南の倉、十九の名
「対象区画に到達。……作戦を、開始します」
南倉地帯。ゴルモア港のはずれに並ぶ古い石造りの倉は、夜になれば人気が絶える。
波の匂いと、機械油と、かすかに腐った何かの匂い。ヴィンセントは煙突の影で動きを止め、魔導ワイヤーのテンションを確かめた。
『対象倉、外壁に感知結界あり。南側の第三窓、結界に穴があります。通過できます』
通信環の向こうで、クロエの声が静かに言った。
「穴の大きさは」
『あなたの肩幅より二指ぶん広い』
「ぎりぎりだな」
『ぎりぎりで問題ありません。肩を入れてから、息を吐いてください』
「通ったことあるのか、お前」
『計算上の話です』
男は苦い顔をして、南側へ回った。
§ § §
倉の内部は暗かった。
魔力灯が間引かれ、床に細い光の筋だけが伸びている。高い天井に木の桁が何本も渡り、積まれた大箱の影が闇をつくっていた。箱は、全て同じ大きさだ。簞笥ほどの。
ヴィンセントは箱の間を縫うように進んだ。黒鉄の面の下で、鼻が何かを拾う。
――木くずと、油と、かすかに、洗っていない子供の匂い。
箱に手をかけたとき、通信環が震えた。
『……主。奥の区画、扉が九つあります。全て、外側から鍵がかかっています。番号が書いてあります』
「番号」
男は一言だけ言い、それ以上は言わなかった。
「先に行く」
『はい。お気をつけて』
奥の区画へ向けて、床を流れる。影が、影のように動く。
──そのとき。
「──ネズミか」
声は、頭上から降ってきた。
「主! 番人ですッ!」
警告と同時に跳んでいたのは反射だった。直後に、ヴィンセントが立っていた場所の石床が、白く弾けた。熱が頬を舐める。
火だ。
「速い」
桁の上に人影があった。全身を黒い法衣で包み、手の甲から前腕にかけて刺青が走っている。
わざわざ声をあげたということは、己の技に絶対の自信があるのだろう。
詠唱が、なかった。
無詠唱のスキル持ちなのかも知れない。
「…………」
――いや違う。
ヴィンセントは、その事実を一瞬で処理した。詠唱なし。僅かに動かした指の動きだけで術式を起動している。入れ墨に魔術回路が刻まれているということだ、発動時間は。
「二秒か」
黒法衣が、首を傾けた。
「何を言っている?」
「お前が術式を起動してから、火が出るまで、二秒だ」
また光が走った。今度は左から。横に転がりながら、ヴィンセントはワイヤーを天井の桁へ打ち込んだ。巻き上げと同時に、火球が床を抉る。
『……速い。今の術者、通常の五倍以上の速度です』
「分かってる」
『正面では無理です』
「分かってる」
『逃げてください』
「分かってる、分かってるから、少し静かにしてくれ」
切り札を切るべきか?
いや、この先何が待ち受けているかがまだわからない。
切り札は切れない。
桁の上を走った。黒法衣が追ってくる。術式の光が連続して瞬く。ヴィンセントは桁から桁へ、予測不能な経路で跳び続けた。直線に動くな。直線は死ぬ。それだけは、二十年前に叩き込まれた。
問題は、このまま動き続けても埒が明かないことだ。奥の区画には近づけない。子供たちは、あの扉の向こうにいる。
「クロエ」
『はい』
「こいつは入れ墨に術式を刻んでいる。この術式タイプ、光源を失うとどうなる?」
一拍の間があった。
『……刺青型術式回路は、光を触媒にします。暗闇では出力が三割以下に落ちます』
「即時発動も?」
『理論上は。ただ』
「ただ?」
『あなたも見えなくなります』
「それでいい。倉の魔力灯、全部落とせるか」
『結界の内部からは手が出せません。ただ、外側の給電回線なら触れます。……三秒ください』
「頼む」
男は桁の上で、動きを止めた。黒法衣が術式を構える。光が瞬こうとした、その瞬間。
倉の中が、真っ暗になった。
音もなく、全部の灯りが落ちた。
「──なに、を」
詠唱者が、初めて声を揺らした。
