押しかけ初日
――半年前の話を、しよう。
私がまだ、何も知らなかったころの話だ。
「初めまして、ご主人様。本日よりアシュレイ家の筆頭執事を拝命いたしました、クロエ・アルジェントと申します」
大理石のエントランスホールに、声が響いた。
お仕着せは特注の燕尾服。髪は一糸乱れず、手袋は純白、お辞儀の角度は十五度。姿勢、呼吸、声の張り。どれをとっても、祖父に叩き込まれたとおりの、完璧な仕上がりだったと自負している。
祖父は、言っていた。
――アシュレイのご当主は、儂が生涯でただ一人、心から仕えたいと思った御方だ。御子息であらせられる現当主は、若い頃は随分と落胆させられたものだが、今は違う。
――使えるに値するお方だ。
あの厳格な祖父が、だ。裏社会の交渉術から対魔導戦闘まで、あらゆる技を修めた伝説の執事が、死の床でさえ「良い主だった」と笑った、その人。
いったいどれほどの傑物なのか。私は胸を高鳴らせて、階段の上を見上げ――
「……ふわぁあ。なんだい、騒々しい。まだ昼じゃないか」
――高鳴った胸が、音を立てて凍った。
階段の上に現れたのは、寝間着姿の、大きな中年男だった。上背はあるのに、背を重たげに丸めて、一段ごとに古い階段を軋ませて降りてくる。伸びた無精髭。
ぼさぼさの、こめかみに白の混じった髪。はだけた胸元からは酒瓶の首が覗き、歩くたび、ツンと酒精と、その奥にかすかな煙草の匂いが漂ってくる。
「ん? 誰だい、君は。迷子なら警察を――」
「現在時刻は午後一時です」
声が、自分でも驚くほど平坦になった。
「昼じゃないか、ではありません。とっくに昼です。そして私は迷子ではなく、先代執事セバスチャン・アルジェントの孫にして後任、クロエ・アルジェントです」
「げっ」
げっ、と言った。この男、いま、げっと言った。
「爺さん、孫は呼ぶなとあれほど……あー、悪いね、お嬢ちゃん。お引き取り願えるかな。うちに執事はもういらないんだ」
「祖父との契約書がございます。アルジェント家は代々――」
「ほら、これ、馬車代。釣りはいいから」
「多すぎます。馬車で大陸を三周できます」
「じゃあ三周してきな。景色がいいぞ、西回りは」
「……ご主人様」
「なんだい」
「私はいま、生まれて初めて、人を張り倒したいという衝動と戦っております」
「執事がそれ言う!?」
――これが、私と主の出会いである。
祖父。天国の祖父。あなたが生涯を捧げた主とは、本当に、このお方で間違いないのですか。棺の中から一度だけ出てきて、ご説明いただきたい。
その日から、私の「更生計画」が始まった。
朝は日の出とともに起こす。
「ご主人様、朝です」
「ここに朝は来ない。当家は永世中立の夜だ」
「国際法にそのような夜はありません。起きてください」
起きない。
酒瓶は見つけ次第没収する。
「ご主人様。書棚の辞書が、中身だけ酒瓶でした」
「ほう。学のある酒だな」
「没収します」
「待て、それは知識だ。飲む知識だ」
どこからか無限に湧く。
執務室の書類は整理して差し上げる。三日で元の混沌に還る。会社の重役会議に送り出す。居眠りして帰ってくる。
「ご主人様。本日の重役会議、また閣下がお眠りになったと伺いましたが」
「いやあ、あの会議室の椅子、出来がよくてなあ」
「椅子のせいにしないでください」
「じゃあ議題のせいだな。数字ばっかりで」
「あなたの会社の決算です!!」
「だから寝たんだ。悪い数字なら起きてた」
「良い決算なら寝ていいという理屈がどこにあるのですか!」
「安心して寝られる会社って、いい会社だと思わないか」
「思いますが!! 総帥が言ってはいけません!!」
張り合いが、ないわけではなかった。
この人は怒らないのだ。私がどれだけ辛辣な小言をぶつけても、屋敷を「大魔法で改装いたします」と脅しても、へらへらと受け流すだけで、一度も声を荒らげない。追い出そうとするくせに、夕食の席は毎晩、当然のように二人ぶん用意させる。矛盾した人だった。
――そして、妙なことが、いくつかあった。
どれだけ酒瓶が転がっていても、この人が酔い潰れている姿を、朝以外に見たことがない。
どれだけだらけていても、掌と指には、剣士のような固い胝がある。
そして週に幾晩か、屋敷のどこを探しても、主の姿が消える夜がある。
朝になると、何食わぬ顔でソファに転がっている。ときどき、消毒液の匂いをさせて。
「……昨夜は、どちらに」
「ん? 飲み歩き」
「どちらの店で」
「覚えてないなあ。二日酔いで」
「お戻りは何時ごろでしたか」
「さあなあ。時計も二日酔いで」
「時計は飲みません」
「うちのは飲むんだ。ほら、辞書も飲むし」
「あれはあなたが辞書に酒を隠して――話を逸らさないでください」
嘘だ、と直感が言った。
執事の直感ではない。アルジェントの直感だ。祖父に叩き込まれた観察眼が、こんなにも間近で、毎日、警鐘を鳴らし続けている。




