Ⅵ
確かに『悲報』ではなく『不快な知らせ』だな、というのが、正直なレティシアの感想だった。
「婚約披露宴への招待状……ですか」
話が話だけにそのまま中庭で聞くわけにもいかず、レティシアはアナスタシアと連れ立ってアナスタシアの私室まで戻った。
アナスタシアは『汗もかいたでしょうし、お風呂に入って、ゆっくり身支度を整えてからで大丈夫よ』とは言ってくれたが、それではレティシアの気が落ち着かない。アナスタシアがレティシアの格好を気にしないならばこのままで、とレティシアが申し出ると、アナスタシアは『むしろ眼福ですわ!』と前のめり気味で言ってくれた。
「ええ。先に一通り目を通しましたが、確かに『婚約披露宴への招待状』でした」
そんなアナスタシアは、すでに落ち着いた様子でレティシアの対面に座している。その顔は『アンナ様』から『白銀の聖女』の表情へ変わっていた。
アナスタシアの真剣な表情を見つめてから、レティシアはアナスタシアの手から自身の手へ受け渡された封筒へ視線を落とす。
その瞬間、自身の眼差しに険が宿ったことが、レティシアには分かった。
──交差する三本の剣と星の図案。確かにアルバート殿下の紋章だわ。
アレスティア王国の国章は、交差する三本の剣をモチーフにしている。王族として遇される人々は、さらにそこにモチーフを加えて個人の紋章を作るのが習わしだ。当代の国王紋章は国章に太陽の組み合わせ、聖女紋章は国章に月の組み合わせが使われている。
「お相手はソフィア嬢のまま、お変わりなく?」
「はい」
問いに答えるアナスタシアの声は固く、言葉も短かった。声音の固さはアルバートへの怒りから、言葉の短さはレティシアへの気遣いからだろう。
──本当にもう、気にしていないというのに。
「中身を拝見しても?」
「ええ」
アナスタシアの気遣いに一瞬ほころびそうになった口元を引き締め、レティシアはすでに封蝋が破られている口から中の手紙を引き出した。
──見慣れない筆跡ね。誰かが代筆したのかしら?
質はいいが装飾も何もない真っ白な便箋に、レティシアには見覚えがない筆跡で文章は綴られていた。
雰囲気だけで言えば事務的な書類と似たり寄ったりな代物だが、書き記された内容は確かに『招待状』と言えなくもない。
「『王太子アルバート・エルヴィス・アレスティアとソフィア・シルヴェンの婚約披露宴を執り行う。引いては親族であるお前も、伴侶を同伴して出席するように』」
書き記された開催日は、ちょうど一週間後を示していた。婚約披露宴という重要な催しでありながら、随分と急な話である。
レティシアが視線を落としている文章を、アナスタシアはすでに記憶しているのだろう。表面上はつまらなさそうに、奥底には煮えたぎる怒りを隠して、アナスタシアは淡々と招待状の文面を諳んじてみせる。
「レティとの婚約を破棄して二週間足らずで婚約披露宴? その場にレティを連れてこい? ……馬鹿にするにも程がありますわ」
「わたくしから言わせれば、アナスタシア様に対して『お前』だの『出席するように』だのと、どの立場から命じているのかという点の方が気になりますが」
「レティ」
「わたくしは大丈夫ですよ、アンナ様」
レティシアのどこか他人事な物言いに、アナスタシアはキッと眉を吊り上げる。
どこまでもレティシアのことを気遣ってくれるアナスタシアのことだ。『レティはもっと自分が蔑ろにされていることを怒るべきですわ!』と、レティシアの分まで怒りを燃やしてくれているに違いない。
そんなアナスタシアの怒りを感じ取ったレティシアは、柔らかく笑み崩れるとソファーから立ち上がった。
「わたくしは『気にしていない』のではありません。『気にならない』のです」
テーブルを回り込んだレティシアは、アナスタシアの隣に腰を下ろす。寄り添って座り、そっとアナスタシアの両手を取ると、アナスタシアは眉を吊り上げたままレティシアを見上げた。
