下町の英雄
業務内容は、と少女は胸の内で諳んじる。この街でいちばん強くて、いちばん愚かな主に、朝を運ぶこと。そして、いつか必ず、この人に本当の朝を連れてくること。
その日がいつ来るのか、少女はまだ知らない。
この物語の始まりに立つ二人は、いつだって、いちばん大事なことを、まだ知らないでいるものである。
午餐会の前に、この主にはもうひとつ、大事な「務め」があるのだという。
――下町の酒場で、昼から飲むこと。
ゴルモアの下層、通称「灰路地」。魔力灯の届かぬ路地裏に、汗と麦酒と揚げ油の匂いが煮こごっている。上等な燕尾服など、ここでは的にしかならない。クロエは外套の襟を立て、主の三歩後ろを歩いた。
前を行く大男は、低い鴨居に体を屈めてくぐると、酒場の床板を軋ませて、両手を広げてみせる。
「よう、みんな! 三代目のうつけが遊びに来たぞ!」
「うおおおヴィンスの旦那だ!」
「今日はどのツラ下げて来やがった!」
「涎ツラだよ、いつもの!」
「うるせえ、今日は水浴びしてきたから男前だ」
「浴びせられたんだろ! そっちのちっこい執事さんによ!」
「……なんで知ってる」
「顔に書いてらあ!」
どっと、笑いが弾ける。
これから向かう午餐会の、刃物を隠したあの笑いとは、まるで質が違う。腹の底から、歯を見せて笑う声だ。この笑いのために来ているのだと、少女は知っている。
主はカウンターに銀貨を叩きつけた。
「店主、この階のぶん、ぜんぶ俺のツケだ。麦酒でも小便でも好きに頼め」
「小便は自前で頼むぜ旦那!」
「違いない!」
「旦那、ツケって言うがよ、あんた払ったことしかねえじゃねえか」
「うるせえ。夢があるだろ、ツケって響きは」
また、笑い。
――お分かりいただけただろうか。この人は、下町では英雄なのだ。着飾った蛇どもに嗤われる同じ男が、ここでは王のように迎えられる。同じ一日の、同じ顔で。
クロエは壁際に控え、麦酒の泡にまみれた騒ぎを眺めた。この光景を、もう何十回見たか分からない。それでも、慣れない。慣れたくない、と言うべきか。
みなに麦酒を振る舞いながら、主自身の手にあるのは、古い琥珀色の蒸留酒がひとつきり。それを、節くれだった大きな掌で包むように持って、ちびちびと舐めている。
他人には浴びるほど奢っても、己の喉へ流すのは昔から変わらぬ一銘柄だけ。こういうところに、大富豪の三代目の育ちが、隠しきれずに滲むのだった。
――安酒を奢るのは、施しじゃねえ。
ヴィンセントは杯の縁を舐めながら、ぼんやりと思う。ここで飲む一杯は、耳の値段だ。人間、酔えば口が軽くなる。軽くなった口から、こぼれ落ちてくるものがある。
役人が握りつぶした話、表沙汰にできない痛み、腐った奴らの名前。灰路地の困りごとは、そのままこの街の膿の在り処だ。だから俺は、笑われながら、ここで耳を澄ましている。……まあ、酒が旨いってのも、否定はしねえがな。
果物売りの老婆が、皺だらけの手で主の袖を引いた。
「旦那、聞いとくれよ。うちの宿六がまた賭場で溶かしてねえ」
「ん。どこの賭場だ」
「東の『三日月』だよ」
「あー、あそこはイカサマだ」
「やっぱりかい!」
「サイコロに仕込みがある。振り子の親父の、右手のときだけな」
「詳しいねえ、旦那……あんたまさか」
「通っただけだ。三回ほど」
「三回も溶かしたのかい」
「勉強代だ。おかげで仕込みが分かった。……ま、俺が話つけといてやる。宿六は自分でどうにかしろ」
「違いないやね!」
ぽん、と老婆の肩を叩く。あの大きな手が。
困った者の口から、腐った奴らの名前がぽろぽろ落ちてくる。金をばらまく気の良い旦那の顔をして、この人は膿を数えている。分かっている。分かっているのだ、と少女は思う。
――だから、次の一言も、この男は聞き逃さなかった。
「……旦那。あんた顔が広いんだろ。うちのが、うちの子が、帰ってこないんだ」
声の主は、若い女だった。洗い場勤めの手が、赤くひび割れている。にぎやかな酒場の中で、そこだけ、音が消えたように見えた。
「いつからだ」
「先の月。市の帰りに、ふっつり」
「歳は」
「八つ。……八つだよ、旦那。ひとりで遠くへ行ける歳じゃない」
「役人には」
「行ったさ! 何度も! みんな『家出だ』の一点張りでさ……うちだけじゃないんだ。西の長屋のトビも、水売りんとこのミナも」
「――港のほうに、行かなかったか」
主の声が、変わった。
へらへらした酔漢の皮が、半分だけ、剥がれる。眠たげな目の底に、井戸の底のような色がよぎった。
「港……そういや、下の子がね、大きな箱をいっぱい積んだ荷馬車を、倉のほうへ見たって……」




