縁のある男
「これは、失礼を」
膝をつき、破片を拾いながら、クロエの手が止まらなかった。震えを、隠しきれなかった。
「おや」
議長が、目を細めてこちらを見た。
「執事どのは、顔色が優れないようだ。……何か、思い当たることでも?」
「……いいえ。手が滑っただけです」
「そうかね」
「うちの執事、たまに氷像に戻るんですよ。溶けかけの」
ヴィンセントが、へらへらと割って入る。声は軽い。だが、その目だけが、テーブルの下で、クロエへ、一瞬だけ強い光を放った。──黙ってろ。今は、それ以上、動くな。
少女は、皿の破片を拾いきり、席を辞した。それ以上、声は震わせなかった。震わせなかったが、拾い集めた手の中で、破片の縁が、白手袋を薄く裂いていたことに、彼女自身も気づいていなかった。
「そういえば、これも噂だが」
議長は、葉巻の煙をゆっくりと吐いた。
「あの男、どうやら『ブリムストーン』とも、浅からぬ縁があるそうだね」
夜気が、凍った。
「へえ。そりゃ……穏やかじゃない」
「うむ、穏やかではないな」
「そういえば――」
議長は、にこりと笑う。
「君の会社の魔石は、市場の三割を占める。狂犬が噛みついてきたら大変だ。──夜道に気をつけて帰りなさい。近ごろは、物騒だから」
「……お心遣い、痛み入ります」
「なんの。君は、私の数少ない楽しみだからね」
馬車の中、主は長いこと黙っていた。
「……ご主人様。今のは」
「ん」
「偶然の世間話、でしょうか。それとも」
「クロエ」
主の声は、静かだった。
「あの人が、なぜ俺たちにガルムの名を教えたのか。……試したのか、警告したのか、それとも、けしかけたのか。今のところ、どれとも決められん」
「分からないのに、備えるのですか」
「分からんときに備えるんだよ。分かってからじゃ、遅い」
窓の外を、白い塔が遠ざかっていく。主はそれを見ずに、目を閉じていた。
――違っていてくれ、と男は胸の内で、柄にもなく祈る。あんたが本当に、ただの善い老人であってくれ。この街に一人くらい、疑わずに済む大人がいたって、罰は当たらねえだろう。
……だが、祈りと算段は、別の抽斗だ。祈りながら、手は動かす。それが、二十年、生き延びてきた男の作法である。
「爺さんの代からの教えでな。──いちばん優しい声を、いちばん疑え」
クロエは、膝の上で拳を握った。
あの方が。主を庇い続けてくれた、たったひとりの大人が。──違うと言ってほしかった。考えすぎだと、笑ってほしかった。けれど主は目を閉じたまま、それきり何も言わず、少女も何も聞けないまま、馬車はゴルモアの毒々しい光の中へと降りていった。
そして、その名。
ガルム。八年前、レンを殺した男の名を、少女は今夜、初めて他人の口から聞いた。
「……ご主人様」
「ん」
「その男を」
声が、震えた。抑えようとして、抑えきれなかった。
「その男を、追わせてください」
主は、しばらく答えなかった。
――追わせるわけには、いかん。
ヴィンセントは、窓の外を見たまま、腹の底で、もう決めていた。あの皿の割れる音を、忘れられるわけがない。あの震える手のまま、レンを殺した男の前に立たせるなど、論外だ。……だが、それを今、正面から告げれば、この娘は、きっと大人しくは頷かない。
「……ん」
それだけを返し、主は、それ以上、何も言わなかった。約束でも、拒絶でもない、ただの相槌。少女は、それを、どちらの意味に取ればいいのか分からないまま、俯いた。
馬車の車輪が、石畳を鳴らし続けた。霧の向こうで、ゴルモアの夜は、もうひとつ、新しい顔を見せ始めていた。
翌日、灰路地の酒場は、いつもと違う熱気に沸いていた。
「聞いたか、聞いたか! 狂犬野郎の祭りだよ!」
「もう五人目だってな! 伯爵から靴磨きのガキまで、見境なしにやってるらしいぜ!」
「署名入りだってよ! 自分の名前、堂々と壁に彫っていくんだと!」
「粋だねえ、ちゃんと名乗る殺しは! どっかの臆病者の天の火とは大違いだ!」
どっと、下卑た笑い声が上がる。
この連中は、いつもは「旦那ぁ」と、腹の底から慕ってくれる人たちだ。困りごとには親身になり、借りには律儀に返し、酒場が丸ごと、ひとつの家族のような温かさを持っている。その同じ口が、今は見ず知らずの死者の数を、酒の肴にして笑っている。
この街は、いつもそうだ。人の心の、表と裏に、境目がない。慕う声と、囃す声が、同じ喉から出る。
「旦那ぁ、いつもの」
ヴィンセントは、いつもどおり酒場の中央に陣取り、へらへらと杯を傾けていた。だが、その目の底には、いつもの温度がない。




