天火の狩り
ゴルモアという都市を語るには、まず匂いから始めるのが正しい。
魔導科学と退廃と不正。混乱と悪徳を混ぜて煮詰めるとこの都市国家ゴルモアになる。
豚の脂と、焦げた魔力灯の匂い。富と腐敗を同じ鍋で煮込む街で、夜はいつも、その煮こごりの匂いがした。表通りには黄金の光が溢れ、裏通りには溝の水が流れる。そのどちらもが等しく、この街の匂いである。
都市周縁部、ざわめきからは外れた外壁近くにその屋敷はあった。アシュレイ邸。そしてその地下三階、作戦室。
石壁の奥、銀の懐中時計をかざした者にだけ開く隔壁の先に、その部屋はある。壁という壁を水晶球が埋め、魔導回線の束が床を這い、武具架には漆黒のコートが掛かっていた。
そして卓につくのは、黒髪をきっちりと後ろに結い上げ、燕尾服を完璧に着こなした少女がひとりきりである。
クロエ・アルジェント、十三歳。
この街でもっとも背が低く、そしておそらくは、もっとも有能な執事であった。彼女が使役する機械梟を操り、一等地の館の窓辺へと差し向けたとき、その細い指先には、迷いというものが一切ない。祖父に叩き込まれた技のうち、迷いを捨てることだけは、五つのときに済ませてある。
梟の視界とリンクした水晶球に、霧に沈んだ貴族街が映し出された。
窓の向こうで葡萄酒を呷る豚のように肥えた男を、バルトロメイ子爵という。表の顔は、孤児院への寄付を欠かさぬ慈善家。裏の顔は、攫われた子供を番号で買い、番号のまま使い潰す男である。
二つの顔を持つ者は、この街では珍しくもない。珍しいのはむしろ、その二つ目の顔に値札をつけ、真夜中に取り立てへ現れる者のほうであった。
「対象、書斎に在室。護衛は廊下に二名、いずれも私兵。周辺結界は、掌握済みです」
少女の報告に、通信の向こうが短く応じた。
『ん』
――それだけだ。
水晶球のもうひとつに、館の外壁を這い上がる黒い流線が映る。
四十をとうに過ぎた、肩幅の広い大男であった。その巨躯のどこに、これほどの静けさが仕込まれているものか。魔導ワイヤーが雨樋を捉え、巻き上げの唸りひとつ立てず、大きな体が三階の庇へと吸い上げられていく。
この無愛想な相槌の主を、世間は「無能な三代目」と呼んだ。ゴルモア一の大富豪アシュレイ・カンパニーの当主にして、魔力ばかり人並外れていながら、魔法のひとつも使えぬ男。親の遺産を酒に変えるだけの、社交界の笑いもの。
──だが今、霧の屋根を音もなく渡っていく漆黒の影を見て、彼を無能と嗤える者は、この都市にただの一人もいはしまい。
§ § §
――くそ、雨樋が濡れてやがる。滑るじゃねえか。
黒鉄の面の下で、男は胸の内で悪態をついた。若い時分なら、こんな夜の壁など目を瞑ってでも登れた。今は一手ごとに、指の胝が冷たい石の感触を律儀に拾う。
膝も、腰も、昔とは違う。歳は取りたくねえもんだ、と男は思う。思いながら、それでも指は止まらない。止まったことなど、この八年、一度としてない。
少女は指先を回線に走らせた。
子爵邸の使用人回線に、ありもしない呼び鈴を鳴らす。厨房の勝手口に、聞こえるはずのない物音を差し込む。祖父ゆずりの、囁くような撹乱の術である。廊下の私兵ふたりが顔を見合わせ、片方が舌打ちして持ち場を離れた。
――こうした地味な露払いのひとつひとつが、あの黒衣の無音を支えているのだと知る者は、この広い都市に、ただ一人しかいない。
そう、彼女自身だ。誰も褒めはしない。褒められたいわけでもない。ただ、この人の帰り道に石ころひとつ残したくないだけ。そう、クロエ・アルジェントは考えている。
「一名、勝手口へ。残る一名──どうぞ」
窓が、内側から音もなく開いた。少女が掛け金を解いておいた、その分だけ。
「ひっ──」
子爵が異変に気づいたとき、事は既に半ば終わっていた。
天井から糸のごとく降りた魔導ワイヤーが、肥えた巨体を椅子ごと縛り上げ、宙へ吊るす。
杖に手を伸ばしかけた私兵の腕は、別の一条が壁へ縫い留めていた。骨の軋む鈍い音がして、男は白目を剥いて崩れ落ちる。悲鳴を上げる猶予すら、この影は与えない。
絨毯に落ちた杯から、葡萄酒が赤い染みをゆっくりと広げていった。まるで、これから流れるものの、先触れのように。
二秒。書斎に立っている者は、黒衣の男ただ一人となった。
男が口を開いた。四十年ぶんの疲れを底に溜めたような、低く掠れた声だった。
