step21 ボック、叫ぶ
step21
9回裏。4対4。1アウトからフォアボールを選んだチャックが、ビショップの暴投で二塁に進んだ。
「大きいの打つ準備しておいてねん」
打席に向かうコジローが、すれ違いざまボックにささやいた。
「プレイ!」
右打席で構えるコジロー。マウンド上のビショップは、じっとりと汗をかいていた。
初球。内角低めにストレートが決まる。
「ストラーック!」
うなずくビショップ。
2球目。真ん中から曲がるシュート。
「ボール!」
「ここにきて内角攻めか……」
ベンチに座ったザイオンは、デルタホーンズ戦での内角攻めを思い出していた。
コジローは何度か屈伸して、目一杯ベースから離れた位置に立った。
キャッチャーが首を傾げてサインを出す。
「まあ、いいだろう」
ビショップは面倒そうにうなずいた。
3球目。真ん中に投げたスライダーが外角に逃げていく。
「とっておきーーーっ!」
右手をバットから離しながらコジローが叫ぶ。
アームが伸びる。左腕一本で持ったバットがライト前にボールを弾き返した。
「気に入ってくれた?」
コジローが一塁上でポーズを決めた。
塁審は、口を半開きにしたまま動きを止めた。スタンドから笑いと驚きが入り混じった声が湧いて、色とりどりの団扇が揺れた。
「見ましたか、今のバッティング!」
レフトスタンドで、興奮した青年が隣席の女性に話しかけた。
「おいおい、なんでもありだな……」
ビショップの顔から生気が消えていく。
収まらない騒めきの中、ボックが立ち上がった。左肘の感覚はほぼなくなっていた。きつく包帯を巻きつけた右足は棒のように真っすぐで、膝は曲がらない。
「ボックさーん!無理しないでくださいねー!」
スタンドからリンコが声を張り上げた。ボックは軽く手を上げるが、微笑む余裕はなかった。
貴賓室のテラス。
「今のは明らかに不正打撃です。おかしいんじゃないですか、あのチームは」
リーンが指先でこつこつとテーブルを叩いた。
「9回裏同点か、これぞ野球の醍醐味ですねー」
クルーンは呑気に双眼鏡を覗いている。
すっと無表情になったリーンが、静かにクルーンに告げた。
「今、決心がつきました。本部に戻ったらあなたの異動を申請します。さあ、最後の仕事をしてください」
「えーっ!勘弁してくださいよ部長!すぐにやりますから!」
大袈裟に嘆いたクルーンは、死角でインカムのスイッチを切った。
「あー、聞こえる?もう全部やっちゃって!これでもうあいつも終わりだから……」
口元を隠したクルーンがにやりと笑った。
1アウト一塁三塁。ボックが左打席に入った。痛みのせいで耳の奥が痺れて視界は狭まっていた。
ライトスタンドでは、セキの人々が喉が張り裂けるほど叫んでいた。静かだった他の席からも大きな声が飛んで、球場全体が熱気に満ちていた。
「プレイ!」
ビショップはミットではなく、ぼんやりとボックを見つめていた。
初球。外角に力のないストレート。ボックは反応するが、怯えるように身体が震えただけだった。
「ストラーック!」
慌ててタイムをとったキャッチャーが、マウンドに駆け寄った。
「あの、大丈夫ですか?」
「どうした?ちゃんとストライクを投げただろ」
ビショップは冷たくこたえた。
「あいつはもう壊れてますが、嫌な空気です。とにかく抑えてください」
キャッチャーは、むっとしながら戻っていった。
2球目。カーブがベースの手前でバウンドする。
「ボール!」
キャッチャーの舌打ちが聞こえた。
3球目。曲がり切らないスライダーが真ん中に入ってきた。ボックは無理矢理スイングする。
「ストラッーク!」
身体がばらばらになりそうな激痛が走った。ボックの目に映る照明灯の光が真っ赤に滲んで、やがてFBの顔に変わった。尖ったクチバシが必死に何か叫んでいる。聞こえない声が、球場全体の声援とひとつに重なる。
「頑張れ!頑張れ!」
