化け物と呼ばれて
屋根の上の影は、動かなかった。
ただ、静かに片膝をついて――逃げていく馬車と、同じ高さまで、目線を下げた。
――ああ、それでいい。
黒鉄の面の下で、ヴィンセントは思う。怖がれ。俺みたいなものは、怖いに決まってる。人を吊るし、人を裁き、朝には涎を垂らして寝ている化け物だ。お前のその目は、正しい。だから、忘れろ。
俺のことも、この夜のことも、番号だった自分のことも、ぜんぶ忘れて――名前で呼ばれる場所へ、帰れ。達者でな、ネリ。十二歳。……これで、いい。これで、いいんだ。
黒鉄の面の下で、主の唇が、確かに何かを呟いた。
だがクロエは、それを拾わなかった。拾える距離にいながら、あえて回線の感度を落としたのだ。あれは、誰かに聞かせる言葉ではない。あの人が、怯えられるたびに、たったひとりで自分へ言い聞かせている何かだ。それを盗み聞く権利は、執事にもない。
――ただ、少女には分かっていた。あの背中が、いま、この夜いちばん重いものを背負っていることだけは。
§ § §
翌朝の新聞は、お祭りだった。
『魔導騎士団、大手柄! 人身売買組織を一斉摘発!』
『ベルナール卿率いる第三隊、闇の帝王ドミニクの牙城を陥落せしむ!』
一面には、勲章を光らせた騎士団長が、押収した帳簿の山の前で胸を張っている。もちろんその帳簿は、昨夜のうちに主が「置いてきて差し上げた」ものだ。取引台帳の、いちばん危険な数枚だけを、そっと抜いて。
「……第三隊は昨夜、港湾区に一歩も入っておりません。到着したのは、すべてが終わった、三時間後です」
「そうか。えらく足の速い手柄だな」
「足が速いのは伝令だけです。摘発の一報から、記者への触れ込みまで、僅か半刻でした」
「準備がいいねえ。うちの会社に欲しいよ、その広報」
「感心なさっている場合ですか」
ヴィンセントは朝のソファに寝そべったまま、新聞を天井にかざして眺めていた。今朝は珍しく、水をかけられる前に起きている。もっとも、起きていただけで、着替えてはいない。相変わらず、こめかみの白いものと無精髭が、朝の光にだらしなく晒されていた。
「悔しく、ないのですか」
「んー?」
「あなたが三日かけて結界を解き、あなたが子供たちを助け出し、あなたが……あなたが全部やったのに。手柄は騎士団、あなたは今朝も穀潰し。挙句、助けた子にまで――」
化け物と呼ばれて。
その一言だけは、クロエは飲み込んだ。飲み込んだのに、主は新聞をぱさりと下ろして、こちらを見た。なんでも見抜く目だ。まったく、嫌になる。
「クロエ。ゆうべの嬢ちゃんな」
「……ネリ、ですか」
「あれでいい」
「――どこがですか!!」
声が、跳ねた。
「あの子は、あなたに助けられたのに! 泣いて、怯えて、化け物なんて――あんまりです。せめて真実を知れば、あの子だって」
「真実を知ったら、あの嬢ちゃんは一生、俺に借りを感じて生きることになる」
「借りの、何が悪いのですか」
「重いんだよ、命の借りってのは」
「軽々しく忘れられるよりましです」
「ましじゃない」
主の声は、静かなままだった。
「化け物に攫われかけて、化け物に助けられた。わけが分からんうちに全部終わって、あとには毛布と朝メシだけが残ってた。……それでいいのさ。子供の借金取りは、朝メシの向こうにいちゃいけない」
「…………」
――そうとも、とヴィンセントは胸の内で頷く。
恩なんてものを、子供の背中に括りつけるな。恩は鎖だ。俺に助けられたと知れば、あの気の強い子は、いつか俺のために無茶をする。レンがそうだった。俺のために、俺を庇って、あの雨の夜に。
……もう、たくさんだ。守った子に、守り返される夜は。だから化け物でいい。忘れられる化け物が、いちばん都合がいいんだ。──もっとも、この理屈を最後まで言葉にする気は、ない。
言えば、隣の小さな執事が、また泣きそうな顔をする。
「それに、だ。怯えるってのはな、クロエ」
主はにやりと笑って、新聞の騎士団長を指で弾いた。
「まっとうな感性だ。ゆうべの俺は、怯えられて当然のことをした。あの子の目は、正しい。――正しい目をした子が、十九人、明日から朝メシを食える。上等な夜だったろ」
「…………十一人、です」
「ん?」
「朝食を食べられるのは、十一人です。八人は、もう」
「――ああ」
主は、目を閉じた。
「……そうだな。八人ぶんは、俺の帳簿につけとく」
「あなたの帳簿は、いつか黒字になるのですか」
「さあな。赤字のまま畳むのが、この稼業の相場だ」
クロエは、何も言い返せなかった。
言い返せない代わりに、盆の上の目覚まし用の水差しを、静かに持ち上げる。
「おい待てクロエ、俺は今朝ちゃんと起きて――ぶはっ!?」
「起きていても、その理屈は腹が立ちましたので」
「理不尽!?」
「理不尽は、あなたの帳簿のつけ方です。八人ぶんも、赤字のままの畳み方も、ぜんぶ」
「……お前なあ」
「業務外の一杯です。減俸されても、悔いはありません」
――びしょ濡れの穀潰しが、ソファの上で笑っている。
昨夜、雨の屋根で片膝をついていた背中と、同じ人が。この人の背負い方は、いつもこうだ。誰にも見えない場所で背負って、見える場所では、笑ってみせる。
そしてクロエは知っていた。
抜き取られた台帳の数枚――あの「いちばん危険な客の名簿」の行き先を、主がまだ、誰にも言っていないことを。地下の作戦室で、その数枚だけが、鍵のかかる抽斗に眠っている。
ドミニクの上に、誰かがいる。ゴルモアの腐敗の、もっとずっと高いところに。
主は、もうその影を数え始めている。――そしてその影が、この街でもっとも美しい声をして笑う男であることを、二人はまだ、口に出せずにいるのである。




