午餐会の蛇
――そのどれを見ても胸がざわつく自分の名前を、少女はまだ、知らないふりをしていた。
クロエは三歩後ろで、まだ固く組んだままだった指を、そっとほどいた。
中央議会の大広間は、ゴルモアの縮図だ。
天井には値の張る魔力灯の群晶。テーブルには一皿で庶民の月収が消える料理。そして着飾った紳士淑女の九割が、笑顔の下に刃物を隠していた。灰路地の腹の底からの笑いを聞いてきたばかりの目には、この広間の笑顔は、どれも上等な仮面にしか見えない。
クロエは給仕の位置に控え、白手袋の指を組んで、主の「仕事」を見守っていた。
「これはこれはアシュレイ卿。本日は、まだ酒瓶をお持ちでない」
「やあ、議員どの。安心してくれ、いま取りに行くところだ」
「はっはっは。感心しませんな、昼から」
「昼から飲まない酒飲みなんて、信用ならんだろう」
「では夜は?」
「無論、飲む」
「朝は?」
「迎え酒という文化がある」
どっと、下卑た笑いが起きる。
ヴィンセントは葡萄酒の杯を掲げ、へらりと笑ってみせた。ボタンをひとつ余分に外したシャツ。計算された無精髭。だらしなく、しかし決して不快になりすぎない、絶妙な「穀潰し」の調合だった。この配合を、この男は二十年かけて煮詰めてきた。
――道化ってのは、と本人は思っている。案外、繊細な芸なんだぜ。濃すぎりゃ警戒される。薄すぎりゃ舐められる。ちょうど「見くびって油断する」濃度に、毎度、合わせにいく。
「時にアシュレイ卿、御社の魔石鉱区の件ですがな。管理をわがドレイク商会に委ねる気はありませんかな? ほれ、あなたは数字がお得意でない」
「んー、数字なあ。二日酔いの日は、二重に見えて困る」
「はっはっは! では契約書も二枚に見えますかな!」
「二枚あったら、そりゃ偽造だろう」
笑いの中に、一瞬だけ、氷が落ちた。
ドレイク議員の頬が引き攣る。先月この男が鉱区の帳簿を「二枚」作っていたことを、クロエは知っている。もちろん、主も。
「……ご、ご冗談が、お上手だ」
「冗談は俺の本業でね。会社のほうが副業だ」
「は、はは……。しかし卿、鉱区の管理は真面目な話ですぞ。餅は餅屋と申しますでな」
「そうだなあ。じゃあ帳簿は帳簿屋に頼むか」
「……と、申されますと」
「いや、なに。うちの経理が言うんだ。よその帳簿ってのは、二冊読み比べると面白いんだと」
ドレイク議員の額に、うっすらと汗が浮いた。
「……本日は、良い午餐ですな」
「ああ。良い午餐だ」
議員は笑いに紛れて、そそくさと離れていった。酔漢の軽口の皮を被せて、牽制と恫喝を同時に置いていく。誰も気づかない。気づいているのは、この広間でただ一人だった。
主は空の杯をひらひら振り、給仕を探すふりをしながら、隣の商工卿へすっと身を寄せた。
「時に卿。近ごろ港の景気はどうだい」
「おや、アシュレイ卿が景気の話とは。明日は雪ですかな」
「うちの下働きの小僧が、夜中に妙な荷馬車をよく見るってんでね。箱をしこたま積んで、倉のほうへ」
「……はて。荷なら、いくらでも動きましょう」
「そりゃそうだ。ただ、その箱がねえ――たまに、泣くらしい」
商工卿の杯が、止まった。
葡萄酒の水面が、細かく揺れている。
「……アシュレイ卿。その手の話は、口になさらぬが賢明ですぞ」
「ほう。なぜだい」
「なぜ、とは」
「箱が泣くだけだろう。猫でも入ってるんじゃないのか」
「猫なら、よろしいのですがな」
「猫じゃないのか」
「……あれには、『上』がついておる」
「上? 倉の二階か」
「戯けたふりはおやめなさい」
商工卿の声が、初めて低くなった。
「深追いした荷役の親方が、先月ひとり、港に浮きましてな。猫の詮索をした廉で、人が浮くのですぞ。――さ、良い葡萄酒だ。飲みましょうや」
商工卿は逃げるように杯を干し、人垣へ紛れた。
――『上』、ね。
ヴィンセントは、へらへらとした表情の裏で、静かに一枚、駒を進める。誰も名を口にせず、口にした者は港に浮く。番号で呼ばれる子供の商いには、この着飾った蛇の巣の、さらに奥に、頭がいる。
今宵ここへ来た理由は、酒でも減税でもない。この一言を、蛇の口から引き出すためだ。――頭の見当は、ついている。ついてはいるが、口には出さねえ。まだ、証がねえ。
それに、こいつだけは……こいつの正体だけは、間違えるわけにいかねえんだ。間違えたときに焼くのは、罪じゃなく、この街の希望そのものになる。
その、主の思惟を断ち切るように――
「――相変わらずですな、ヴィンセント君は」
穏やかな声が、広間の空気を変えた。
人垣が、自然に割れる。白銀の長衣。聖者めいた白髯。杖の頭には、この都市の紋章たる七芒の魔石。