「だって今が、こんなに幸せなんですもの。……不謹慎ではありますが、婚約を破棄してくださったアルバート殿下には、感謝をしているくらいなのですよ?」
「レティ……」
「アンナ様が注いでくださる御心で、わたくしは満たされておりますから。羽虫が騒ぐ程度、何とも感じられないのです。それに」
満月の瞳の中に映り込んだレティシアは、トロリと蕩けた笑みを浮かべていた。
この光景を見るたびに、何度も何度も思い知らされる。
──ああ、アンナ様は、本当に。
真っすぐに、レティシアのことを見てくれている。
どこまでも真っすぐに、レティシアのことだけを。
「礼儀知らずは、遠からず叩き潰されるのでしょう?」
その震えるほどの幸せを噛み締めながら、レティシアはそっとその言葉を唇に乗せた。溶け落ちそうなほどに甘い笑みにはそぐわない凶暴な言葉に、アナスタシアの目が丸く見開かれる。
そんなアナスタシアの反応に、レティシアは無意識のうちにクスリと笑みをこぼしていた。
──わたくしをこんな風に変えたのは、アンナ様だというのに。
以前のレティシアにあったのは『諦観』だった。『自分が何をしたって状況は変わらない』『自分はどうあってもアルバートと良好な関係を築くことはできない』という諦めから、レティシアはアルバートに対して心を凍て付かせていった。無関心、と言うと少し違うかもしれないが、それに近い状況だったと思う。
だが、今は違う。
「今から叩き潰される羽虫どもを哀れに思いこそすれ、腹を立てることなんてありませんよ」
これが現在のレティシアの、偽らざる本音だ。
今のレティシアの意識の真ん中には、いつだってアナスタシアがいる。レティシアに真っすぐに心を注いでくれる大切な大切な伴侶が、いつだってレティシアの心の一番柔らかな場所を守り、温めてくれている。
レティシアの意識は、すでにアナスタシアに占められている。アルバートへの興味関心、ましてや未練など、レティシアの中にはこれっぽっちも残っていないのだ。
興味が失せた存在に当てつけのような行動を取られようが、レティシアは今更何とも思えない。『アナスタシアを害する可能性のある不穏分子』という認識はあるが、本当にそれだけだ。アルバートがどんな行動を取ろうとも、それでレティシアの心が傷付けられることなどもはやあり得ない。
とはいえ、この招待状には、多少思うところがあった。
──このタイミングで、明確に敵対しているアンナ様へ、わざわざ招待状を寄越した。
こんなの、罠へのお誘いに決まっている。
「そういえばアンナ様。『どちらかと言えば朗報』というお話については、まだ伺っておりませんでしたね」
アナスタシアの瞳を間近で覗き込んだまま、レティシアはふと思い出した疑問を口にした。レティシアが浮かべた笑みに見惚れていたのか、上の空でレティシアを見つめていたアナスタシアがその言葉で我に返る。
「外交に出向いているお父様から、急ぎの書簡が届きました。当初よりも日程を切り上げてご帰還なされるそうです」
「どれくらいで到着されるか、目処は立っているのですか?」
「書簡には十日ほどとありました。ですが、リンゼル侯爵達の妨害を受ける可能性は、十分にあります」
『ですので、正味二週間ほどはかかると見ておりますわ』とアナスタシアは真剣に続けた。その言葉を受けたレティシアは、アナスタシアの手を取ったまま視線を伏せる。
──なるほど。アルバート殿下は、陛下がご帰還なされる前に事をまとめてしまいたいのね。
本来、婚約披露宴ともなれば、主催する側も招待される側もそれなりの準備期間が必要になる。
直近で大きな舞踏会があったばかりだ。招待される女性客達はドレスの準備もままならない状況だろう。移動の手配や、各家の事情もある。場合によってはそれらを理由に出席を断らざるを得ない家が出てくるに違いない。
