step3 混乱と熱狂
step3
目が覚めたのは昼過ぎだった。突き刺すような陽射しの中、ボックはどこへ向かうでもなく宿を出た。
二日酔いで頭が痛んだ。四つ角でブルースハープを吹く男が小銭をせがむ。地蔵を祭った祠の前では、犬が喧嘩している。重油の匂いが漂う街には、活気というより熱気が漂っていた。
ボックは隙間なく並ぶ店の中から、旨いと教えられた定食屋を探し出した。擦り切れた暖簾に「伊勢屋」という文字が何とか読み取れる。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声。スキンヘッドにねじり鉢巻きの男が鍋を振っていた。
「おう、ガストンズの新入りだな」
親父は無表情でそういった。ボックは小さくうなずいて、一番奥のカウンター席に座った。混み合う店内、客の視線がボックに集まった。作業服姿の男たちは、街が発行した許可証を袖や胸に留めていた。戸惑ったボックは顔を背けた。
「へい、お待ち!」
目の前に大盛りの焼きそばが置かれた。
「いただきます」
ボックはゆっくりと食べ始めた。
「あんた、昨日は大活躍だったな。俺も儲けさせてもらったぜ。これはお礼だ」
親父が焼きそばに目玉焼きを乗せた。ボックは黙ったまま軽く頭を下げた。
「ああ、すまん。言い方がなっちゃいなかった。あんたらのことを、競馬のウマみたいに思ってるわけじゃねえんだ」
「大丈夫。好きに思ってくれ」
ボックはグラスの水を一口飲んだ。
「この街じゃ、ガストンズの選手のことをそんなふうに思う奴はいねえ。それだけは信じてくれ」
親父は、ばつが悪そうに頭をかいた。
店を出たボックは露店を覗きながら、ふらふらと歩いた。裏路地には古着の市が立っていた。やっと人混みを抜けると、小さな舞台がある広場に出た。子どもたちがハトの群れを散らすその少し先に、どこの地域でも「公衆便所」と呼ばれている真四角の建物が見える。それがWBLの券売所だった。
ずっと避けてきた場所なのになぜ入れたのか、自分でも不思議だった。薄暗く冷たいロビーで、老人たちが将棋を指したりおしゃべりしたりしていた。賭けの倍率の変化を知らせるブザー音だけが虚しく響く。ずらりと並んだ券売機は、帽子や手荷物を置く台になっていた。
ふと目をやったモニターの中で、数万人のスタンディングオベーションを浴びてどこかの王族が貴賓席についた。フロリダの野球学校で迎えた最後のリーグ戦、優勝をかけて臨んだ球場だった。煮魚のような目をしたWBL管理局のデムーロが、王族に付き添っている。
ボックは思い出す。2打席目で放ったツーベース。試合を決めたホームラン。おかしなことに、都合のいい場面ばかりが蘇ってきた。
ボックは両手に顔を埋めた。
──学生リーグ記録を大幅更新!ドラフトでは争奪戦!
──未来の三冠王候補、アジアリーグか?アメリカリーグか?
あらゆるメディアが競うように報じた。その試合が終われば、ボックはただWBLのどこかのチームに所属して活躍するだけだった。
何が起きたのかわからなかった。試合の終盤、フォームをチェックしにベンチの裏へいくと、黒いマスクを被った3人組がいきなり襲いかかってきた。ボックはとっさに反撃して、その中の一人を殴り倒した。
「何をしてるんだ、やめろ!」
剥いだマスクの下から現れたのは、所属チームのコーチの顔だった。周囲の声が一気に遠のいた。誰かに強く頭を押さえつけられた。警備員の警棒だけがやけに鮮明に見えた。それから先のことは所々抜け落ちている。気がつけば、すべてが終わっていた。
広場まで戻ったボックは、アイスキャンディーを買って木陰に寝転んだ。階段の端から順番待ちの列ができている。いつの間にか、小さな舞台の上は若い夫婦が切り盛りする床屋になっていた。
どこで知ったのか、坊主頭の少年に握手を求められた。少年は恥ずかしそうに将来ガストンズの選手になりたいといって、自転車に乗っていってしまった。
一方向に走っていく子どもたちの声は、どこか弾んでいた。ボックは身体を起こして立ち上がった。
露店の眼鏡屋の前だけ、人の流れが淀んでいた。天幕代わりのブルーシートの下に、炎の塊がじっと立っている。炎は何か話しかけると、並んだ眼鏡の中からひとつつまみ上げた。そして、ルビーのように輝く目の前にかざした。
「コレ……ニアウ?」
耳の奥が痺れる。初めて聞いたFBの話し声は、ガラスが共鳴するように甲高く細かった。店主は軽くうなずいたが、別のフレームを取り出して渡した。FBはしばらく考えるように首を傾げて、炎の揺らぎの奥から革の財布を取り出した。