『バルトロメイ子爵だな?』
『な、なんだ、お前はッ!!』
黒衣の男は、その問いには答えず、ただ言葉を続けた。
『──ミラ。八歳。テオ。十歳。ヨナ。七歳──』
それは、名前だった。
この男に「買われた」子供たちの、名前。帳簿の上では番号でしか呼ばれなかった、ひとりぶんずつの名。少女が三日をかけ、番号の裏から一つずつ掘り起こした名だった。
『な、なんだ、それは……金か。金なら払う、いくらでも──』
『覚えても、いないのか』
ワイヤーが、軋んだ。
吊るされた肉が、みしり、と嫌な音を立てる。
――覚えてない、か。
面の下で、男は静かに思う。
いつもそうだ。買った側は、誰も覚えていない。番号は覚える。値は覚える。だが名前は覚えない。名前を覚えてしまえば、それが人間だと認めてしまうからだ。
認めずに済ませるための番号だ。だから俺が覚える。誰も覚えないなら、殺す前に、俺だけでも。──そうでもしなけりゃ、この子らは二度、消される。一度は檻で。二度目は、誰の記憶からも。
『ならば地獄で覚えなおせ』
『た、助けて……お前は、誰だ……なんのために、こんな……』
『ブリムストーン。それだけ知っていれば、地獄の門番に伝えられる』
『ブリムストーン……お前が……ッ!』
ゴルモアの裏社会で、ブリムストーンを知らぬ悪党はいない。ただ、その名を聞く者のほぼ全員が、今の子爵と同じように、最期の瞬間に初めて知る。
『せ、正義を気取る愚か者ッ!! この犯罪者めッ!!』
『この街には正義はない。俺もまた正義ではない。これはただの……』
この影には、呼び名がふたつある。ひとつは、罪を焼く天の火。ブリムストーン。もうひとつは──。
クロエは水晶球から目を逸らさなかった。
逸らさぬと、彼女は自らに課している。裁きの前に必ず名を読むこの男のなさりようを、誰にも聞かせぬその点呼を、せめて一人だけは聞き届けねばならぬと、そう決めていた。
『道楽だ』
『ど、道楽で殺されてたまるかッ! か、金なら幾らで――』
ヒュっと音を立てワイヤーが首を締める。
『豚は地獄で鳴いていろ』
これが、私の主のなさりようだ──と、少女は思う。奪われた者たちの名を、たったひとりで覚えて、たったひとりで読み上げる。誰に聞かせるためでもない。強いて言うなら、死んでいった名前たちに、聞かせるために。
絶鳴は、上がることもなく霧に呑まれて消えた。
黒衣が窓枠に立ち、ワイヤーが夜空へ伸びる。その姿は一瞬で霧の上へと攫われていった。まるで、天から降りた火が、務めを終えて還っていくように。
ゴルモアの裏路地で、悪党どもは彼をこう呼ぶ。
――ブリムストーン。
罪の都を焼く、天の火の名である。
「……お疲れさまでした、ご主人様。帰投は第三経路、追跡はありません」
『ん』
「差し出がましいようですが、ひとつ。先ほどの巻き上げ、以前より半拍、お体が遅れておいででした。……もう、お若くはないのです。あまり、ご無理はなさいませんように」
通信の向こうに、短い沈黙があった。それから、あの低い声が、ふ、と笑ったようである。
『……お前な。俺をいくつだと思ってる』
「もう四十二でいらっしゃいます。健診の数値ともども、把握しております」
『……まだ、四十二だ』
と減らず口を叩きながら、ブリムストーンは胸の内でぼやいた。
――余計なお世話だ!
正直、巻き上げの半拍は、自分でも分かっていた。だが、その半拍を埋めるために、この小さな執事が三日も寝ずに露払いの術式を組んでいたことも、ちゃんと知っている。
知っていて、礼のひとつも言えやしない。柄じゃねえんだ、そういうのは。
そして、主を労ってくれるなら、朝食くらいは好みを聞いてほしい。
──そう、ベーコンだ。
『クロエ』
「なんでしょう」
『明日の朝メシ、ベーコン多めで』
「…………却下です。健診の数値をお忘れですか」
天の火は、ちっと舌打ちをして通信を切った。
そうしてこの主従が、やがてこの街の「上」に巣くう本物の怪物と向き合うことになるのを、この夜の二人は、まだ知らない。
知らぬまま、少女は冷めた茶を淹れなおし、黒衣、仮面の男は霧の中を、我が家へと帰っていく。
男のもう一つの名は、ヴィンセント・アシュレイ。そして少女はクロエ・アルジェント。
――これは背徳と罪悪の街、ゴルモアを舞台にした、英雄ではない男と一人の少女の物語。




