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無能な三代目当主は二つの貌を持つ。 ―13歳の少女執事だけが、それを知っている。  作者: カクナノゾム


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雨の夜、二人の時間

 一息に言った。一息に言ってしまわなければ、声が揺れそうだった。


『ん』


「残る六人の名前も、明日までに。必ず」


『……クロエ』


「はい」


『上出来だ』


 短い言葉が、通信の向こうから落ちてきた。それきり、回線は静かになった。


 ――ネリ、と管制卓のヴィンセントは胸の内で繰り返す。

 毎晩三回、か。誰に教わったわけでもなかろうに、この歳で、名前の削られ方と守り方を知っていやがる。……気の強い子は、助かったあとが長いんだ。頼むから、迎えが着くまで、折れてくれるなよ。


 帰り道、クロエは一度だけ足を止めて、夜空を見上げた。

 霧の向こうに、月はない。あの子は今夜も、水の減った暗がりで、自分の名前を三回唱えるのだろう。


 彼女は襟を正し、歩き出した。執事の顔で、小僧の歩幅で。胸の内の帳面に、たしかに一行、書き加えて。


 ――ネリ。十二歳。迎えに行く名前が、ひとつ。


 三日後、雨の夜。

 クロエは管制卓の前で、白手袋を嵌め直した。卓上には三日ぶんの成果が広がっている。結界の構造式。見張りの交代表。搬出路の図面。そして――七つの、名前。


 赤毛の少女は、ネリといった。番号ではなく、ネリ。十二歳。残る六つの名前も、三日かけて、すべて聞き出してある。


「時刻、二十二時。搬出馬車の到着まで、四十分です」


『ん』


「結界は三重。外周の警報式、中層の対侵入式、そして帳場を守る最奥の障壁式。……三十秒ください。外の二枚は、私が黙らせます」


『二十五秒でやれ』


「では二十秒で」


『……その返しは、誰に習った』


「祖父の帳面に。『主の無茶な注文には、上乗せで返す。黙らせるには、それがいちばん早い』と」


『あの爺……墓に文句を言いに行くぞ』


「お供します。ついでに墓前へ、あなたの健診の数値もご報告しましょう」


『それは供えるな』


 指を、回線に走らせる。

 祖父仕込みの解析術式が、倉庫を包む警報の網を撫でていく。網の目をひとつずつ、眠らせていった。破るのではない。破れば気づかれる。網に「何も起きていない」と思い込ませるのだ。魔力の指先で施す、精密な子守唄である。


「――十八秒。外周・中層、沈黙しました。お帰りの道も、お掃除済みです」


『上出来だ』


「二十秒を切りましたので、ベーコンの査定に加点を要求します」


『交渉は帰ってからだ』


 雨音に紛れて、影が跳んだ。

 水晶球の中、倉庫の壁面を黒い流線が駆け上がる。魔導ワイヤーが梁を捉え、巻き上げ機構が唸り、大きな体が明かり取りの窓へと吸い込まれていく。半拍の遅れは、今夜はない。


 雨に濡れた壁を、男は歯を食いしばって登りきった。──こういう夜のために、朝の膝の悲鳴は黙って飲んでおくのだ、と胸の内でひとりごちながら。


 ここからは、二人の時間だった。


「見張り、通路Aに二。手前が魔導薬で酩酊状態、奥は素面です」


『ん』


 ワイヤーが二度、囁いた。二つの影が、声もなく床に沈む。


「右手の扉の先、賭場。八名。全員武装していますが、卓に夢中です」


『通るだけだ』


 黒衣が賭場の天井裏を、埃ひとつ落とさず渡っていく。真下では男たちが札を叩きつけて笑っていた。自分たちの頭上を死神が通過したことを、彼らは一生知らずに終わるのだろう。


「その先、倉庫本室。――檻が、あります」


『見えてる』


 主の声が、半音だけ低くなった。


 水晶球の隅で、赤毛の少女が立ち上がるのが見えた。天井から音もなく降りてきた黒ずくめの怪人を、ネリは真っ向から睨みつけ――両腕を広げて、子供たちの前に立ちはだかる。


 ああ、ほら。やっぱりあなたは、そうする子だ。そうクロエは、胸を締めつけられる思いで見つめた。


 ――嬢ちゃん。そういうとこだよ。

 黒鉄の面の下で、ヴィンセントも同じものを見ていた。刃の前に立つ子供。守るものが自分より小さいと知った瞬間に、恐怖より前に体が動く子。かつて、そういう男を一人、知っている。


 赤銅色の髪をした、人の好い男だった。──だから、こういう子を、化け物は特に丁寧に扱わねばならない。


『……嬢ちゃん』


 面の下から、くぐもった声がした。


『三分だけ、目と耳を塞いでてくれ。ここから先は、子供の見るもんじゃない』


「だ、誰――」


『ただの、掃除屋だ』


「そうじ、や……? あんた、まさか、あたしらを――」


『買いには来てない。それだけは、確かだ』


「……信じると、思う?」


『思わんね。賢い証拠だ』


 言って、主は懐から小さな護符を檻の錠前に貼った。少女の組んだ解錠式が走り、錠が、かたりと落ちる。


『開けたが、まだ出るな。迎えが来る。……いい迎えだ。安心しろ』


「あんたは……どこへ行くのさ」


『掃除の、仕上げだ』

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