ボックはダグアウトを見た。柵に身体をあずけたザイオンが拳を上げて声を張っている。ダイクは帽子を振り回して叫んでいる。ノットやノザキも、すべての選手が力の限り応援している。スタンドのニトロ、アンガス、ショウタ、リンコも、なりふり構わず絶叫していた。
時間が止まったような気がした。セキに来てからの全ての出来事が蘇っては消えていった。
──そうか。そうなんだな。わかってたことじゃないか。俺は俺だ。今の俺が俺なんだ。
眉間に寄せていたシワが消えていく。
マウンドではビショップが息を切らしていた。
「ゴミ屑のくせに調子に乗るな!」
そう大声でいってから、セットポジションに入る。
「タイム!」
主審に合図したボックが、2、3歩前に出てビショップを指差す。大きく息を吸って、それから怒鳴った。
「おい、聞こえてるぞ、ゴミ屑ピッチャー!最優秀投手だって?いい加減に利き腕で投げろよ!」
主審が肩を叩くのも無視して、ボックは怒鳴り続けた。
「それとも俺たちの勝ちに賭けてるのか?そうか、噂の八百長チームっていうのはお前らのことだったんだな!だったら、こうしよう!」
ボックは右手に持ったバットの先を、ゆっくりとライトスタンドへ向けた。
球場全体から悲鳴のような声が湧き上がった。
「予告ホームラン?」
バックネット裏で女の子が父親にきいた。
「プレイ!」
キャッチャーが落ち着けという仕草をしてからサインを出した。
ビショップの目は怒りで充血していた。
4球目。振りかぶるビショップ。丸めた背中に暗い影が立ち込めて、しなった右腕が消えた。
ボックが叫ぶ。
「チャック!」
サードランナーのチャックは、ためらわずにスタートを切る。
暗闇から飛び出してきたボールが、筋を引いて頭に近づいてくる。ボックは腕を縮めて侍のように身構えた。そして、目を見開いて顔の正面にバットを傾ける。
──ゴン!
ボールが転がっていく。ボックは足を引きずりながら一塁を目指して懸命に走った。
突っ込んできた一塁手がグラブでボールを挟んで、そのまま捕手にトスした。滑り込んでくるチャックのスパイクが土煙を上げる。
「セーーーフ!」
起き上がったチャックが、高く高くジャンプした。
球場が震える。観客の誰もが立ち上がって、言葉にならない熱い声を上げた。
ベンチを飛び出したガストンズの選手たちが、倒れ込んでいるボックに飛びついた。
手帳を放り出したタカハシが、ゲン爺と抱き合った。
ニトロとアンガスは、ショウタの車椅子を揺すりながら雄叫びを上げる。リンコは子どものように大声で泣きじゃくっていた。
ライトスタンド。
「大丈夫か、婆さん?」
アスナロ亭のマスターが声をかけた。
「腰が抜けてもうた……」
ギン婆さんもマッケンジーも伊勢屋の親父も、座席にもたれてぐったりしていた。
「やった!やってくれたぞ!」
アスナロ亭では、街の人々が抱き合っていた。
「ママ、ボック大丈夫かな?」
マナが心配そうにきいた。
「きっと平気よ。そんな弱い人じゃないわ」
ララは涙を拭いながらこたえた。
「そうだよ、ボックも立派なセキの男なんだから」
コユキがマナの頭を撫でた。
ホテル・マグノリア。
「野球が、野球が生き返ったぞ……」
号泣する元コーチの男の後ろで、若者も老人も手を叩いていた。
「ありがとう、ガストンズ……」
エルダが両手で顔を覆った。
ベンジャーズの選手たちが引き上げていく。足を止めたビショップとサンタナが、喜び合うガストンズの選手たちを見た。無表情の二人はすぐに目を逸らして、ベンチの奥へ消えていった。
センターポールで、ガストンズの球団旗がはためいている。
バックネットの辺りから、新たに歓声が上がった。
3階席で、2階席で、外野スタンドで、観客がびりびりに破いた団扇を宙に撒いている。
「ざまあみろ!ざまあみろ!」
降り注ぐ不揃いな紙吹雪。喜びの輪の中のボックは、誰にいうでもなく何度も叫んだ。




