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無能な三代目当主は二つの貌を持つ。 ―13歳の少女執事だけが、それを知っている。  作者: カクナノゾム


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縁のある男

「これは、失礼を」


 膝をつき、破片を拾いながら、クロエの手が止まらなかった。震えを、隠しきれなかった。


「おや」


 議長が、目を細めてこちらを見た。


「執事どのは、顔色が優れないようだ。……何か、思い当たることでも?」


「……いいえ。手が滑っただけです」


「そうかね」


「うちの執事、たまに氷像に戻るんですよ。溶けかけの」


 ヴィンセントが、へらへらと割って入る。声は軽い。だが、その目だけが、テーブルの下で、クロエへ、一瞬だけ強い光を放った。──黙ってろ。今は、それ以上、動くな。


 少女は、皿の破片を拾いきり、席を辞した。それ以上、声は震わせなかった。震わせなかったが、拾い集めた手の中で、破片の縁が、白手袋を薄く裂いていたことに、彼女自身も気づいていなかった。


「そういえば、これも噂だが」


 議長は、葉巻の煙をゆっくりと吐いた。


「あの男、どうやら『ブリムストーン』とも、浅からぬ縁があるそうだね」


 夜気が、凍った。


「へえ。そりゃ……穏やかじゃない」


「うむ、穏やかではないな」


「そういえば――」


 議長は、にこりと笑う。


「君の会社の魔石は、市場の三割を占める。狂犬が噛みついてきたら大変だ。──夜道に気をつけて帰りなさい。近ごろは、物騒だから」


「……お心遣い、痛み入ります」


「なんの。君は、私の数少ない楽しみだからね」


 馬車の中、主は長いこと黙っていた。


「……ご主人様。今のは」


「ん」


「偶然の世間話、でしょうか。それとも」


「クロエ」


 主の声は、静かだった。


「あの人が、なぜ俺たちにガルムの名を教えたのか。……試したのか、警告したのか、それとも、けしかけたのか。今のところ、どれとも決められん」


「分からないのに、備えるのですか」


「分からんときに備えるんだよ。分かってからじゃ、遅い」


 窓の外を、白い塔が遠ざかっていく。主はそれを見ずに、目を閉じていた。


 ――違っていてくれ、と男は胸の内で、柄にもなく祈る。あんたが本当に、ただの善い老人であってくれ。この街に一人くらい、疑わずに済む大人がいたって、罰は当たらねえだろう。


 ……だが、祈りと算段は、別の抽斗だ。祈りながら、手は動かす。それが、二十年、生き延びてきた男の作法である。


「爺さんの代からの教えでな。──いちばん優しい声を、いちばん疑え」


 クロエは、膝の上で拳を握った。

 あの方が。主を庇い続けてくれた、たったひとりの大人が。──違うと言ってほしかった。考えすぎだと、笑ってほしかった。けれど主は目を閉じたまま、それきり何も言わず、少女も何も聞けないまま、馬車はゴルモアの毒々しい光の中へと降りていった。


 そして、その名。

 ガルム。八年前、レンを殺した男の名を、少女は今夜、初めて他人の口から聞いた。


「……ご主人様」


「ん」


「その男を」


 声が、震えた。抑えようとして、抑えきれなかった。


「その男を、追わせてください」


 主は、しばらく答えなかった。

 ――追わせるわけには、いかん。

 ヴィンセントは、窓の外を見たまま、腹の底で、もう決めていた。あの皿の割れる音を、忘れられるわけがない。あの震える手のまま、レンを殺した男の前に立たせるなど、論外だ。……だが、それを今、正面から告げれば、この娘は、きっと大人しくは頷かない。


「……ん」


 それだけを返し、主は、それ以上、何も言わなかった。約束でも、拒絶でもない、ただの相槌。少女は、それを、どちらの意味に取ればいいのか分からないまま、俯いた。


 馬車の車輪が、石畳を鳴らし続けた。霧の向こうで、ゴルモアの夜は、もうひとつ、新しい顔を見せ始めていた。


 翌日、灰路地の酒場は、いつもと違う熱気に沸いていた。


「聞いたか、聞いたか! 狂犬野郎の祭りだよ!」


「もう五人目だってな! 伯爵から靴磨きのガキまで、見境なしにやってるらしいぜ!」


「署名入りだってよ! 自分の名前、堂々と壁に彫っていくんだと!」


「粋だねえ、ちゃんと名乗る殺しは! どっかの臆病者の天の火とは大違いだ!」


 どっと、下卑た笑い声が上がる。


 この連中は、いつもは「旦那ぁ」と、腹の底から慕ってくれる人たちだ。困りごとには親身になり、借りには律儀に返し、酒場が丸ごと、ひとつの家族のような温かさを持っている。その同じ口が、今は見ず知らずの死者の数を、酒の肴にして笑っている。


 この街は、いつもそうだ。人の心の、表と裏に、境目がない。慕う声と、囃す声が、同じ喉から出る。


「旦那ぁ、いつもの」


 ヴィンセントは、いつもどおり酒場の中央に陣取り、へらへらと杯を傾けていた。だが、その目の底には、いつもの温度がない。

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