そうなれば確実に主催者へは批判が向けられる。それは本来、何があっても避けなければならないことであるはずだ。王配候補として長年教育されてきたレティシアにとっては、もはや『常識』とまで言える事柄である。
アルバートがその辺りのことさえ考慮できない馬鹿だったのか、あるいは理解していながら事を強行しようとしているのかは分からない。
だがあえてこれだけの無茶を通そうとしているのは、国王が帰還し、アルバートに託されているなけなしの権力が全て回収されてしまう前に事をまとめてしまいたいからだろう。逆に言えばアルバートは、この話を耳にした国王がアルバートに同意することは決してないと理解しているということだ。
──このタイミングでの婚約披露宴の強行が、アルバート殿下の自発的な個人意志なのか、アルバート殿下の背後にいるリンゼル侯爵の思惑かは、分からないけれども。
どちらにせよ、レティシアの心の裡はすでに決まっている。
「どうされますか? アンナ様」
考えをまとめるように視線を伏せたアナスタシアへ、レティシアは穏やかな笑みとともに問いかける。レティシアの声音からその表情を読み取ったのか、アナスタシアはレティシアへ視線を戻すと小首を傾げた。
「わたくしは、アンナ様の進む道へ、どこまでもお供いたします」
そんなアナスタシアの手を、レティシアは己の頬へ導いた。繋がったままだったアナスタシアの手を己の頬へ添わせ、スルリと子猫が甘えるかのように顔を擦り寄せる。
「無礼者の呼び出しになど応じる必要はないと切って捨てるもよし。愚か者達が用意した粗末な罠を蹴散らしに行くのもよし」
アナスタシアの小さくて柔らかな手が頬を撫でる感触は、いつだってレティシアにこの上ない心地よさを与えてくれる。自然に満足の笑みを浮かべていると、目を瞠ったアナスタシアがカァッと全身の熱を上げていくのが分かった。
まん丸になった満月の瞳の中には、変わることなくレティシアだけがいる。
その事実を噛み締めた瞬間、レティシアはアナスタシアの瞳の中に映り込む自分に向かって、挑発的な笑みを浮かべていた。
「アンナ様は、どうされたい?」
そんなレティシアの姿に、アナスタシアがはく、と声もなく口を開閉させた。呼吸の音さえ忘れた動きで数度唇をはくはくと動かしたアナスタシアは、やがてジワリと顔中に笑みを広げていく。
「こんなにカッコいいレティを前にして、敵前逃亡なんて選べませんわ」
アナスタシアの顔に広がった笑みは、レティシアに負けず劣らず好戦的なものだった。
「あの救いようのない愚か者に、教えて差し上げましょう」
その笑みを広げたまま、アナスタシアは空いているレティシアの手を己の頬へ導いた。先程のレティシアの動きをなぞるようにレティシアの手に頬を擦り寄せたアナスタシアは、さらに首を捻るとレティシアの手のひらに唇を寄せる。
チュッ、という濡れた音が、やけに大きく部屋の中に響いたような気がした。
「わたくしのレティが、今、どれだけ幸せな顔をしているのかということを。あれがどれだけ稀有な華を手放したのかということを」
柔らかな熱に、レティシアの体がピクリと震える。繋がった手からその振動が伝わったのか、アナスタシアはニンマリと笑みを深めた。
「そうと決まればのんびりはしていられませんわ。あいつに見せてやるのは惜しいけれども、晴れの舞台にレティを彩る、最高のドレスを選ばなくては」
「ほ、程々で、お願いします」
「あら。それは聞けない相談ね?」
アナスタシアが発する艶と気迫に、レティシアは思わず先程までの笑みを忘れて震え上がる。
そんなレティシアの様子に、アナスタシアはレティシアの手を捕獲したまま、コロコロと愛らしい笑い声を上げるのだった。




