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無能な三代目当主は二つの貌を持つ。 ―13歳の少女執事だけが、それを知っている。  作者: カクナノゾム


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9/23

南の倉、十九の名

「対象区画に到達。……作戦を、開始します」


 南倉地帯。ゴルモア港のはずれに並ぶ古い石造りの倉は、夜になれば人気が絶える。

 波の匂いと、機械油と、かすかに腐った何かの匂い。ヴィンセントは煙突の影で動きを止め、魔導ワイヤーのテンションを確かめた。


『対象倉、外壁に感知結界あり。南側の第三窓、結界に穴があります。通過できます』


 通信環の向こうで、クロエの声が静かに言った。


「穴の大きさは」


『あなたの肩幅より二指ぶん広い』


「ぎりぎりだな」


『ぎりぎりで問題ありません。肩を入れてから、息を吐いてください』


「通ったことあるのか、お前」


『計算上の話です』


 男は苦い顔をして、南側へ回った。


 § § §


 倉の内部は暗かった。

 魔力灯が間引かれ、床に細い光の筋だけが伸びている。高い天井に木の桁が何本も渡り、積まれた大箱の影が闇をつくっていた。箱は、全て同じ大きさだ。簞笥ほどの。


 ヴィンセントは箱の間を縫うように進んだ。黒鉄の面の下で、鼻が何かを拾う。


 ――木くずと、油と、かすかに、洗っていない子供の匂い。


 箱に手をかけたとき、通信環が震えた。


『……主。奥の区画、扉が九つあります。全て、外側から鍵がかかっています。番号が書いてあります』


「番号」


 男は一言だけ言い、それ以上は言わなかった。


「先に行く」


『はい。お気をつけて』


 奥の区画へ向けて、床を流れる。影が、影のように動く。


 ──そのとき。


「──ネズミか」


 声は、頭上から降ってきた。


「主! 番人ですッ!」


 警告と同時に跳んでいたのは反射だった。直後に、ヴィンセントが立っていた場所の石床が、白く弾けた。熱が頬を舐める。


 火だ。


「速い」


 桁の上に人影があった。全身を黒い法衣で包み、手の甲から前腕にかけて刺青が走っている。

 わざわざ声をあげたということは、己の技に絶対の自信があるのだろう。


 詠唱が、なかった。

 無詠唱のスキル持ちなのかも知れない。


「…………」


 ――いや違う。


 ヴィンセントは、その事実を一瞬で処理した。詠唱なし。僅かに動かした指の動きだけで術式を起動している。入れ墨に魔術回路が刻まれているということだ、発動時間は。


「二秒か」


 黒法衣が、首を傾けた。


「何を言っている?」


「お前が術式を起動してから、火が出るまで、二秒だ」


 また光が走った。今度は左から。横に転がりながら、ヴィンセントはワイヤーを天井の桁へ打ち込んだ。巻き上げと同時に、火球が床を抉る。


『……速い。今の術者、通常の五倍以上の速度です』


「分かってる」


『正面では無理です』


「分かってる」


『逃げてください』


「分かってる、分かってるから、少し静かにしてくれ」


 切り札を切るべきか?

 いや、この先何が待ち受けているかがまだわからない。

 切り札は切れない。


 桁の上を走った。黒法衣が追ってくる。術式の光が連続して瞬く。ヴィンセントは桁から桁へ、予測不能な経路で跳び続けた。直線に動くな。直線は死ぬ。それだけは、二十年前に叩き込まれた。


 問題は、このまま動き続けても埒が明かないことだ。奥の区画には近づけない。子供たちは、あの扉の向こうにいる。


「クロエ」


『はい』


「こいつは入れ墨に術式を刻んでいる。この術式タイプ、光源を失うとどうなる?」


 一拍の間があった。


『……刺青型術式回路は、光を触媒にします。暗闇では出力が三割以下に落ちます』


「即時発動も?」


『理論上は。ただ』


「ただ?」


『あなたも見えなくなります』


「それでいい。倉の魔力灯、全部落とせるか」


『結界の内部からは手が出せません。ただ、外側の給電回線なら触れます。……三秒ください』


「頼む」


 男は桁の上で、動きを止めた。黒法衣が術式を構える。光が瞬こうとした、その瞬間。


 倉の中が、真っ暗になった。


 音もなく、全部の灯りが落ちた。


「──なに、を」


 詠唱者が、初めて声を揺らした。


 ヴィンセントはすでに動いていた。暗闇など、関係ない。地図は頭の中にある。床から桁まで七メートル。桁から奥壁まで十二メートル。黒法衣の位置は、さっきの声で分かる。


 ワイヤーが、闇の中を走った。


 一条。二条。三条。


「──っ!」


 光が散った。術式が途中で乱れて霧消するときの、あの光だ。詠唱者の両腕を、ワイヤーが捕えていた。手首を縫い留め、肘を桁に打ちつけ、指先が術式回路に触れる前に、全部、止める。