ヴィンセントはすでに動いていた。暗闇など、関係ない。地図は頭の中にある。床から桁まで七メートル。桁から奥壁まで十二メートル。黒法衣の位置は、さっきの声で分かる。
ワイヤーが、闇の中を走った。
一条。二条。三条。
「──っ!」
光が散った。術式が途中で乱れて霧消するときの、あの光だ。詠唱者の両腕を、ワイヤーが捕えていた。手首を縫い留め、肘を桁に打ちつけ、指先が術式回路に触れる前に、全部、止める。
「ワイヤーは一・五秒で動く」
闇の中で、男の声だけが落ちた。
「お前の火より、速い」
倉が、しんと静まった。
しばらくして、通信環が震えた。
『……奥区画の結界、外側から緩めました。扉の解錠機構にアクセスできます。……気を失っているだけなので、五分で目が覚めます。急いでください』
「了解」
『どういたしまして』
§ § §
扉が九つ、並んでいた。
全部に、白いペンキで番号が書いてある。雑な字で。
男はその前に立ち、一秒だけ止まった。
「クロエ」
『はい』
「開けるぞ」
『……はい』
最初の扉が、きい、と鳴って開いた。
暗がりの中で、小さな息が聞こえた。息を殺している。怖がっている。
「──来たぞ。怖くない。連れて帰る」
声は、できる限り低く抑えた。あの喉で。子供たちの名前を、ひとりずつ読み上げる、その同じ喉で。
管制卓では、クロエが目を閉じていた。
水晶球の中、九つの扉が順番に開いていくのを、少女は見ていた。見ていた。逸らさなかった。逸らさないと、決めていた。
『……確認します。第一扉、三名。第二扉、二名。第三扉、四名──』
扉は、次々に開いた。そのたび、小さな息と、小さな足音が増えていく。
「第七扉」
男の手が、そこで止まった。
――音が、しない。
息を殺しているのとは、違う。息そのものが、ない。
『……主』
「分かってる」
扉を開けた。
中は暗く、誰も動かなかった。
――何人だ。
数えるのに、時間がかかった。数えたくなかった、というほうが近い。
「……クロエ」
『……はい』
「三だ」
通信の向こうで、短い沈黙が落ちた。それから、消え入りそうな声が答えた。
『……第八扉、第九扉、確認します』
残り二つの扉には、それぞれ子供が息をひそめていた。生きていた。
子供たちの足音が、石床に散らばっていく。ヴィンセントは最後の扉を閉めながら、胸の底で数を数えた。
来るときは十六だった。帰るときの足音は、それより少ない。第七扉のぶんだけ、足音にならなかった者たちがいる。
――番号は、もう要らない。
俺が、名前を拾う。生きている名も、そうでない名も。
扉の並びの奥に、粗末な事務室があった。錠を切り、金庫を開ける。台帳が、三冊。搬入の記録と、売り先と――そして、仕入れ元。
「クロエ。土産だ。読むのは、帰ってからにする」
『はい。……次の、名前ですね』
「ん。……三人ぶん、生きていない名だ。台帳にはない」
沈黙が、また落ちた。
『……本人に聞けないぶんは、記録を洗います。届け出、身元、家族。どこかに必ず、名を呼ぶ誰かがいます』
「頼んだ」
「ん。――帰投する。第四経路」
『確認しました。……生きている子たちを、全員連れて帰ってください』
「ん」
「……第七扉の子たちは」
「俺が運ぶ」
『……はい』
「お体にご無理は」
「聞こえん」
「聞こえておいでのくせに」
霧の夜に、小さな足音がいくつも続いた。
その後ろを、音を立てない男が、音を立てない三つを抱いて歩いた。
今夜のゴルモアは、昨夜より少しだけ軽くなった。
そして、少しだけ重くなった。
どちらも、本当のことだった。
管制卓の少女は、水晶球の中を流れる黒い影と、その後に続くちいさな影たちを、目を逸らさずに数えた。
十六。生きて、歩いて。
三。名前を、まだ持たない。
その三人ぶんの名前を、明日、また掘り起こさなければならない。本人には、もう聞けないから。
それが、今夜の、いちばん重い仕事だった。




