恩人の警告
ドミニクの件から、十日。
その招待状は、七芒の紋章入りの封蝋で届いた。アルトリウス議長、私邸での晩餐。宛名はヴィンセント・アシュレイ様。「執事どのもぜひご一緒に」と、流麗な手蹟の添え書きがある。
「……私も、ですか」
「珍しいな。ま、行くさ。恩人の招きだ」
「お断りする理由も、ありませんし」
「ないな。……ないんだよなあ」
「? 何か仰いましたか」
「いや。燕尾服、上等なほうにしとけ」
軽く応じながら、しかしヴィンセントの腹の底では、静かに一枚、駒が動いていた。──執事まで名指しで呼ぶ、か。人のいちばん大事なものを、わざわざ手元に呼び寄せてみせる。善意なら、ただの気遣いだ。そうでないなら、これは。……いや、まだ決めるな。決めれば、目が曇る。
議長の私邸は、丘の上の白い塔だった。ゴルモアの毒々しい魔力灯の海を見下ろす、そこだけ別世界のように清潔な白である。
晩餐は、穏やかに進んだ。
「執事どのは、菓子は好きかね」
「……恐れ入ります。職務中ですので」
「はは。硬いな。ヴィンセント君、君の執事どのは硬い」
「うちのは氷でできてるらしいので」
「余計なことを申し上げますと、ご主人様、明朝の水の温度が下がります」
「ほら硬い。……議長、聞きました? これ、脅迫ですよ」
「はっはっは。良い主従だ」
議長は主の会社の話を聞き、先代の思い出を語り、クロエにまで菓子を勧めてくれた。孫を見る目、というのは、ああいう目を言うのだろう。少女はそう思いながら、しかしどこかで、その温かさに身を硬くしている自分に気づいていた。
その目のまま、議長は言った。
「時にヴィンセント君。近ごろ巷を騒がせる『天の火』を、君はどう思うかね」
給仕の手が、止まりそうになる。クロエの手だ。彼女はかろうじて、盆の傾きを抑えた。
「ブリムストーン、ですか。物騒な話で」
主はワインを揺らしながら、へらりと笑った。
「騎士団が捕まえてくれるのを祈るばかりです。ほら、うちは警備費がかさむと、株主がうるさいので」
「はっはっは。君らしい。……では、問いを変えよう。あれは、悪かね」
「悪党を吊るしてるんだから、善……なんですかね。よく分からんですが」
「分からんか」
「ええ。俺は善悪より、酒の善し悪しのほうが」
「私はね、あれを憂えているのだよ」
議長は、ふと窓の外へ目をやった。
「悪だからではない。……小さいからだ」
「小さい?」
「裁きとは、本来もっと――大きく、あるべきだ」
「大きく、というと」
「一人ずつ吊るしたところで、この街の腐敗は追いつかん。ゴルモアを浄めるには、ゴルモアの全てを焼き尽くす火が要だろう」
「……はぁ」
「……ああ、いや、老人の説教だ。忘れてくれたまえ」
「街ごと、ですか。そりゃ、消防が大変だ」
「はっはっは。君らしい」
穏やかな声だった。慈愛に満ちた、いつもの声だった。
なのにクロエは、給仕盆を持つ指先が冷えていくのを感じる。あの日、午餐会で覚えた違和感が、いま、輪郭を持って戻ってきた。綺麗すぎる、と思ったあの感覚が。
――そら来た。
ヴィンセントは笑顔の裏で、ぞっと総毛立つのを、ワインの渋みでねじ伏せた。今のは踏み込みだ。「天の火をどう思う」と正面から訊いておいて、返しの温度を測っている。
そして「大きな火」ときた。番号で呼ばれた子供を焼く火と、街ごと焼く火は、地続きなのか。──嫌な符合だ。嫌なほど、俺の勘に沿いやがる。
食後、給仕が下がり、老魔導士が葉巻に火を移したところで、議長は、思い出したように言葉を継いだ。
「そういえば――君は、近ごろの物騒な噂を聞いているかね」
「物騒、といいますと」
「ここひと月ほど、街のあちこちで人が死んでいる。物乞いから、豪商まで。身分も財布の中身も問わず、無差別にね。……そして、いずれの現場にも、同じ署名が残されているそうだ」
クロエの手にした盆が、かたり、と小さく鳴った。
「署名――」
「手配書が回っているだろう。私も見た。……ガルム、といったかな。義手の傭兵だ。二十年前、隣国の戦で名を上げ、勲章を山ほど貰いながら、やがて称賛を失い、金で殺しを請け負うようになった男だと聞く」
その名を、少女は知っていた。
任務記録の最後の頁。「狂犬」と呼ばれる傭兵。八年前、父を殺した男。名前までは、今の今まで、知らずにいた。知らずにいた名前が、こんな場所で、こんな穏やかな声から、不意打ちのように降ってきた。
「――ッ」
磁器の皿が、盆から滑り落ちた。
割れる音が、静かな食堂に、やけに大きく響く。