黒い丸メガネを両手で持って、顔に近づけたり離したりしながら何度もかけ直す。その様子を見ていた子どもたちが、くすくすと笑った。
FBは主人の方を向いて頭を下げた。
ブルーシートがはためいた。つむじ風が路地を抜けて砂埃が舞い上がる。眼鏡をかけたFBは、高く跳ね上がって青空へ消えていった。
◇
遠征用の古いバスはチームカラーのオレンジ色で、緑のペンキで「Gastons」とロゴが入っていた。
大きなバッグを背負ったボックがバスに乗り込んでいく。
最前席でノートに目を落としていたタカハシが手を上げた。車内ではニトロやチャックが大騒ぎして、ダイクたちはトランプに夢中になっていた。
その日の対戦相手はロイヤルキングスだった。バスは見慣れた景色を抜けて、サンノベの街を目指す。崩れた崖を削って通した道を進むと、急に光が差し込んで輝く海が現れた。
「ボックさん、今日も楽勝ですよ」
前の座席から、ショウタがひょっこり顔を出した。
「ああ、今夜は完封してやる。鉄クズ漁りの成金どもが。」
ボックの隣でアンガスがいった。
「でもいいですよね、お金があるって。人工芝はめちゃくちゃきれいだし、ボールも新品だし」
アンガスがショウタの頭を叩いた。
「なんだお前、移籍したいのか?じゃあ、明日にでもママに話しておいてやるよ」
「嘘です、嘘です!」
ショウタは座席から身を乗り出した。
「なあ、前の遠征で何をかっぱらってきた?」
「えっ、えっ、見てたんですか?実はボールとタオルを……」
「俺はあいつと一緒に冷水器を運んだぜ」
アンガスが目をやるとニトロがウィンクを返した。
「じゃあ、ロッカールームのあれって……さすがに捕まりますよ?」
「盗んだんじゃねえ。あのもっさりした代打屋と賭けをして勝ったんだ」
代打屋という単語に、はっとするボック。ショウタは気がつかず続けた。
「ハチジョウ選手ですか?」
「ああ、そうだ。ということは……」
アンガスがにやりと笑う。
「ということは?」
「泥棒はお前だけってことだ」
選手たちみんなが大声で笑った。
バスが止まった。夕日を反射する溶接跡だらけのアーチの向こうに、ナンブメタルスタジアムが見えた。駐車場の隅にスクラップにされた車が積み重なっている。球場はくすんだグレーで、記念碑や銅像があちこちにあってすっきりしない。
「第9回アジアカップ7位か。ちょっと憧れるなー」
けばけばしい垂れ幕を見上げて、ショウタがつぶやいた。
ガストンズの選手たちがロッカールームに続く通路を進んでいくと、向かいからキングスの選手たちが歩いてきた。
「よう、ハチジョウ。今日はどうする?」
アンガスが、どっしりとした体つきの男にいった。
「やめておこう。今日は結婚記念日でな」
後ろを歩いていたニトロが手を叩く。
「そいつは、おめでとう。お祝いにホームランでも打とうか?」
ガムを噛んだキツネ目の男が、すれ違いざまザイオンに嘲るような顔を向けた。その様子に気がついたタカハシが、ぽんぽんとザイオンの肩を叩いた。
「ゴー、ロイヤルキングス!」
バックスクリーンの上段で、花火の形にネオン管が光った。スポットライトから放たれた七色の光が球場中をぐるぐると照らす。アップテンポの電子楽器の音とは対照的に、観客の反応は鈍い。
「まったく、うるせえだけだな」
グラブを磨いていたジョディーがいった。
「これがアトラクションか?」
ボックは隣にいたセイヤにきいた。
「はい、前に来た時もこれだけ」
「まあ、こっちは出し物なしだから文句もいえねえんだけどな」
「あんなにすごいのに、もったいないじゃないか」
ボックは少し驚いていた。
「ゲン爺はセキでしか投げないんですよ。イノシシも連れ出せませんしね」
後ろにいたショウタが残念そうにいった。
キツネ目の男はホワイトという投手だった。長身から投げ下ろす変化球を打てないまま、試合は4回表まで進んだ。
観客席からは、歓声とも罵声ともつかない声が断続的に飛んでくた。だが、そのどれもがプレーとずれていた。
「声が……遅いな」
誰にいうでもなくボックがつぶやいた。
「数字を確認してから声を出してるからな」
振り向いたダイクがいった。
「数字?」
「あれが主役だ」
ダイクは顎で指した。
立ち上がったボックは、パークビジョンの上を見た。細長い掲示板に大きく賭けのオッズが表示されていた。スタンドに座っている誰もが、ひとつのプレーごとに掲示板に目をやっていた。
「ここじゃ、賭けがすべてだ。全財産を賭けてる奴も珍しくないって話だ」
そういってダイクはため息をついた。
「野球場に来て野球を見てねぇ」
