泥水が似合いだと
クロエは、この時間が好きだった。
誰にも見せない本当の姿を、隣で見ていられる。世界中が「無能」と嗤う人の、本当の値打ちを知っている。それは執事にだけ許された、ささやかな特権だ。――同時に、この時間がいちばん、苦しい。値打ちを知る者が、自分ひとりきりだということが。
整備の済んだ糸巻きが、ひとつ、またひとつと武具架へ戻っていく。
行き先は、夕刻のうちに決まっていた。名無しの紙会社が借りた、南の倉。卓に置いた十六の名前を、この人はあれきり一度も口にしない。口にせぬまま、もう胸の底に刻み終えていることを、クロエは知っている。
その横顔を見ながら、クロエは思う。この人はまた、ひとりで覚えるのだ。ひとりで読み上げ、ひとりで背負って、そして朝になれば、涎を垂らした穀潰しに戻る。
――言うなら、今だ。
「ご主人様」
「ん」
「本日、議長のお言葉を賜って、確信いたしました」
「なにをだ」
「あなたの実力を正しく示せば、この街でだって、正当な評価は得られます。ブリムストーンの正体があなただと知れば、誰もあなたを無能などと――」
「クロエ」
遮る声は、静かだった。
「その先は、言いっこなしだ」
「……なぜですか」
声が震えた。分かっている、とクロエは思う。この問答は、もう何十回目かだ。それでも性懲りもなく、問うてしまう。
「なぜ、笑われる側に立ち続けるのですか。なぜ手柄を捨て、名を捨て、泥を被ってまで――」
「そりゃ、お前」
主は糸巻きを架に戻し、こちらを振り向いた。眠たげな目が、笑っている。
「俺には、この泥水が似合いなのさ」
――似合いなんかじゃねえ、とは言わない。
ヴィンセントは思う。似合いだと言っておくのが、いちばん角が立たない。本当のところは、少しばかり違う。名乗った途端、ブリムストーンは「英雄」になる。英雄には、敵が後ろから来る。
後ろから来る敵は、必ず、まず弱いところを狙う。……たとえば、目の前の、この小さな執事を。レンの忘れ形見を、また同じ目に遭わせるくらいなら、俺は一生、穀潰しでいい。泥水は、慣れてる。
もう二十年も、飲んでる。――だが、それを言葉にしてやることだけは、してやれない。言えば、この娘は、もっと深く踏み込んでくる。踏み込ませるわけには、いかねえんだ。
「――似合って、いません」
気づけば、少女の口をついて出ていた。
「ぜんぜん、似合っていません。あなたは、もっと――」
「もっと?」
「もっと……もっと、です!」
「語彙どうした、筆頭執事」
「うるさいです!」
主は目を丸くして、それから、ひどく困ったように頭を掻いた。大きな手が伸びてきて、少女の頭に、ぽん、と乗る。
「――ベーコンの礼だ」
「……夕食に、出していませんが」
「明日の分の前払い」
「明日の分は、まだ交渉中です」
「前払いってのはな、交渉を有利にする賄賂のことだ」
「執事は買収されません」
「知ってる。だから頭に乗せるだけにしてる」
ずるい人だ、とクロエは思う。肝心なことは何も答えず、こういうときだけ、手つきが優しい。頭に乗った掌の大きさと重みだけが、言葉にしてくれない答えの、かわりのように熱い。
主は漆黒のコートを羽織り、黒鉄の面を着けた。
だらしない中年の輪郭が消え、夜の輪郭が立ち上がる。武具架の前に立つその背中は、あの午餐会の広間にいた誰よりも、まっすぐだった。
「管制、頼む」
「――はい。良い狩りを、ご主人様。……それと、お体に、ご無理は」
「聞こえん」
「聞こえておいでのくせに」
「歳でな。都合の悪い音から順に、聞こえなくなる」
「では大きな声で申し上げます。ご・む・り・は――」
「行ってくる」
天窓が開き、ワイヤーが霧の夜へ伸びる。
黒い影が、音もなく攫われていった。ゴルモアの毒々しい光の海の上を、天の火がひとすじ、流れ星をさかしまに、昇っていく。
クロエは管制卓に着き、ヘッドセットの通信環に指を添えた。水晶球に、霧の街が映る。
この街は、腐っている。法は死に、正義は値札つきで売られ、七つの子供が番号で呼ばれる。そしてこの街でただひとり、それを許さない人は、名乗ることさえ許されずに夜を駆ける。
いつか、と少女は思う。いつか必ず、あなたが胸を張って昼を歩ける日を、私が連れてくる。あなたが自分に下しているその判決を、覆すのは私だ。
――その誓いが、どれほど遠く、どれほど高くつくことになるのか。管制卓の少女は、まだ知らない。知らぬまま、彼女の指は、迷いなく回線を撫でるのである。
私、クロエ・アルジェント、十三歳。職業、筆頭執事。
本日の残業内容――天の火の管制、および、いつか来るその日の、下ごしらえ。




