音を返す
ガルムが、少女の首を、軽く締め上げる。声が、詰まった。
瓦礫の上で、ヴィンセントの膝が、崩れた石畳へ触れかけた、その時――
膝が、石畳に触れる。
「――ああ、いいねえ。その顔だ」
ガルムは、少女を片手で吊るしたまま、もう片方の義手を、跪いたヴィンセントの眼前に、ゆっくりと突きつけた。
「詫びの印に、ひとつ、聞かせてやるよ」
義手の中枢が、間近で唸る。逃げ場のない距離で、衝撃波が放たれた。
光は、見えなかった。閃光も、術式の輝きもない。ただ、空気を殴りつける轟音だけが響き、ヴィンセントの体が、目に見えない何かに打たれたように、大きく撓んだ。
――音そのものを、武器にしている。
クロエは、義手に締め上げられたまま、それを悟った。見えない攻撃ほど、質が悪い。防ぎようがない。避けようがない。あの人は今、防御の構えすら取れないまま、ただ、浴び続けている。
膝をついたまま、ヴィンセントはそれを、まともに浴びた。石畳に爪を立て、歯を食いしばる。耳の奥で、何かが軋む。鼻の下を、赤いものが伝った。
「や、やめ――!!」
クロエの悲鳴が、義手の指の隙間から漏れる。
「やめるかよ。詫びってのは、痛くなくちゃ意味がねえ」
ガルムは、もう一度、義手を唸らせた。
「ほら、もっとだ。もっと、いい声で詫びてみせろよ、天の火。いや、もう消えちまうから、ただの天か? ブリムストーン!」
二度目の衝撃波が、瓦礫を砕きながら、ヴィンセントを打った。声は上げなかった。だが、体は、明らかに、限界へ近づいている。
クロエは、その光景を、見ていられなかった。義手の指に締め上げられた喉の痛みよりも、目の前で嬲られる背中の方が、ずっと痛かった。
――もう、待てない。
ガルムの指が、僅かに緩んだ。ヴィンセントの跪く様を、なおも、じっくりと見物するために。
――今だ。
少女は、締め上げられた喉の痛みの中で、それでも、指先だけは止めていなかった。義手に掴まれた瞬間から、その指は、掴まれた腕の継ぎ目を、ずっと探り続けていた。祖父仕込みの解析の勘が、暗闇の中でも、駆動音の発生源を正確に拾い上げていく。
この男の音撃は、義手の内部に組まれた共鳴術式が生む。腕そのものが、巨大な楽器なのだ。ならば、外から同じ弦を、別の指で弾いてやればいい。
増幅ではない。干渉だ。
祖父の帳面の、片隅に書かれていた一文が、頭の中で光った。――音は、返す刃にもなる。あの日は、意味も分からず書き写しただけの言葉だった。今、初めて、その意味が分かる。
白手袋の指先が、隠しておいた小さな音叉型の触媒――日頃、ワイヤーの張力を調律するために使う道具を、そっと、ガルムの義手の付け根へ、押し当てた。
「な――」
「――献上します」
クロエの声は、震えながらも、はっきりと響いた。
「あなたの音、そのままお返しします」
逆位相の共鳴が、駆動術式に、深く食い込んでいく。
「があああああッ!!」
絶叫と共に、義手が痙攣した。内部の回路が、自分自身の音に殴られて、火花を散らす。握力を失った太い指の隙間から、少女の体が、するりと滑り落ちた。
「クロエ!!」
膝から崩れかけていたヴィンセントが、弾かれたように立ち上がる。
「ご無事で、なによりです」
息を切らしながらも、クロエは瓦礫の上で膝立ちのまま、無理やり、笑ってみせた。喉には、赤黒い指の痕が、くっきりと残っている。
「言いつけを、破りました。……叱るのは、後にしてください」
ヴィンセントは、一瞬、何かを言いかけて――やめた。言葉にする代わりに、大きく息を吸い、痛む肋骨を無視して、立ち上がる。跪きかけていた膝が、まっすぐに伸びた。
「悪いな、ガルム」
主の声は、静かだった。だが、その静けさの底に、これまでとは違う、確かな熱があった。
「て、めえ……何しやがった……!!」
ガルムが、痙攣する義手を庇いながら、後ずさる。声には、初めて、動揺があった。
「うちの執事はな、掃除の道具を、掃除される側に回すのが得意なんだ。……お前の音も、俺のワイヤーと、大して変わらん。使い方次第で、首を絞める側にも、絞められる側にも回る」
「執事だと? こんな小娘が!? く、くそ……この俺が、小娘の手品なんかに……」
「手品じゃない。技術だ」
ヴィンセントは、展開していたワイヤーを、静かに収めた。代わりに、腰に手を回し、ひとつ軽く息を吸い込む。
――みるみるうちに仮面の下の顔色が青く変わってゆく。全身からごっそりと抜き取られたように活力が……いや魔力が吸い込まれてゆく。
彼が手に取った、そのナイフ型の魔道具に。
それは僅かに発光した後、跡形もなく男の手から消え去った。
ヴィンセントは、そのまま何も持たない素手を軽く振る。
――瞬間。
とっさに鋼鉄の義手を盾に、防御の姿勢をとったのはガルムが一流の傭兵である証であった。
何か、来る!
ガルムは、痙攣する義手を、なおも、庇うように持ち上げた。長年、あらゆる得物を弾き返してきた鋼の腕だ。今度もそれで、防げると、体が覚えていた。
だが、鋼鉄の義手にいきなり貫通痕が現れた。
義手の腕部が、まるで薄い柔らかいバターのように、やすやすと何かに貫通される。
何にぶつかったのかすら、ガルムには見えなかった。ただ、自分の義手を通して、何かがガルムの身体を貫いた。
「があああああああああッッ!!」
次の瞬間、ガルムの体の、あちこちから、血が噴き上がった。腕、肩、太腿。一箇所ではない。何箇所も、僅かな時間を置いて。