バットを磨いていたニトロが笑った。
真顔のチャックが続ける。
「これは野球の神様がお怒りだろうね」
「そんなのもいるのか?」
ボックは腰を浮かせた。
「いるわけないね」
チャックは冷たい目をしてヘルメットを脱いだ。
6回表。0対0。ガストンズの攻撃。
「いいぞ!抜けろ、抜けろ!」
ダグアウトの柵に寄りかかった選手たちが声を張った。カーブをとらえたセイヤの打球は鋭かったが、横っ飛びしたショートのファインプレーに阻まれた。
「クソっ!」
ベンチの上から観客の声が聞こえた。
「あっちのファンよね?味方に文句いわれる筋合いある?」
コジローが呆れたようにきいた。
「ねえな」
隣でアンガスが両手を広げた。
ニトロがゆっくりと右打席に入った。
初球。スプリットが外角に決まる。
「ストラーック!」
構えを緩めて、また構えを作る。
2球目は同じコースにスライダー。強く振ったニトロのバットがボールの内側を叩いた。一塁側に切れるファウル。
ニトロはタイムを要求して打席を外した。首を左右に曲げてから屈伸、それからバットを縦に回して先端を握った。
「ワーーー!」
急にスタンドから歓声が上がった。掲示板のオッズが大きく跳ね上がっていた。ニトロは不思議そうな顔をして考えると、またバットを回転させてグリップを握った。
「オーウ……」
オッズが下がる。スタンドから落胆するような声の合唱。ニトロは、またバットの先を持った。
「ワーーー!」
再び歓声。ベンチの方を見たニトロは、笑いながらバットを何度も回転させた。苦い顔をしたアンパイアが打席に戻るように促した。
3球目は外角から入ってくるシュート。アウトステップしたニトロは、擦るように合わせてセンター前に運んだ。
マウンド上のホワイトは歪んだ笑みを浮かべていた。ネクストバッターズサークルのザイオンが立ち上がった。それからゆっくりと左打席に入るとバットを寝かせて静止した。
初球は内角のカットボール。
「ストラーック!」
ダイクが前を向いたままボックにいった。
「あいつらはWBLで同じチームにいたんだ。膝をやったザイオンがクビになって、その後成績が悪かったホワイトもクビになった」
ボックは、へらへら笑うホワイトを見た。
「ここは打つだろうな。ああいう顔をする奴は必ず負ける」
ホワイトが足を上げる。畳んだ右肘が伸びてボールが放たれる。外角から入ってくるスライダー。ザイオンはバットを引いて、強く振り下ろした。真芯でとらえた打球が高く上がって、右中間スタンドの中段まで飛んでいった。
下を向いたままホームベースを踏んだザイオンは、選手たちの祝福を受ける。
「ナイスホームラン!」
ニトロが背中を叩いても暗い顔は晴れない。ザイオンはベンチの隅に座った。そして、もう一度立ち上がって思い切り壁を殴った。
0対2。7回、8回、ガストンズがリードしたまま試合は進んでいった。
9回裏。マウンドにはハヤタが立っていた。右サイドスローからコーナーを突くピッチングが冴えて、簡単にツーアウトを奪った。
「来やがったぞ。ハチジョウだ」
そういったジョディーが守備位置を変えた。ボックもセカンド寄りに数歩動く。
左打席に立つハチジョウは、目一杯長くバットを持っていた。
──振る気満々ですね
ショウタは、マスク越しにハチジョウの足の位置を観察した。
初球。サイドスローから投じられたシンカー。ハチジョウのバットが動く。泡が弾けるような音を残して、ボールがバックネットに飛んだ。
2球目は内角ストレート。ハチジョウは早めにバットを引いて見逃した。
──騙されませんよ
ショウタはシンカーを要求する。首を振るハヤタ。意外そうな顔でストレートのサインを出すショウタ。また首を振ったハヤタは、スライダーのサインを返した。
3球目。ハチジョウには、ハヤタの右腕がとてつもなく長く見える。斜めから入ってくる球が内角に落ちる。迎えにいったバットは止まらない。
打球はセカンドゴロ。正面で受けたジョディーがボックに送球した。
「ゲームセット!」
スタンドから、歓声ともため息ともつかない声が上がった。
一塁ベースの手前で立ち尽くしたハチジョウは、手袋をとって地面に叩きつけた。そして、ぼんやりとライトスタンドからバックネットまでを見渡した。ふと蝋人形のように動かない男と目が合った。あらゆる音が同じ厚みで耳に入ってくる。
「……やめろ」
ボックが、うめくようにいった。
──パン!
乾いた銃声。
ハチジョウが静かに膝をついた。
スタンドから悲鳴が上がって、観客たちが逃げ惑う。
「……野球だぞ」
ボックはジョディーの震える声を聞いた。




