灯りの点いた日
「……こうです」
少女は、コートの背を、両手できつく握りしめた。堰を切ったように、また、声が漏れる。
二人は、雨の中、そのまま、しばらく動かなかった。廃墟の瓦礫の上で、大きな影が、小さな影を、包み込むように、覆っていた。
「あなたも、泣いておいでですよ」
「これはただの雨だ」
「嘘です」
「うるせえ。四十二にもなって、みっともねえのは、分かってる」
「みっともなく、ありません」
「じゃあ、なんだ」
「――人間らしいです。誰よりも」
雨は、いつしか、小降りになっていた。厚い雲が、ゆっくりと割れていく。
その隙間から、新月の夜には見えるはずだった満天の星が、ようやく顔を出した。廃墟の瓦礫の上に、静かな光が降り注ぐ。
二人は、しばらく、そうしていた。星明かりの下で、ひとりの死者を、ようやく本当の意味で悼むために。
翌日、というか、同日の午後一時。
ゴルモアの空に、雲はなかった。昨夜の廃墟の記憶が嘘のような、間の抜けた青さである。
救済院の中庭に、子供たちの声が響いていた。
「旦那ぁ! こっち来て!」
「肩車、肩車!」
「わたしが先だって言ったのに!!」
「順番だ、順番。……いてて、髪引っ張るな」
ヴィンセントは、両肩に子供を二人乗せ、さらに片腕にもう一人ぶら下げられたまま、砂場の真ん中で立ち往生していた。無精髭は相変わらずだが、目の下の隈は、心なしか、昨日より薄い。
「旦那、腕相撲!!」
「今、両手も両肩も塞がってるだろうが」
「じゃあ後で!!」
「後で忘れてくれると助かる」
「忘れないもーん!!」
院長が、洗濯物を山ほど抱えたまま、その脇を通り過ぎていく。
「相変わらずですね、あの穀潰しは」
「ええ、本当に」
クロエは、回廊の柱に寄りかかりながら、その光景を見ていた。院長の言葉に、小さく笑って頷く。
「毎回、あれだけ揉みくちゃにされて、よく懲りないものです」
「懲りてないわけじゃないと思いますよ。……ただ、来るのをやめる気は、これっぽっちもなさそうです」
「よくお分かりで」
「半年、お仕えしておりますので」
「あら、氷姫」
声のした方を見ると、赤毛の少女が、洗濯籠を抱えて立っていた。ネリだった。以前より、少し背が伸びたように見える。
「元気にしてる?」
「おかげさまで。……あんたも、顔色、良くなったね」
「そう見えるか」
「見える。あの化け物の連れにしちゃ、ずいぶん人間くさい顔してる」
クロエは、少しだけ、意外そうな顔をした。
「化け物、とは、もう思っていないのか」
「思ってねえよ、とっくに」
ネリは、砂場の惨状を、顎でしゃくった。ヴィンセントは今、三人がかりで押し倒され、砂まみれになっている。
「……だって、また来たじゃないか。子供の遊び相手なんかしにさ。化け物は、そんなことしない」
「そう、だろうか」
「するわけないだろ、普通。……あんたは、知らないのか」
「いや」
クロエは、少しだけ、目を伏せた。
「知っている。誰よりも」
昨夜、あの人は、廃墟の闇の中で、子供のように泣いていた。今日は、この陽だまりの中で、子供たちに、また別の意味で泣かされている。
同じ人だ。全部、同じ、この人だ。
「クロエ、来い!! 助けろ!!」
砂まみれの主が、こちらへ向けて、情けない声を上げた。
「あなたが撒いた種です。ご自分で刈り取ってください」
「鬼か!! うちの執事は鬼か!!」
「氷でできてるって、前に旦那が言ってたぜ」
子供たちが、どっと笑う。ヴィンセントは、笑いながら砂だらけの頭を振って、それでも、子供たちを振り払おうとはしなかった。振り払う気があるようには、とても見えなかった。
――どれだけ掃除しても、な。
子供たちの重みを両肩に感じながら、男は、ふと、笑顔の下で、そんなことを思う。ドミニクを片付けても、また誰かが同じ商売を始める。ガルムを片付けても、また別の狂犬が、どこかから湧いて出るのだろう。人の心から悪だけを抜き取る術式なんて、どこにもない。
俺のやってることに、いったい何の意味がある。
この街は、明日もまた、腐っているだろうに。
その答えを探すように、ヴィンセントは、目の前で笑い転げている子供たちの顔を、ひとつずつ見た。……分からない。分からないが、今、この砂まみれの重みだけは、確かに本物だ。それだけは、誰にも奪えない。
「氷姫も混ざれよ!!」
ネリが、洗濯籠を置いて、砂場へ駆けていった。
クロエは、その背を見送り、しばらく、そのまま動かなかった。
白手袋の内側で、指先が、まだ、昨夜の音叉の感触を覚えている。喉には、赤黒い痕が、うっすらと残っている。それでも、痛みより先に、胸の奥が、じんわりと温かかった。
――言いつけを破って、良かった。
そう思ってしまう自分を、少女は、もう咎めなかった。祖父の教えその一を、また少しだけ、都合よく曲げる。執事たる者、感情を面に出してはならない。だが、これくらいは、業務時間外ということにしても、罰は当たらないだろう。
クロエは、白手袋を、片方ずつ、ゆっくりと外した。丁寧に畳んで、回廊の柱に置く。
「……業務時間外、ということで」
誰にともなく呟いて、少女は、陽だまりの中へ、素手のまま、足を踏み出した。
「クロエ、こっちだ!! 早くしろ!!」
「――今、参ります」
砂場に膝をついた瞬間、三人の子供に、いっせいに飛びつかれた。悲鳴とも歓声ともつかない声が、中庭に響く。
ゴルモアは、今日も、腐っている。法は死に、正義は値札つきで売られ、明日には、また新しい悪党が、どこかの裏路地で生まれるのだろう。この街が丸ごと綺麗になる日は、たぶん、永遠に来ない。
それでも今、この中庭にだけは、灯りが点いていた。
誰も見張らず、誰も裁かず、ただ、笑い声だけが満ちる、小さな昼の灯りが。
あの人は父の友だった。そして父の仇を討ってくれた。泣いている私を、抱きしめてくれた。
あの人は自分のことを英雄ではないという。きっとそれは真実なのだろう。――でも。
これは背徳と罪悪の街ゴルモアに生きる、一人の少女と彼女の英雄の物語である。




