水番のネリ
主は、怒らなかった。
『クロエ』
「……はい」
『名前は、聞けそうか』
「え?」
『三日後、読む名前が「四十一番」じゃ、話にならないだろう』
――ああ、と少女は思う。
この人は、もう決めているのだ。三日後、あの帳場で何が起きるかを。そして、誰の名前を読み上げるのかを。
「……必ず。必ず、聞いて参ります」
『ん。それと』
「はい」
『そのガキ、見込みがあるな。舌がなくても噛みつくとさ。……どこかの執事みたいだ』
「私は主人に噛みついたりしません」
『毎朝、水ぶっかけてるだろ』
「あれは業務です」
『世間じゃそれを噛みつくと言う』
「世間はあなたを穀潰しと言います。世間の基準は当てになりません」
『……お前、今日、切れ味増してないか』
「砥いでまいりましたので」
――減らず口を叩き合いながら、男は胸の内で、そっと一人ぶんの席を空ける。四十一番。名前を聞き出したら、その番号は捨てる。捨てて、名前で呼ぶ。それが、この稼業の唯一の作法である。
帰り道、霧の倉庫街を歩きながら、クロエは一度だけ振り返った。
第七倉庫の高い明かり取りの窓に、毒々しい魔力灯の光が滲んでいる。あの光の下で、赤毛の少女は今夜も、格子の前に座っているのだろう。
待っていてほしい、と少女は思った。
この街には、あなたの知らない火がある。番号を、名前に戻すためだけに燃える、天の火が。──それが自分の主であることを、この夜のクロエは、まだ誇らしく思っていた。やがてその火が、助けた当人にどう映るのかを、彼女はまだ知らない。
水番は、誰もやりたがらない仕事だった。
重い桶を提げて倉庫じゅうを回り、見張りには小突かれ、駄賃は出ない。だから下働きの小僧がおずおずと手を挙げても、誰ひとり怪しまなかった。頭数の勘定にも入らない、いちばん軽い雑用である。
――そして、その雑用だけが、堂々と檻に近づける。
潜入二日目。クロエは水桶を提げて、倉庫の奥へと歩いていった。
『……いいか、水を配るだけだ。それ以上は』
「配るだけです。三度目ですが」
『三度言わせるやつは、大抵――』
「大抵やらかすのは、二回の方だと伺いました。三度目は念押しと申します」
『……口の減らん水番だ』
通信環の声を、襟の中へ押し込む。檻の前に立つと、七対の目が、いっせいにこちらを向いた。
「水だ。……並んで」
小僧の声色で、ぶっきらぼうに言う。子供たちがのろのろと格子に寄ってくる中で、赤毛の少女だけは動かなかった。奥の壁を背に、値踏みする目で、じっとこちらを見ている。四十一番。帳簿に「減水、躾」と書かれた子だ。
「……あんた、新入りだろ」
「だったら」
「気をつけな。ここの連中、顔のいいのから番号をつける」
柄杓を持つ手が、一瞬だけ止まった。
――この子は、檻の中から、外にいる者の心配をしている。
「あたしのはいい。そっちのちびから」
「順番だ」
「ちびからだって」
「……そっちが決めるな」
言い返しながら、クロエは列のいちばん後ろの、いちばん小さい子から水を注いだ。赤毛の少女はそれを見て、ほんのわずかに目元を緩め、すぐに消した。
最後に、彼女の番が来た。クロエは柄杓に、規定より深く水を汲む。
「多い」
「零れただけだ」
「……見張りに見つかると、あんたが折檻されるよ」
「零れたものは、仕方がない」
少女は黙って、椀を受け取った。受け取って、口をつける前に、隣のちびの椀へ半分を移した。
水晶球越しに見たとおりの子だった。近くで見ると、なお質が悪い。手首は細く、唇は乾いて割れているのに、目だけが、少しも折れていない。
「なあ」
椀を返しながら、少女が言った。
「あんた、名前は」
「……こっちが聞きたい。あんたの名前は」
「聞いて、どうすんのさ」
「番号で呼びたくない。それだけだ」
少女の目が、細くなった。長いこと、クロエの顔を見ていた。嘘を探す目だ。この歳で、嘘の探し方を知っている目だった。
「……ネリ」
やがて、ぽつりと言った。
「ネリだ。四十一番じゃない。ネリ。……毎晩三回、唱えてる。忘れたら、ほんとうに番号になっちまうから」
「ネリ」
「そう」
「いい名前だ」
「知ってる」
少女はふんと鼻を鳴らして、壁際の定位置へ戻っていった。戻りながら、思い出したように振り向く。
「水、ありがとな。……零れたぶん」
§ § §
倉庫を出て、路地を三つ折れたところで、クロエは襟の通信環を戻した。
『――聞けたか』
「ネリ。……ネリ、です。十二歳。毎晩三回、自分の名前を唱えて、番号になるまいとしています。配給の水を半分、小さい子に回しています。躾と称して、減らされた水を」




