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義姉に告白したら、引っ越すまでの七日間は「いつもどおり」でいてと言われた  作者: 澄野 朔


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第4話 好きなのに、選べない

 土曜日の朝、姉ちゃんの部屋から家具を動かす音が聞こえてきた。


 まだ八時を少し過ぎたところだった。朝食を終えて自分の部屋へ戻ったばかりの俺は、机に置いた大学の課題をそのままにして廊下へ出た。


 姉ちゃんの部屋の扉は開いている。覗いてみると、姉ちゃんが本棚を壁から離そうとしていた。中身はすでに箱へ収められ、棚板も何枚か外されている。それでも家具そのものは重いらしく、姉ちゃんが力を込めても、床の上をわずかに動くだけだった。


「何やってんの。呼べばいいのに」


「起きてたんだ。昨日、遅くまで明かりついてたから、まだ寝てるかと思って」


「起きてるよ。そっち持って」


 俺が反対側に回ると、姉ちゃんは素直に頷いた。二人で棚を少し持ち上げ、脚の下に古いタオルを挟んでから壁から離す。


 六年間置かれていた本棚の裏には埃が溜まり、壁紙もそこだけ色が違っていた。姉ちゃんが掃除機を取りに行っている間に背面を確認すると、棚板だけでなく側面の板も外せる構造になっている。このままでは部屋の扉を通らないので、運び出す前に分解した方がよさそうだった。


 姉ちゃんは引っ越し先でもこの本棚を使うつもりらしい。工具箱を持って戻ってくると、俺の隣にしゃがみ、外したネジを入れるための小袋を並べ始めた。


 作業自体は難しくなかったが、金具の種類が思ったより多かった。棚板を支えるネジは似た形でも長さが違い、側面の板には取り付ける向きがある。何も考えず外してしまうと、組み立て直すときに苦労しそうだった。


「これ、上の段のやつだっけ」


 姉ちゃんが手のひらに載せたネジを見せてきた。俺はドライバーを置き、取り外した板の穴と見比べた。


「下の段。上はもう少し短いやつ」


「よく分かるね。私、全部同じに見えるんだけど」


「姉ちゃん、最初から分けるつもりなかっただろ」


「失礼な。ちゃんと袋用意したでしょ」


 袋だけでは足りないと思ったので、俺は金具を種類ごとに分け、取り付け位置を書き込んだ。組み立てる順番も紙に残し、側面の板を外す前にスマホで写真を撮っておく。


 姉ちゃんはしばらく俺の作業を眺めていたが、やがて自分もペンを取り、袋に番号を書き始めた。


「ここまでしておけば、向こうでも迷わないと思う」


 撮影した写真を見せると、姉ちゃんは画面を覗き込んだ。肩が触れるほど近くに顔を寄せたあと、何かに気づいたように少し体を離した。


「……向こうでも、か」


「ん?」


「ううん。何でもない。続きやろっか」


 姉ちゃんは外した棚板を壁際へ運び、古いタオルを挟んで立てかけた。


 昨日、姉ちゃんは恋人になって別れることが怖いと話してくれた。


 俺は結局、何も答えられなかった。昨夜、自分の部屋へ戻ってからも考え続けたが、思いつくのは絶対に別れないとか、ずっと一緒にいるとか、そんな約束ばかりだった。


 言えば姉ちゃんを安心させられるのかもしれない。けれど、父とお義母さんの離婚が決まった今、その言葉を簡単に口にする気にはなれなかった。


 俺が黙って金具を外していると、姉ちゃんが隣から手を伸ばし、ぐらついていた板を支えてくれた。礼を言うと、姉ちゃんはいつものように「どういたしまして」と返してきた。


 その声が普段と変わらなかったので、俺も作業を続けた。


     ◇


 昼前には、本棚をすべて分解し終えた。


 側面の板を一枚ずつ布で包み、まとめて紐を掛ける。外した金具と組み立て方を書いた紙は、引っ越し先ですぐに取り出せるよう、別の小箱へ収めた。


 部屋の壁際には、何も置かれていない空間が広がっていた。


 姉ちゃんは本棚があった場所をしばらく眺め、それから壁紙に残った四角い跡を指でなぞった。


「ここ、ずっと本棚あったからね。何か変な感じ」


「最初に引っ越してきたときも、こんな感じだったんだろ」


「そうそう。あのときはお母さんと二人で組み立てたんだよ。途中で向きを間違えて、結局お父さんに直してもらったんだけど」


「俺は?」


「あんたは自分の部屋でゲームしてた」


 姉ちゃんが笑った。


 六年前、父が再婚したばかりの頃だ。知らない大人が家にいることにも、二つ年上の女の子が隣の部屋を使うことにも慣れていなかった。


 姉ちゃんが引っ越してきた日、何を話したかはほとんど覚えていない。廊下に段ボール箱が並び、父とお義母さんが家具を運ぶ音を聞きながら、自分の部屋にいたことだけは覚えている。


