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無能な三代目当主は二つの貌を持つ。 ―13歳の少女執事だけが、それを知っている。  作者: カクナノゾム


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狂犬の寝ぐら

「なあ店主。その署名入りの殺し、詳しく知らねえか」


「ああ、旦那も気になるかい。噂じゃ、壁だの死体の胸だのに、でかでかと『ガルム』って彫ってあるらしいぜ。ご丁寧に、点数までつけてな」


「点数?」


「殺しの出来栄えを、自分で採点してんだと。『会心』だの『傑作』だの。……頭のネジ、ぶっ飛んでるよ」


 ――名前を誇る殺しか。

 ヴィンセントは杯の中身を見つめたまま、腹の底で吐き捨てる。俺は名も無い名前を、死んでいった側のために読む。あいつは、自分の名前を、殺した側のために書き殴る。同じ「署名」でも、向いてる方角が正反対だ。


「その手の噂に強い伝手、ないか。金は弾む」


「旦那が金弾むってのは、よっぽどだな」


 店主は声を落とし、身を寄せてきた。


「……港の元締めの隠居がいてな。前に旦那が、あすこの賭場の胴元の使い込みを揉み消してやった恩がある」


「ああ、あの帳簿二重にしてた馬鹿か」


「それだ。ありゃもう五年前だが、まだ律儀に恩に着てるよ。訊いてみな」


 この人が「掃除」してきたのは、番号を振られた子供たちだけではない。灰路地の借金取り、賭場のイカサマ、役人の袖の下。この街の膿は、種類を選ばずに、この人の手を汚してきた。今夜もまた、その古い貸し借りの一枚を、使うことになる。


 § § §


 隠居の家で得た伝手を辿り、次に訪ねたのは、質屋の老主人だった。


「ガルムの寝ぐらか。……旦那、あんたにゃ世話になったからな。あの、埠頭裏の帳簿改竄の件」


「あれも五年ぐらい前だったか」


「六年だ。忘れちゃいねえよ、あんたが役人一人挙げてくれたこと」


 老主人は声を潜めた。


「――旧市街の、闘技場跡だ。今はもう誰も近寄らねえ。八年前に潰れた見世物小屋だよ」


「潰れた、というのは」


「賭博と八百長の巣でな。市の高官連中が裏で胴元やって、勝敗を仕込んで賭け金を吸い上げてた。……そこにある夜、掃除屋が踏み込んで、丸ごと潰したって噂だ。以来、誰も使ってねえ」


 ヴィンセントの手が、杯を握る力を、僅かに強めた。

 あの夜だ。汚職の証拠を掴むために踏み込んだ、あの罠にかけられた夜。八年間、忘れたことなど一日もない夜。


「そこに、ガルムが」


「戻ってきたって噂だ。奴にとっちゃ、思い出の舞台なんだろうよ。……昔、あすこで一世一代の仕事をしたって、酔うと自慢げに語る客がいてね」


 ヴィンセントは、それ以上、何も訊かなかった。訊く必要が、なかった。


 § § §


 屋敷に戻ったのは、夜も更けたころだった。


 地下の作戦室では、灯りを絞ったテーブルの上に、見慣れない小さな砥石が置かれていた。ヴィンセントは黙々と、掌に収まるほどの薄い刃を研いでいる。いつもの魔導ワイヤーとは、明らかに違う代物だった。


 クロエが、扉口からその手元を見つめる。ヴィンセントは、研ぐ手を止めないまま、コートも脱がずにいた。


「それを、お使いになるのですか」


「……ああ、相手が相手だ。切り札は仕込んでおくに越したことはない」


 それだけ言うと、刃を布に包み、抽斗の奥へしまい込む。それ以上、訊く隙を与えない仕草だった。


「収穫は、ありましたか」


「……いや、大したことは」


「顔に、書いてあります」


 主は、答えなかった。答えないことが、答えのようなものだった。


「どちらに、あったのですか」


「……お前が知る必要は」


「ご主人様」


 クロエの声は、静かだったが、退く気配がなかった。しばらくの沈黙のあと、ヴィンセントは、観念したように、小さく息を吐いた。


「……旧市街の、闘技場跡だ」


 クロエの息が、止まった。


「潰れた見世物小屋だ。八年前、汚職の証拠を掴もうとして――」


「お父様が……」


「……ああ」


 言ってしまってから、ヴィンセントは、僅かに悔いるような顔をした。言うつもりは、なかった。だが、この娘の目の前で、隠し通せた試しがない。


 少女は、白手袋の下で、指をきつく組んだ。父が死んだ場所。この人が、八年間、一度も口にしなかった場所。その名を、今、初めて知った。


「……ご主人様」


「ん」


「行きましょう」


 ヴィンセントは、へらついた仮面を、ゆっくりと剥がした。


「クロエ。お前は、屋敷に残れ」


「――なぜですか」


「あの晩餐の席で、皿を落としたのは誰だ」


 声を、静かに刺された。クロエは、俯いた。


「お前はもう、あいつの名前を聞いただけで、普段どおりでいられない。そういう奴を、現場には出せん」


「……いつもと変わらず、管制を務めます。現場には出ません」


「管制もだ。今回は、通信も切る」


「――なぜ、そこまで」


「理由は、言わん」


「言わないくせに、顔に書いてあります」


「……うるさい執事だ」


「あなたが分かりやすいだけです。……今度は、私に聞かせたくないものが、向こうにあるのでしょう」


 主は、答えなかった。答えないこと自体が、答えだった。


 クロエの中で、何かが、音を立てて軋んだ。


「私は、ただの使用人ではないつもりです。半年間、それをお示ししてきたつもりでしたが」

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