雨の夜、二人の時間
一息に言った。一息に言ってしまわなければ、声が揺れそうだった。
『ん』
「残る六人の名前も、明日までに。必ず」
『……クロエ』
「はい」
『上出来だ』
短い言葉が、通信の向こうから落ちてきた。それきり、回線は静かになった。
――ネリ、と管制卓のヴィンセントは胸の内で繰り返す。
毎晩三回、か。誰に教わったわけでもなかろうに、この歳で、名前の削られ方と守り方を知っていやがる。……気の強い子は、助かったあとが長いんだ。頼むから、迎えが着くまで、折れてくれるなよ。
帰り道、クロエは一度だけ足を止めて、夜空を見上げた。
霧の向こうに、月はない。あの子は今夜も、水の減った暗がりで、自分の名前を三回唱えるのだろう。
彼女は襟を正し、歩き出した。執事の顔で、小僧の歩幅で。胸の内の帳面に、たしかに一行、書き加えて。
――ネリ。十二歳。迎えに行く名前が、ひとつ。
三日後、雨の夜。
クロエは管制卓の前で、白手袋を嵌め直した。卓上には三日ぶんの成果が広がっている。結界の構造式。見張りの交代表。搬出路の図面。そして――七つの、名前。
赤毛の少女は、ネリといった。番号ではなく、ネリ。十二歳。残る六つの名前も、三日かけて、すべて聞き出してある。
「時刻、二十二時。搬出馬車の到着まで、四十分です」
『ん』
「結界は三重。外周の警報式、中層の対侵入式、そして帳場を守る最奥の障壁式。……三十秒ください。外の二枚は、私が黙らせます」
『二十五秒でやれ』
「では二十秒で」
『……その返しは、誰に習った』
「祖父の帳面に。『主の無茶な注文には、上乗せで返す。黙らせるには、それがいちばん早い』と」
『あの爺……墓に文句を言いに行くぞ』
「お供します。ついでに墓前へ、あなたの健診の数値もご報告しましょう」
『それは供えるな』
指を、回線に走らせる。
祖父仕込みの解析術式が、倉庫を包む警報の網を撫でていく。網の目をひとつずつ、眠らせていった。破るのではない。破れば気づかれる。網に「何も起きていない」と思い込ませるのだ。魔力の指先で施す、精密な子守唄である。
「――十八秒。外周・中層、沈黙しました。お帰りの道も、お掃除済みです」
『上出来だ』
「二十秒を切りましたので、ベーコンの査定に加点を要求します」
『交渉は帰ってからだ』
雨音に紛れて、影が跳んだ。
水晶球の中、倉庫の壁面を黒い流線が駆け上がる。魔導ワイヤーが梁を捉え、巻き上げ機構が唸り、大きな体が明かり取りの窓へと吸い込まれていく。半拍の遅れは、今夜はない。
雨に濡れた壁を、男は歯を食いしばって登りきった。──こういう夜のために、朝の膝の悲鳴は黙って飲んでおくのだ、と胸の内でひとりごちながら。
ここからは、二人の時間だった。
「見張り、通路Aに二。手前が魔導薬で酩酊状態、奥は素面です」
『ん』
ワイヤーが二度、囁いた。二つの影が、声もなく床に沈む。
「右手の扉の先、賭場。八名。全員武装していますが、卓に夢中です」
『通るだけだ』
黒衣が賭場の天井裏を、埃ひとつ落とさず渡っていく。真下では男たちが札を叩きつけて笑っていた。自分たちの頭上を死神が通過したことを、彼らは一生知らずに終わるのだろう。
「その先、倉庫本室。――檻が、あります」
『見えてる』
主の声が、半音だけ低くなった。
水晶球の隅で、赤毛の少女が立ち上がるのが見えた。天井から音もなく降りてきた黒ずくめの怪人を、ネリは真っ向から睨みつけ――両腕を広げて、子供たちの前に立ちはだかる。
ああ、ほら。やっぱりあなたは、そうする子だ。そうクロエは、胸を締めつけられる思いで見つめた。
――嬢ちゃん。そういうとこだよ。
黒鉄の面の下で、ヴィンセントも同じものを見ていた。刃の前に立つ子供。守るものが自分より小さいと知った瞬間に、恐怖より前に体が動く子。かつて、そういう男を一人、知っている。
赤銅色の髪をした、人の好い男だった。──だから、こういう子を、化け物は特に丁寧に扱わねばならない。
『……嬢ちゃん』
面の下から、くぐもった声がした。
『三分だけ、目と耳を塞いでてくれ。ここから先は、子供の見るもんじゃない』
「だ、誰――」
『ただの、掃除屋だ』
「そうじ、や……? あんた、まさか、あたしらを――」
『買いには来てない。それだけは、確かだ』
「……信じると、思う?」
『思わんね。賢い証拠だ』
言って、主は懐から小さな護符を檻の錠前に貼った。少女の組んだ解錠式が走り、錠が、かたりと落ちる。
『開けたが、まだ出るな。迎えが来る。……いい迎えだ。安心しろ』
「あんたは……どこへ行くのさ」
『掃除の、仕上げだ』