「ワイヤーは一・五秒で動く」


 闇の中で、男の声だけが落ちた。


「お前の火より、速い」


 倉が、しんと静まった。


 しばらくして、通信環が震えた。


『……奥区画の結界、外側から緩めました。扉の解錠機構にアクセスできます。……気を失っているだけなので、五分で目が覚めます。急いでください』


「了解」


『どういたしまして』


 § § §


 扉が九つ、並んでいた。

 全部に、白いペンキで番号が書いてある。雑な字で。


 男はその前に立ち、一秒だけ止まった。


「クロエ」


『はい』


「開けるぞ」


『……はい』


 最初の扉が、きい、と鳴って開いた。

 暗がりの中で、小さな息が聞こえた。息を殺している。怖がっている。


「──来たぞ。怖くない。連れて帰る」


 声は、できる限り低く抑えた。あの喉で。子供たちの名前を、ひとりずつ読み上げる、その同じ喉で。


 管制卓では、クロエが目を閉じていた。

 水晶球の中、九つの扉が順番に開いていくのを、少女は見ていた。見ていた。逸らさなかった。逸らさないと、決めていた。


『……確認します。第一扉、三名。第二扉、二名。第三扉、四名──』


 扉は、次々に開いた。そのたび、小さな息と、小さな足音が増えていく。


「第七扉」


 男の手が、そこで止まった。


 ――音が、しない。

 息を殺しているのとは、違う。息そのものが、ない。


『……主』


「分かってる」


 扉を開けた。

 中は暗く、誰も動かなかった。


 ――何人だ。


 数えるのに、時間がかかった。数えたくなかった、というほうが近い。


「……クロエ」


『……はい』


「三だ」


 通信の向こうで、短い沈黙が落ちた。それから、消え入りそうな声が答えた。


『……第八扉、第九扉、確認します』


 残り二つの扉には、それぞれ子供が息をひそめていた。生きていた。


 子供たちの足音が、石床に散らばっていく。ヴィンセントは最後の扉を閉めながら、胸の底で数を数えた。


 来るときは十六だった。帰るときの足音は、それより少ない。第七扉のぶんだけ、足音にならなかった者たちがいる。


 ――番号は、もう要らない。

 俺が、名前を拾う。生きている名も、そうでない名も。


 扉の並びの奥に、粗末な事務室があった。錠を切り、金庫を開ける。台帳が、三冊。搬入の記録と、売り先と――そして、仕入れ元。


「クロエ。土産だ。読むのは、帰ってからにする」


『はい。……次の、名前ですね』


「ん。……三人ぶん、生きていない名だ。台帳にはない」


 沈黙が、また落ちた。


『……本人に聞けないぶんは、記録を洗います。届け出、身元、家族。どこかに必ず、名を呼ぶ誰かがいます』


「頼んだ」


「ん。――帰投する。第四経路」


『確認しました。……生きている子たちを、全員連れて帰ってください』


「ん」


「……第七扉の子たちは」


「俺が運ぶ」


『……はい』


「お体にご無理は」


「聞こえん」


「聞こえておいでのくせに」


 霧の夜に、小さな足音がいくつも続いた。

 その後ろを、音を立てない男が、音を立てない三つを抱いて歩いた。


 今夜のゴルモアは、昨夜より少しだけ軽くなった。

 そして、少しだけ重くなった。

 どちらも、本当のことだった。


 管制卓の少女は、水晶球の中を流れる黒い影と、その後に続くちいさな影たちを、目を逸らさずに数えた。


 十六。生きて、歩いて。

 三。名前を、まだ持たない。


 その三人ぶんの名前を、明日、また掘り起こさなければならない。本人には、もう聞けないから。

 それが、今夜の、いちばん重い仕事だった。

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