してわたくしの体を強く縛めるものではなかったはずなのに、柔らかくふくらはぎに指をかけられただけで動けなくなってしまったのが不思議でならなかった。
「つらくて、きつくて、嫌なのに。……投げ出すことも、弱音を言うことも、許されない雰囲気なのです」
両足ともを窮屈な靴から解放してくれた少女は、少女の膝の上に血で汚れた足を載せたまま、そっと労るようにわたくしの足をドレスの上から撫でた。
その瞬間に少女が浮かべた微笑みを、わたくしはきっと一生忘れないと思う。
「……そんな自分を『なかったこと』にされるの、辛いですよね」
──分かってくれた。
柔らかく、温かく笑っているのに、泣いているようにも見える微笑みだった。
──この人は、わたくしを理解しようとしてくれている。みんなが殺そうとしてくる『わたくし』を、この人は慈しんでくれようとしている。
それが分かった瞬間、わたくしは人生で初めて泣きたくなった。このまま臆面もなくワァワァと声を上げて泣いて、目の前の少女に縋ってしまいたくなった。
でも、実際にそんなこと、わたくしにはできなくて。
わたくしにできたのは、とっさに目元に力を込めて、あふれそうになる涙をグッとこらえることだけだった。
「アナスタシア様、この後、ダンスを躍るご予定はまだありますか?」
そんなわたくしに気付いているのか否か、少女は何やら自身のドレスを漁りながら問いを投げてきた。
予想していなかった問いに、わたくしはとっさに上手く答えられず、掠れた変な声を上げた。
「えっ? ……あ、あとは、挨拶だけだと」
「まだ部屋へ下がることはできないのですね」
わたくしの答えに頷いた少女は、どこからともなくハンカチを取り出していた。
白くて美しい、まだ新しく、高価であることも一目で分かるハンカチを広げた少女は、角のひとつを口で、反対の角を右手で持つと、一切躊躇うことなくハンカチを裂いた。ピーッという悲鳴のような甲高い音を聞いたわたくしは、何が起きたのか分からずに硬直していたことだろう。
「応急処置ではありますが、こちらを」
裂いたハンカチの片方を靴擦れしている部分に添えた少女は、さらに自身が嵌めていた手袋を外すと、それも両サイドを裂いて包帯にしてしまった。即席の包帯達で片足に処置を施した少女は、さらに反対側の足にも同様に処置を施そうとする。
「いっ、いけません!」
その時になってようやく、わたくしは少女を引き留める言葉を発することができた。あまりに遅すぎたが、やっと自己主張をすることができた。
「なぜあなたがそこまでするのです? あなたはこの後どうするつもりなのっ!?」
「わたくしは大丈夫です」
「でもっ……!!」
「わたくしは怪我をしてはいませんし、もう人前で挨拶をすることもありません。多少装いを損なっていたとしても、いくらでも言い訳はできます」
そんなこと、あるはずがない。
だって彼女は、バートネット公爵令嬢としてこの場にいるのだ。王太子の婚約者として、皆に認識されているはずなのだ。
彼女だって、常に『完璧』を求められる立場にいる。わたくしよりも年上なのだから、頑是ない子供のような言い訳は周囲に通用しないだろう。
国を挙げた夜会に参加するにあたって、ドレスもハンカチも手袋も最高級品を用意してきたはずだ。かかった金子と手間は、名門公爵家とはいえ、笑って流せるものではないはずなのに。
「アナスタシア様は、よく頑張っておられます。わたくしだったら、きっとこんな怪我をしていたら、泣いてしまっておりますわ」
だというのに、彼女はわたくしを見上げて、ふんわりと笑いかけた。
心の底から、偽りが一切ない、慈しみを込めて。
「そんなアナスタシア様を、わたくし、応援したくなったのです」
その上で彼女は、わたくしの両足を膝の上に載せたまま、器用に自身の靴を脱いだ。その靴をわたくしの足にそっと通して、彼女は少しだけ笑顔の種類を変える。
「ご立派ですね、アナスタシア様。もうしばらくの辛抱を、どうぞわたくにお手助けさせてくださいませ」
どこか芯に力強さを感じさせるような。
わたくしの心を奮い立たせ、そっと背中を押してくれるような。
そんな笑顔に、……人生で初めて向けられた応援の笑みに、わたくしの心はキュッと震えた。
その時になって初めて、心には熱が宿るのだと、わたくしは知った。
「どうですか? 歩けそうですか? ……あぁ、やはりわたくしの靴だと大きすぎますね。少々お待ちください、何か詰め物をして、上手く歩けるように調整しましょう」
そう言って、今度はドレスの内側の布地をむしり始めた少女を、わたくしは止めることができなかった。
止めても無駄だと思ったというよりも、少女が自分に向けてくれる思いやりに胸が一杯になっていたから。その熱を上手く飲み下すことができなくて、言葉が何も出てきてくれなかった。
結局、わたくしを助けるために装いをボロボロにしてしまった少女は、それでも誇らしい顔で、わたくしを側仕え達の元まで送り届けてくれた。少女の姿に側仕え達はギョッとした顔をしていたし、兄に至っては声高に少女の酷い格好を詰っていたけれど、少女がそうなった正しい理由を口にすることは一切なかった。
……あの時、わたくしを側仕え達の所まで導いてくれた時に少女がしてくれたエスコート。
あれ以上に完璧なエスコートを、わたくしは知らない。知りたいとも思えない。
知りたいと思うのも、傍にいたいと思うのも、熱を分かち合いたいと思うのも、彼女だけ。
レティシア・バートネット。
『わたくし』を応援したいと言って笑いかけてくれた、彼女だけ。




