南倉の名簿
細い指が、地図の上を滑る。印が、いくつか光った。
「いずれも、港方向への荷馬車の通り道に重なっています。目撃証言と照合しました。夜明け前に南倉へ向かう荷馬車、目撃七件。積荷の箱の大きさは、全件で証言が一致しています」
「簞笥ほど」
「ひとり、ちょうど入る大きさです」
声に感情はなかった。感情を乗せないと、最初から決めていた。乗せたら、指が止まる。指が止まれば、この人の帰り道に石ころが残る。だから、声は平坦に保つ。それが、今の自分にできる最善だ。
「南倉の賃借契約者を、商工記録と照合しました。名義は貿易商の紙会社――実体がありません。名義の洗浄は三重。誰かが、素性を隠すことに金を惜しんでいません」
一枚の紙が、卓上に置かれた。
「分かっているのは、倉が生きていることだけです。搬入の記録が、判明分で七件。バルトロメイ子爵の取引日と、三件一致しています」
男は、その紙を静かに見た。
「……名無しの倉、か」
「はい」
「……買い手を狩っても、売り手がいる限り、檻は空かない」
「はい」
「なら次は、倉だ。……子供らを出して、帳簿を頂く。売り手の名前は、倉がいちばんよく知ってる」
ヴィンセントは立ち上がり、窓の外へ目を向けた。ガス灯の光が霧の中で滲んでいる。
「『上』の話は」
「商工卿の証言と、港に浮いた荷役の親方の件。どちらも、この倉の元締めの、さらに上に指図する者がいることを示唆しています」
「名前は」
「出ません。誰も口にしない。口にした者は、浮きます」
短い沈黙が落ちた。
――その上が誰かは、もう見当がついている。ついているが、声に出さない。証がなければ、刃にならない。そして、その名だけは、どうしても間違えるわけにいかない。間違えた日に焼くのは、罪じゃなく、この街そのものを焼くことになりかねない。
「攫われた子の数は」
「界隈の届けと搬入記録の照合で、判明分は十六名です。倉の中に何人残っているかは──」
「名前は」
少女は、もう一枚の紙を置いた。十六の名前が、一行ずつ並んでいる。
さらわれた子どもたちは名前を奪われ番号で呼ばれることになる。商品として。
「揃えてあります。十六名ぶん、全員」
「ん」
男は紙を手に取らなかった。ただ、じっと、一行一行を目で辿った。唇は動かない。声には出さない。それでも、その目が、一つずつ名前を拾っていくことは、隣に立つ少女だけが知っていた。
必ず取り戻す、俺が。
それが、この男の決まりだ。名前は覚える。迎えに行くための名になるか、地獄で読み上げてやるための名になるか――どちらになるかは、倉の扉を開けるまで分からない。どちらでも、覚える。それだけは、誰にも譲らない。
「夜に出る」
「はい。装備の確認をします」
「倉の間取りは」
「もう引いてあります」
「……さすがだな」
「当然のことをしたまでです」
男は少し笑って、作戦室の灯りの下へと歩いていった。ワイヤーの糸巻きを手に取り、作業台へと向かう。
クロエは卓上の紙を、静かに揃え直した。
十六という数を、この人はもう胸の底に刻んだ。刻んで、覚えて、そして夜が来たら、迎えに行く。ひとりで。何も言わずに。
「次」は、もう決まった。
長い夜が始まる。
アシュレイ邸の地下三階。ワインセラーの奥、銀の懐中時計をかざした者にだけ開く隔壁の先に、その部屋はある。
作戦室。祖父セバスチャンが設計し、父レナードが使い、いまクロエ・アルジェントが引き継いだ場所だ。壁一面の水晶球群。魔導回線の束。武具架には漆黒のコートと、糸巻きに収まった魔導ワイヤーが七対。
そして作業台の前には、昼間とは別人の男がいた。
「……三番のワイヤー、巻き上げ機構の応答が二遅い。張り替える」
「先週替えたばかりですが」
「二は、死ぬ数字だ」
「僅か二秒で、ですか」
「二秒あれば、杖持ちは短縮詠唱を三音まで唱える。三音ありゃ火が出る。火が出りゃ、俺は焼き豚だ」
「……昼にあれだけ豚の話をなさったのは、ご自分の未来のことでしたか」
「うまいこと言うな。増やすぞ、ベーコン」
「張り替え、お手伝いします」
少女は白手袋の指先で、小さな音叉型の触媒を取り出した。ワイヤーの張力を測るための道具だ。
チーン、と澄んだ音が作戦室に響き、微小な魔力の波が鋼糸の歪みを炙り出す。
「……そういえばご主人様。祖父の帳面の隅に『音は、返す刃にもなる』という記述があるのですが、これはどういう意味でしょうか」
「さあな。爺さんのポエムだろ。あるいは、夫婦喧嘩の心得か」
「祖父は生涯愛妻家だったそうですが」
袖をまくった太い腕が、糸巻きを外し、分解し、油を差し、組み直していく。一切の無駄がない。
酔漢の千鳥足はどこにもなく、指先だけで生きてきた男の、静かで精密な手つきだけがあった。節くれだった大きな手が、髪ほどの太さの機構を、狂いなく組み上げていく。
――二秒。
ヴィンセントは油の匂いの中で、その数字を胸の内で転がす。八年前、その二秒が埋められなかった。埋められていれば、あの雨の夜、赤銅色の髪の男は死なずに済んだ。
以来この男は、道具の遅れを、一秒たりとも許さない。許せば、また誰かが死ぬ。──もう、あの手触りは、たくさんだ。掌が、覚えている。冷たくなっていく、相棒の背中の重さを。




