椅子に座る夜
この人は、何かを隠している。
祖父が生涯を捧げた「何か」が、この屋敷のどこかにある。
その夜、私は祖父の懐中時計を落とした。
磨こうとして、手が滑ったのだ。銀の蓋が石床を打ち、からん、と場違いに高い音を立てて――蓋の裏張りが、外れた。
「あ……」
慌てて拾い上げて、指が止まった。
裏張りの奥に、彫り込みがあった。小さな小さな、魔法陣。祖父の筆致だ。間違えようもない。この精緻な術式構文を、私は五つのときから毎日見て育った。
――鍵、だ。
これは、何かの錠に応える、鍵の術式だ。
気づけば私は、夜の屋敷を歩いていた。時計をかざしながら、一階、二階、書庫、厨房。反応はない。地下のワインセラー。棚の間を抜け、最奥の壁の前に立ったとき――時計が、掌の中で熱を持った。
石壁が、音もなく割れて、開いた。
階段が、下へ続いていた。
どれくらい降りたのか、覚えていない。最後の扉を押し開けた先の光景を、私は生涯忘れないと思う。
壁一面の水晶球。魔導回線の束。武具架に整然と並ぶ、漆黒のコートと魔導ワイヤー。作戦図。ゴルモアの全域図に打たれた、無数の赤い鋲。
そして部屋の中央に、管制卓がひとつ。
椅子が、二脚。
一脚には、うっすらと埃が積もっていた。もう一脚は――埃を、誰かが毎日払っている。座る者のないまま、毎日、丁寧に。
「…………っ」
卓上に、写真立てが伏せてあった。
起こした。
三人、写っていた。若き日の祖父。黒いコートを着た、今より若い主。そしてもう一人――人懐こく笑う、赤銅色の髪の青年。
父だった。
八年前に「事故で」死んだ、私の父。レナード・アルジェントだった。
写真の裏に、祖父の字があった。
『ヴィンセント坊ちゃま、レン、儂。ゴルモアの夜間清掃業、開業記念日』
――足元から、いろんなものが崩れて、組み変わっていく音がした。
夜ごと消える主。消毒液の匂い。剣胝のある掌。近ごろ巷を騒がせる、悪党だけを狩る「天の火――ブリムストーン」の噂。祖父が生涯を捧げた主。事故死した父。事故。事故と、聞かされていた。
卓の抽斗に、古い任務記録があった。
読んだ。読んでしまった。
八年前。都市上層部の汚職を追っていた「清掃業」は、罠に嵌められた。囮にされた現場で、父は主を庇い――「狂犬」と呼ばれる傭兵の刃に、斃れた。
記録の最後の頁に、主の字で、一行だけあった。
『レンの娘に、この稼業を継がせてはならない。あれはレンが命で守った未来だ』
――どれだけ、そこに立ち尽くしていただろう。
「……ここの鍵は、爺さんの時計だけのはずなんだがなあ」
振り向くと、階段の下に、主が立っていた。
寝間着姿で、頭を掻いて、心底困った顔をして。
「参ったな。……見たか」
「…………見ました」
「そうか」
「全部、見ました」
「……全部か」
「全部です」
主は、怒らなかった。ため息をひとつ吐いて、写真立てを、そっと元どおりに伏せた。
「忘れろ、とは言わん。だが、ここには二度と――」
「お断りします」
「……即答か」
「即答です」
「交渉の余地は」
「ありません」
「馬車代なら大陸五周ぶん出すが」
「地図ごとお返しします」
自分の声が、震えているのが分かった。震えているのに、一歩も引く気がないことも、分かっていた。
「あなたは八年間、たったひとりで、父と祖父の戦いを続けてこられた。手柄も名誉もぜんぶ泥に捨てて、無能と笑われながら。……私はこの半年、そんなことも知らずに、あなたを、がっかりな主だと」
目の奥が、熱かった。泣くな。アルジェントの者が、勤務中に泣くな。
「クロエ。お前を巻き込むわけには」
「巻き込まれに、参りました」
私は、埃の積もっていない方の椅子――八年間、主が毎日払い続けた、祖父の椅子を引いた。
座った。
回線に、指を置いた。祖父に叩き込まれた起動式が、指先から流れて、水晶球がいっせいに灯る。ゴルモアの夜景が、管制卓いっぱいに広がった。
「……おま、それ、爺さんの術式――」
「アルジェント家の家伝です。オペレートも、解析も、五つのときから仕込まれております。祖父は私に、あらゆる技を遺しました。――今なら、その理由が分かります」
「……ここは、遊び場じゃないぞ」
「存じております」
「人が、死ぬ場所だ。うちの、いちばん大事な奴も、ここで死んだ」
「存じております。――その方の、娘ですので」
主は、黙った。長いこと、黙っていた。
振り向いて、私は主を見上げた。
がっかりな主。穀潰しの三代目。世界でいちばん強くて、愚かで――父が命で守り、祖父が生涯を捧げた、私の主。
「本日より、そちらの業務も私が引き継ぎます。よろしいですね、ご主人様」
主は長いこと黙って、天井を仰いで、それから観念したように息を吐き――
いや、違う。
笑ったのだ。あの人はあのとき、泣きそうな顔で、笑ったのだ。
「……ああ、くそ。爺さんの目だ、それ」
「祖父の孫ですので」
「レンの意地っ張りも入ってる」
「父の娘ですので」
「……夜は、冷えるぞ。ここは」
「膝掛けを、二枚持ってまいります。――二脚ぶん、ですので」
――これが、半年前。
私の「がっかり」が、生涯の忠誠に裏返った夜の、一部始終である。




