冷水の朝
翌日、午後一時。
彼女の主であるその男は、応接間のソファで涎を垂らして眠っていた。
世の中の理不尽について、クロエ・アルジェントは時折、真剣に考えることがある。その最たる例が、これだった。
長い脚が肘掛けからはみ出し、広い背中が革張りをぎしりと軋ませている。三つ開いたシャツの胸元はぶ厚く、無精髭は伸び放題。こめかみには、白いものが幾筋か混じっていた。
サイドテーブルには空のウイスキー瓶が二本。床には脱ぎ捨てた靴下が、あろうことか左右べつべつの方角へ飛んでいる。
ゴルモア一の大富豪アシュレイ・カンパニー総帥、三代目当主ヴィンセント・アシュレイの、これが休日の姿だ。
もっとも、この男に休日と平日の区別があるのかどうか、屋敷の誰も知らない。区別が生まれるのは、夜だけだ。
「ご主人様。朝です。正確には、とっくに昼です」
「ん……あと五分……」
「五分前にも同じことを仰いました」
「じゃあ、あと十分……」
「増えました。今、増えましたね」
「利子だ、利子……」
「寝坊に複利をつけないでください。起きてください」
「んん……ベーコン……」
寝言まで豚のことだ。
少女の眉が、こめかみのあたりで、ぴくりと一度だけ跳ねた。この主に仕えて半年、彼女は自らの内に、それまで知らなかったいくつかの感情の存在を発見していた。そのうちのひとつが、今まさに、白手袋の下で拳のかたちを取ろうとしている。
「起きろと言っている」
言うが早いか、少女は無言で銀の水差しを傾けた。
――夢の中で、ヴィンセントは若かった。
まだ胸に鼓動と呼べるだけの熱があったころ。隣で赤銅色の髪の男が笑っていて、その笑い声が、なぜだか雨の音に変わって……冷てえ。冷てえな、この雨は。ずいぶんと、遠慮のない降りようで──
「ぶはっ!?」
現実の水が、容赦なく顔面を打った。
「冷たっ!? おまっ、クロエ、お前なあ! 仮にも主だぞ!?」
「存じております。ですから水で済ませて差し上げているのです。次は氷水です」
「その次は?」
「井戸水を桶で。冬まで取ってあります」
「季節の献立か、俺への拷問は」
「四季折々のおもてなしと呼んでいただきたく」
「執事って、こう、もっと主をいたわる生き物じゃないのか……?」
「いたわっております。誰よりも」
太い腕でぐいと顔を拭い、ヴィンセントは恨めしげに少女を見上げた。
濡れても、大きい。ソファに沈んだ巨躯は、見上げる姿勢でさえ、小柄な執事を見下ろしそうな量感がある。眠たげな目。目尻に刻まれた、深い笑い皺。だらしのない無精髭。どこからどう見ても、噂どおりの「無能な三代目」だった。
――魔力ばかり人並外れて、魔法のひとつも使えない、アシュレイ家の恥。
――親の遺産を酒に変えるだけの、ゴルモア一の穀潰し。
社交界で囁かれるその評判の数々を、この男は、決して否定しない。それどころか自分から進んで、道化を演じてみせる。昨夜、七歳の子供の名前を読み上げた、その同じ喉で。
なぜ、と少女は思う。なぜこの人は、と。半年ぶん問い続けて、まだ答えの出ない問いだった。
「……なんだよ、じっと見て。惚れたか」
「寝言は結構です」
「寝言じゃない。起きてる。誰かさんの水でな」
「では戯言です。本日の予定を申し上げます」
「却下」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「予定って響きがもう嫌だ」
「十四時、中央議会主催の午餐会」
「うわ、出た」
「その前に、下町の酒場を数軒」
「よし、そっちだけ行こう。午餐会は俺の代わりに靴下を出席させろ」
「左右べつべつの方角に脱ぎ捨てられた靴下に、社交は務まりません。両方です」
「……鬼か、お前は」
「執事です。あなたはそこで例のごとく、酒に溺れた無能のふりをなさる。私はその隣で、例のごとく、笑いものにされるあなたを拝見する」
「おう、頼んだ」
「……頼まれたく、ありません」
声が、少しばかり尖った。いけない、と少女は内心で自らを叱る。感情が乗った。執事たる者、感情を面に出してはならぬと、あれほど祖父に。
濡れた前髪の下から、ヴィンセントは面白がるように彼女を見た。
――この娘は、怒ると余計に爺さんに似る。
あの偏屈な先代執事に。似てくれるな、とも、似ていてくれ、とも思う。そのどちらもが、胸の同じ場所を、そっと圧す。口には、無論、出さない。出せば、話がややこしくなる。この歳になると、ややこしいのは、もう御免なのだ。
「クロエ」
「なんでしょう」
「ベーコン、多めな」
「――――却下ですと申し上げました!」
「昨日の夜の話だろ、それは。今日の分の交渉だ」
「日付が変わっても却下は却下です! 継続審議にすらなりません!」
「じゃあ二枚」
「一枚です」
「一枚半」
「ベーコンに半分という概念はありません!」
「あるだろ。半分に切れば」
「…………一枚と、スープの具を増やします。これが最終回答です」
「ちぇ」
この男は、いつもこうだ、と少女は思う。
肝心なことは何ひとつ言わず、肝心でないことばかりを要求する。少女の歯がゆさなど素知らぬ顔で、今日も濡れた頭のまま、大きなあくびをひとつ。首を回すと、ごき、と骨の鳴る音がした。四十二年ぶんの、朝の音だ。
「……ご主人様。今の音、医者に診せましたか」
「音? なんの音だ」
「今の、首の」
「聞こえんなあ。歳のせいか、耳が遠くて」
「都合のいいときだけ老いないでください」
――彼女は、クロエ・アルジェント、十三歳。職業、アシュレイ家筆頭執事。たった一人の使用人。




