同じ鋼糸
「示してくれた。だから、外す。……これだけは、譲れん」
「勝手です」
「勝手で結構だ」
主は、席を立った。それ以上、取り合う気配はなかった。
「今夜のうちに、下見だけしてくる。お前は屋敷から出るな。……いいな」
返事を待たずに、主は歩き去った。
クロエは、その背に、何も言えなかった。言えなかった代わりに、白手袋の下で、指を固く握りしめる。
――出るな、と言われて、大人しく従う執事だと、この人は本気で思っているのだろうか。
ゴルモアの空に、月はもう、細く痩せていた。二日後には、新月が来る。
その前に、決着をつけなければならない。旧闘技場――八年前の夜を封じ込めた廃墟の場所だけは、少女もすでに、しっかりと胸に刻んでいた。
新月の夜。日暮れとともに、ヴィンセントは屋敷を出ていった。
出る前に、玄関と裏口、両方の扉に、施錠の魔道具を仕込んでいったことを、クロエは知っている。触れれば、微かに独特の刺激臭がする、あの型の錠だ。祖父の帳面にも記録のある、アシュレイ製の携帯型封鎖術式――主が、余所の屋敷に忍び込む際に使う道具の、応用だった。
自分の技術を、自分に向けられたわけだ。少女は、その皮肉に、僅かに笑った。
解錠には、四十分かかった。祖父の帳面にない術式だったからだ。だが、かからないはずがない、とも思っていた。この人の道具の癖なら、誰よりも知っている。
施錠を解いて、クロエは、屋敷の裏口から、音もなく抜け出した。
言いつけには、従わない。従うつもりなど、初めから、なかった。回線を切られたなら、耳だけで追いかければいい。祖父仕込みの気配読みは、通信環がなくとも役に立つ。灰路地で聞いた場所――旧闘技場は、地図になくとも、足取りだけで辿り着ける。
夜霧の中、崩れた市壁を越え、廃墟の外周に近づいたとき、少女の耳は、確かに轟音を捉えた。
空気そのものが殴られるような、異様な震え。魔力の炸裂音とも違う、腹の底に直接響く、重く汚れた音だった。
――もう、始まっている。
クロエは、崩れた観客席の陰を伝って、闘技場の内側へ滑り込んだ。
新月の夜だ。本来なら、月明かりに邪魔されず、満天の星が見えるはずの夜だった。だが、空は厚い雲に覆われ、星のひとつも見えない。ただ、重く垂れ込めた暗闇だけが、罅割れた石畳と、砕けた円柱の影を、塗り潰している。
かつて何百人もの観客が、ここで人の殺し合いを娯楽として眺めていたのだと思うと、この石ひとつひとつが、まだその記憶を吐き出しているように感じられた。
瓦礫の中央に、二つの影があった。
言葉は、まだない。
黒衣の影が地を蹴った瞬間、義手の指先から、銀の鋼糸が奔った。ワイヤーだ。ヴィンセントは、それを見た瞬間、僅かに息を呑んだ。だが、止まりはしなかった。己のワイヤーで迎え撃つ。
月のない闇の中、鋼糸と鋼糸が噛み合い、白い火花だけが散った。一瞬だけ、二つの輪郭を浮かび上がらせては、消える。何度も、何度も。まるで、闇そのものが、火花の分だけ瞬いているようだった。
クロエは、崩れた円柱の陰から、その応酬を見つめていた。
鋼糸の振り、間合いの詰め方、返しの速さ。祖父仕込みの解析眼が、無意識のうちに、両者の技量を数値へ変換していく。──互角だ。ワイヤーの捌きも、間合いの読みも、どちらも一寸の隙を作れずにいる。あの人が、これほど手こずる相手を、久しく見ていない。
だが、少女には、もうひとつ、気になることがあった。──あのワイヤーの編み目。あの、独特の撚り方。見覚えが、ある。
それでいて、少女は気づいていた。──まだ、どちらも本気ではない。義手の駆動音は、まだ低いままだ。ヴィンセントの鋼糸も、七対のうち、動いているのは精々二対。互いに、様子を見ている。奥の手は、まだ、どちらの手の内にも、しまわれたままだった。
鋼糸が唸る。躱す。鋼糸が閃く。絡め捕る。
だが、様子見が続いたのは、最初の数合だけだった。ヴィンセントの一条が、ガルムの鋼糸の隙間を縫って、頬を浅く裂く。続く一条が、義手の肩口の継ぎ目に食い込み、火花を散らした。
ガルムが、後ろへ、大きく飛び退る。頬の血を、指先で拭った。
「――やるじゃねえか。前やった時より強くなってやがんな」
ガルムが、そう言って、口の端を吊り上げた。愉快そうに、しかし、僅かに悔しさの滲む声で。手にした銀の鋼糸巻きを、見せびらかすように、くるりと回す。
「まったく便利な魔道具だぜ。魔力を通して自在に操る伸縮自在の剣で鞭。ロープにすらなる」
「……お前には過ぎた道具だ」




