わが友、
「な――ぐあっ!? な、なんだ、これは……!?」
ガルムの目に、初めて、正真正銘の狼狽が浮かんだ。何も見えない。何も飛んでこない。
それでも、何かが身体を貫通しながら、辺りを飛び回っていることだけは、事実が示している。
「ぐはッ!」
ほどなくガルムの身体は四肢の腱を断たれ地に伏した。
「不可視の攻撃は、別にお前の専売特許じゃない」
男の声は、静かだった。
「インビジブルナイフ。魔力を流し込むことで、周りの風景と同化する刃だ。……お前の音と、理屈は同じだよ。見えなきゃ、そこにないのと、勘違いしちまう」
言い聞かせるように呟く。ガルムの心を折るために。
「刃自体にも、細工がある。投げた瞬間、超振動を刻む。防ごうが、受け止めようが、関係ねえ。触れた側から、抵抗なく貫通するだけだ」
「レガシー……クラスの……魔道……具かよ、ちっ……」
ただし、この切り札を使用するには莫大な魔力を必要とする。一度の戦闘で使えるのはせいぜい三回。だがそんなことを口にする必要はなかった。
「掃除屋はな、後片付けまでが仕事なんだよ」
「て、めえ……何が、そんなに……」
――カラン、と。
インビジブルナイフが、込められた魔力を使い切り乾いた音とともに地面に落ちる。
「――天の火は消えない」
男の声、だが、その一言だけは、廃墟の隅々にまで、はっきりと響いた。
「この俺がいる限りな」
血を流して膝をつくガルムの義手へ、再び放たれたワイヤーが、絡みついた。抵抗する力は、もう、残っていなかった。
「レナード・アルジェント。わが友よ」
ヴィンセントは、静かに言った。八年間、誰にも聞かせなかった、たったひとりぶんの点呼を。
「読み上げる名前は、今夜は、ひとつでいい」
ワイヤーが刃と化し、太い首を切断した。
――ごとり、と生首が地面に落ちる。
悲鳴も、上がらなかった。廃墟の石が、溢れ出す血潮を吸い込んで、静寂だけが残る。
§ § §
瓦礫の上、ガルムの首から落ちた鎖が、じゃらりと、乾いた音を立てた。
ヴィンセントは、崩れ落ちるように、その場に膝をついた。震える指で鎖を辿り、擦り切れたボタンだけを、そっと拾い上げる。
小さな、なんの変哲もないボタンだった。
だが、その手の中で、八年間止まっていた何かが、ようやく動き出した。
「……レン」
声が、震えた。
「悪かったな。……こんなとこに、ずっと、置き去りにして」
ぽつり、と、頬に何かが当たった。
見上げれば、垂れ込めていた雲が、とうとう堪えきれなくなったように、雨を落とし始めていた。ひと粒、またひと粒。やがて、瓦礫の上に、静かな雨音が満ちていく。
肩が、震え出す。最初は小さく、やがて、大きく。八年間、誰にも見せなかった慟哭が、大男の体から、堰を切ったように溢れ出していく。
「……これは、雨だ」
濡れた顔のまま、ヴィンセントは、そう呟いた。誰に言い訳するでもなく、ただ、自分自身に言い聞かせるように。
「これは……雨だからな」
「悪かった……悪かったよ、レン……お前が繋いでくれた命を、俺は、ずっと、こんな使い方しかできなくて……」
声にならない声で、何度も、何度も、名前を呼びながら。子供のように、大きな体を丸めて。四十二年生きてきた男が、この瞬間だけは、たった一人の少年に戻っていた。
クロエは、その背中に、そっと近づいた。近づいて、何も言わず、隣に、静かに座った。
――父の、最後の欠片。
小さなボタンを見つめるうち、少女の目にも、熱いものが、じわりとこみ上げてきた。八年前、顔もろくに覚えていなかった父。
任務記録の文字と、写真の中の笑顔でしか、知らなかった父。その人が、確かにここで、この人を庇って、笑って死んだのだと、今、はっきりと、体の芯で分かった。
分かってしまうと、もう、堪えられなかった。
「……お父様」
ボタンに向けて、そう呼んだ。声が、掠れた。
涙が、頬を伝った。止めようとしたのに、止まらなかった。祖父の教えを、生涯で二度目に、盛大に破った夜だった。一度目は、半年前の椅子に座った夜。二度目は、今、この瓦礫の上で。
「……う……うぅ……あ……あああああっ!」
号泣。
答えは、返ってこない。当たり前だ。八年前に死んだ人だ。それでも、言わずにはいられなかった。言葉にすることでしか、繋げられない何かが、そこにはあった。
ヴィンセントは、涙に濡れた顔のまま、少女の頭に、震える手を乗せた。いつものように、ぽん、と軽くではなく、ただ、そっと、重さを預けるように。
「……泣くな……どうしていいかわからん」
「ぎゅって……してください。お父さんがするみたいに」
ヴィンセントの手が、一瞬、宙で止まった。
父親が、娘を抱く仕方など、知らない。教わったこともない。ただ、目の前で、小さな体が、雨と涙にまみれて震えている。それだけが、今、確かなことだった。
大きな両腕が、ゆっくりと、少女の背中に回った。壊れ物を扱うように、それでいて、二度と離さないというように、そっと、しかし確かに、抱き寄せる。
クロエは、その胸に顔を埋めた。雨に濡れたコートから、消毒液と、汗と、微かな血の匂いがした。八年間、この人が一人で嗅ぎ続けてきた匂いだ。
「……こう、か」
主の声が、不器用に、掠れた。
クロエは、その胸にすがりついたまま、さらに強く、腕に力を込める。
その体は思ったよりもずっと暖かかったのを、彼女は後々まで思い出すのだった。




