狂犬の寝ぐら
「なあ店主。その署名入りの殺し、詳しく知らねえか」
「ああ、旦那も気になるかい。噂じゃ、壁だの死体の胸だのに、でかでかと『ガルム』って彫ってあるらしいぜ。ご丁寧に、点数までつけてな」
「点数?」
「殺しの出来栄えを、自分で採点してんだと。『会心』だの『傑作』だの。……頭のネジ、ぶっ飛んでるよ」
――名前を誇る殺しか。
ヴィンセントは杯の中身を見つめたまま、腹の底で吐き捨てる。俺は名も無い名前を、死んでいった側のために読む。あいつは、自分の名前を、殺した側のために書き殴る。同じ「署名」でも、向いてる方角が正反対だ。
「その手の噂に強い伝手、ないか。金は弾む」
「旦那が金弾むってのは、よっぽどだな」
店主は声を落とし、身を寄せてきた。
「……港の元締めの隠居がいてな。前に旦那が、あすこの賭場の胴元の使い込みを揉み消してやった恩がある」
「ああ、あの帳簿二重にしてた馬鹿か」
「それだ。ありゃもう五年前だが、まだ律儀に恩に着てるよ。訊いてみな」
この人が「掃除」してきたのは、番号を振られた子供たちだけではない。灰路地の借金取り、賭場のイカサマ、役人の袖の下。この街の膿は、種類を選ばずに、この人の手を汚してきた。今夜もまた、その古い貸し借りの一枚を、使うことになる。
§ § §
隠居の家で得た伝手を辿り、次に訪ねたのは、質屋の老主人だった。
「ガルムの寝ぐらか。……旦那、あんたにゃ世話になったからな。あの、埠頭裏の帳簿改竄の件」
「あれも五年ぐらい前だったか」
「六年だ。忘れちゃいねえよ、あんたが役人一人挙げてくれたこと」
老主人は声を潜めた。
「――旧市街の、闘技場跡だ。今はもう誰も近寄らねえ。八年前に潰れた見世物小屋だよ」
「潰れた、というのは」
「賭博と八百長の巣でな。市の高官連中が裏で胴元やって、勝敗を仕込んで賭け金を吸い上げてた。……そこにある夜、掃除屋が踏み込んで、丸ごと潰したって噂だ。以来、誰も使ってねえ」
ヴィンセントの手が、杯を握る力を、僅かに強めた。
あの夜だ。汚職の証拠を掴むために踏み込んだ、あの罠にかけられた夜。八年間、忘れたことなど一日もない夜。
「そこに、ガルムが」
「戻ってきたって噂だ。奴にとっちゃ、思い出の舞台なんだろうよ。……昔、あすこで一世一代の仕事をしたって、酔うと自慢げに語る客がいてね」
ヴィンセントは、それ以上、何も訊かなかった。訊く必要が、なかった。
§ § §
屋敷に戻ったのは、夜も更けたころだった。
地下の作戦室では、灯りを絞ったテーブルの上に、見慣れない小さな砥石が置かれていた。ヴィンセントは黙々と、掌に収まるほどの薄い刃を研いでいる。いつもの魔導ワイヤーとは、明らかに違う代物だった。
クロエが、扉口からその手元を見つめる。ヴィンセントは、研ぐ手を止めないまま、コートも脱がずにいた。
「それを、お使いになるのですか」
「……ああ、相手が相手だ。切り札は仕込んでおくに越したことはない」
それだけ言うと、刃を布に包み、抽斗の奥へしまい込む。それ以上、訊く隙を与えない仕草だった。
「収穫は、ありましたか」
「……いや、大したことは」
「顔に、書いてあります」
主は、答えなかった。答えないことが、答えのようなものだった。
「どちらに、あったのですか」
「……お前が知る必要は」
「ご主人様」
クロエの声は、静かだったが、退く気配がなかった。しばらくの沈黙のあと、ヴィンセントは、観念したように、小さく息を吐いた。
「……旧市街の、闘技場跡だ」
クロエの息が、止まった。
「潰れた見世物小屋だ。八年前、汚職の証拠を掴もうとして――」
「お父様が……」
「……ああ」
言ってしまってから、ヴィンセントは、僅かに悔いるような顔をした。言うつもりは、なかった。だが、この娘の目の前で、隠し通せた試しがない。
少女は、白手袋の下で、指をきつく組んだ。父が死んだ場所。この人が、八年間、一度も口にしなかった場所。その名を、今、初めて知った。
「……ご主人様」
「ん」
「行きましょう」
ヴィンセントは、へらついた仮面を、ゆっくりと剥がした。
「クロエ。お前は、屋敷に残れ」
「――なぜですか」
「あの晩餐の席で、皿を落としたのは誰だ」
声を、静かに刺された。クロエは、俯いた。
「お前はもう、あいつの名前を聞いただけで、普段どおりでいられない。そういう奴を、現場には出せん」
「……いつもと変わらず、管制を務めます。現場には出ません」
「管制もだ。今回は、通信も切る」
「――なぜ、そこまで」
「理由は、言わん」
「言わないくせに、顔に書いてあります」
「……うるさい執事だ」
「あなたが分かりやすいだけです。……今度は、私に聞かせたくないものが、向こうにあるのでしょう」
主は、答えなかった。答えないこと自体が、答えだった。
クロエの中で、何かが、音を立てて軋んだ。
「私は、ただの使用人ではないつもりです。半年間、それをお示ししてきたつもりでしたが」