 あのとき運び込まれた本棚を、今は俺たちが二人で片付けている。


 姉ちゃんは壁から手を離し、まとめた板の方へ向き直った。


「これ、ちゃんと組み立てられるかな」


「順番は書いたし、大丈夫だと思う。分からなくなったら写真見ればいいよ」


「……うん」


 姉ちゃんは頷いたものの、板を運ぼうとはしなかった。


 俺が紐の緩みを確かめている間も、横に立ったまま、何か考えているようだった。声をかけようか迷ったが、姉ちゃんはすぐに床の木くずを拾い始めたので、そのままにした。


 昼食を挟み、午後は机の中身を片付けた。


 大学のプリントや文房具、使いかけのノートが次々に出てくる。姉ちゃんは残すものを自分で選び、俺は不要になった紙をまとめたり、箱を組み立てたりした。昨日までに荷造りはほとんど終わっていたはずなのに、最後まで使うものが意外に多い。


 スマホの充電器はまだ必要だし、化粧品も明日の朝までしまえない。姉ちゃんは荷物を入れては取り出し、そのたびに箱の置き場所を変えていた。


 以前なら、こういう作業は姉ちゃんの方が得意だった。片付ける順番を決め、俺に指示を出し、手が空けばさっさと次の仕事を始める。ところが今日は、俺が別の箱を運んでいると、姉ちゃんはその作業が終わるまで待っていることがあった。


 机の引き出しを外すときもそうだった。


 姉ちゃんは引き出しの両側を持っていたが、俺が近づくと手を止めた。一人でも外せそうだったので、俺は反対側に回って支えた。


「こっち、少し持ち上げて」


 姉ちゃんが引き出しを引くと、奥の金具が外れ、思ったより簡単に抜けた。


 俺が受け取って床へ置く間、姉ちゃんは空になった机を覗き込んでいた。


「もう一個ある?」


「……ううん。これで終わり」


 そう言ったあとも、姉ちゃんはしばらく引き出しのあった場所を見ていた。


 俺はその様子を不思議に思ったが、引っ越しの前日なのだから落ち着かないのも当然かもしれない。何か話したいことがあるなら、姉ちゃんの方から言うだろう。


 そう考え、外した引き出しを箱へ収めた。


 午後三時を過ぎた頃、父が廊下を通りかかった。


 明日の朝は引っ越し業者が来るので、玄関までの通路を空けておいてほしいという。俺は姉ちゃんと一緒に箱を移動させ、重いものを運び出しやすい位置へ並べ直した。


 父とお義母さんは、荷物の運搬や明日の予定について、必要な話を普通にしていた。離婚が決まってからも、そういうところは以前と変わらない。父が家具の寸法を確認し、お義母さんがメモを取る。長く一緒に暮らしてきた二人らしい、無駄のないやり取りだった。


 ただ、二人が話しているのは、これから別々に暮らすための段取りだった。


 俺は廊下の箱を一つ持ち上げ、壁際へ寄せた。姉ちゃんはその横で、床に置いていた小さな袋を拾っている。


「それ、まだ使うやつ?」


「うん。明日の朝に持っていくもの」


「じゃあ、ほかの箱と混ざらないところに置いといた方がいいな」


 袋を机の上へ戻すと、姉ちゃんは俺の方を見た。


「……あんたって、結構ちゃんとしてるよね」


「今さら?」


「普段はそうでもないのに」


「褒めるなら最後まで褒めてくれよ」


 姉ちゃんは笑ったが、すぐに視線を机へ戻した。


 俺は空いた箱を畳みながら、明日のことを考えていた。引っ越しが終われば、姉ちゃんの部屋にある荷物はすべてなくなる。来週からは、こうして呼ばれることもなくなるのだろう。


