綺麗すぎる声
大魔導士アルトリウス。ゴルモア議会の頂点に立つ、この街でもっとも敬われる人物である。
「これは議長。ご無沙汰しております」
ヴィンセントが、杯を置いて一礼した。姿勢は崩れたままだが、声の温度が半度だけ上がる。
「先だっては当社の減税嘆願に、お口添えをいただいたとか」
「なに、当然のことをしたまでだよ。それより、顔色が良いな。良い酒を飲んでいると見える」
「恐縮です。良い酒と、悪い酒を、半々ほど」
「はは。正直なことだ」
老魔導士は目を細め、それから、周囲の紳士たちへゆっくりと視線を巡らせた。
「諸君。この若者を『無能』と笑う声を、近ごろよく耳にする」
広間が、静まる。
「恥を知りなさい。魔法とは、才の別名ではない。ましてや人の値打ちの物差しでもない。彼は魔法を使えずとも、三万の従業員に禄を払い、この街の灯りを絶やさずにいる。――諸君のうち何人に、同じことができるかね」
誰も、答えない。
アルトリウスはヴィンセントの肩に手を置き、孫を見るような目で笑った。
「君のお父上には世話になった。困ったことがあれば、いつでも私を訪ねなさい」
「……痛み入ります、議長」
「なんの。年寄りの数少ない楽しみだよ、君と話すのは」
立ち去る白銀の背に、広間中が頭を下げる。
この腐りきった街で、主を正面から庇ってくれる大人は、あの方だけ――と、クロエは白手袋の内側で、そっと拳を握った。社交界という蛇の巣で、あの言葉がどれほど主の盾になってきたか、帳簿の外の貸し借りを預かる執事として、彼女は知っている。
……そのはずなのに。
なぜだろう、と少女は思う。議長の手が主の肩に置かれた一瞬、背筋を、冬の水のようなものが伝った。理由は、ない。強いて言うなら――あまりにも、綺麗すぎるのだ。この腐った街で、あの人だけが。
そして少女は気づいていない。同じ一瞬、隣に立つ主の、へらへらと下げた眉の下で、まったく同じ冬の水が、背骨を這っていたことに。二人は、同じ寒さを、別々に、黙って飲み下したのである。
「クロエ。帰るぞ」
「え……はい。お車を回します」
馬車の中で、ヴィンセントは窓の外を眺めていた。魔力灯の毒々しい光が、流れては消える。
「いいひとだろ、議長は」
「……はい。得がたい御方かと」
「ん」
「……ご主人様は、議長のことを」
「いいひとだと思ってるよ」
「そう、ですか」
「ああ。……ずっと、そう思っていたいもんだな」
「? それは、どういう」
「ん。いや」
それきり、主は何も言わなかった。
ただ、窓に映るその目が、午餐会のあいだ一度も見せなかった色をしていることに、クロエは気づいていた。深い、深い、井戸の底のような目。何かを数えている目だ、と少女は思う。あの夜、水晶球の向こうで子供たちの名を読み上げていた声と、同じ場所から来る、何かを。
――綺麗すぎるもんには、裏がある。
男は窓の外へ、胸の内だけで呟いた。この街で二十年、そうやって生き延びてきた。だが、その勘が、今度ばかりは外れていてくれと願う自分もいる。
あの白い髯の下にもし本当に牙があるのなら、それを暴いた日、この街は盾を一枚、永遠に失うことになるのだから。――よしてくれ。俺は、そんなものまで数えたかねえよ。
けれどクロエが「どうかなさいましたか」と口を開くより早く、
「――夕メシ、ベーコンな」
「豚の話しかできない口なら、縫い合わせて差し上げましょうか」
「縫うな縫うな。飯が食えなくなるだろ」
「点滴という手段がございます」
「執事の発想か、それが」
主は、いつもの、だらしのない笑顔に戻っていた。
アシュレイ邸へ戻ったのは、夜の七つを回ったころだった。
ガス灯のくすんだ光が通りを流れ、馬車の車輪が石畳を鳴らす。腐敗と商売と、その両方を兼ねる者たちが霧の中を行き交う時刻だ。
玄関の扉が閉まった瞬間、ヴィンセントは社交界の仮面を脱いだ。正確には脱いだというより、自然に剥がれた、と言うべきか。この屋敷の中では、道化師でいる理由がない。
「お茶を」
「もう入れてあります。作戦室にどうぞ」
クロエはすでに、地下への階段を先に降りていた。
§ § §
卓の上に、三枚の地図が広げてある。ゴルモア市街。港湾区画。そして南倉地帯の詳細図。それぞれに、赤いピンが打たれていた。
「整理が終わりました」
「ん」
「座ってください」
「そこまで言うか」
「はい。聞きながら立っておいでのくせに、肝心な箇所で壁にもたれる癖がおありです。座っていただいた方が、記憶に残ります」
反論する気力もなく、男は椅子を引いた。
「子供が消えた場所は、全部、市の帰り道です」