 もちろん、頼まれれば手伝いに行くつもりだった。


 ただ、今までのように隣の部屋から声が聞こえ、そのまま手を貸すことはできなくなる。


 段ボールを畳み終えると、姉ちゃんが持っていた袋を受け取ってゴミ箱へ運んだ。戻ってきたとき、姉ちゃんはまだ机の前に立っていた。


「何かほかにやることある?」


「……ううん。もう大丈夫」


「じゃあ、最後に掃除しようか」


 俺が掃除機を取りに行くと、姉ちゃんは窓を開けて換気を始めた。


 六年間置かれていた家具の跡に掃除機をかけ、床を拭く。窓から入ってくる風でカーテンが揺れ、まだ外していない布の端が俺の肩へ触れた。姉ちゃんはカーテンを押さえ、俺が窓際まで掃除できるようにしてくれる。


 部屋が片付くにつれ、歩くたびに足音が少し響くようになった。


 以前は本棚があって、机があって、床には姉ちゃんが読みかけの本を積んでいた。俺が入ると足の踏み場がなく、姉ちゃんに片付けろと文句を言ったこともある。


 今日は何にもぶつからず、窓際まで歩けた。


 掃除機を止めると、姉ちゃんはカーテンから手を離した。しばらく空いた床を見渡していたが、やがて机の引き出しをもう一度開け、何も入っていないことを確かめる。


 俺はコードを巻きながら、その様子を見ていた。


「忘れ物?」


「……そういうわけじゃないんだけど」


 姉ちゃんは引き出しを閉めた。


 俺は掃除機を持ち上げ、扉の方へ向かった。もう自分にできることはなさそうだった。


「じゃあ、俺は一回戻るね。また何かあったら呼んで」


 姉ちゃんはすぐには返事をしなかった。


 振り返ると、机の横に立ったまま、こちらを見ている。目が合うと少し驚いたように瞬きをして、それからいつもの笑顔を作った。


「……うん。今日はありがとう」


「どういたしまして」


 俺は掃除機を持って廊下へ出た。


 扉を閉める前に一度だけ振り返ったが、姉ちゃんは机の方を向いていた。もう片付けるものはないはずなのに、引き出しの取っ手に手を掛けている。


 その姿が少し気になったものの、声はかけなかった。


     ◇


 夕食を終える頃には、家の中もようやく静かになった。


 廊下には運び出す箱が積まれ、居間の隅には明日使うための道具がまとめられている。父とお義母さんは食後も引っ越しの段取りを確認していたが、俺と姉ちゃんは台所で食器を片付けていた。


 俺が洗った皿を姉ちゃんが布巾で拭き、食器棚へ戻していく。


 いつもと同じ作業だった。


 ただ、今日はしまう場所を少し迷うことがあった。姉ちゃんたちが持っていく食器はすでに分けられていて、棚の中には空いた場所が目立つ。普段使っていた大きな皿も何枚かなくなり、重ねる順番を変えなければならなかった。


 姉ちゃんは拭き終わった皿を持ったまま、棚の中を見ていた。


「ここ、結構空いたね」


「そうだな」


 俺が最後のコップを洗っている間に、姉ちゃんは皿の位置を入れ替えた。高い棚へ手を伸ばすとき、いつもなら俺に頼むのに、今日は自分で背伸びをしていた。


 俺が横から受け取ろうとすると、姉ちゃんは少し迷ったあと、皿を渡してきた。


「お願い」


 言われた場所へしまうと、姉ちゃんは棚の扉を閉めた。俺は流しに残った泡を洗い流し、蛇口の水気を拭き取る。


 背後で布巾を掛ける音がした。


「……明日から、ここで皿洗いすることもないんだね」


 姉ちゃんの声は、流しへ向かったままの俺にも聞こえた。


「向こうでもするだろ」


「そうだけど。こっちの台所では、ってこと」


 振り返ると、姉ちゃんは食器棚に片手を添えていた。俺が何か言おうとすると、姉ちゃんは先に笑った。


「変な感じだね」


 俺は頷いた。


 寂しいと言えばよかったのかもしれない。


 けれど、昨日あんな話を聞いたばかりだった。俺が寂しいと言うことで、姉ちゃんに何かを選ばせてしまう気がした。


「新しい台所、使いやすいといいな」


 そう答えると、姉ちゃんはしばらく俺を見ていた。


 何か言いかけたようだったが、結局、小さく頷いただけだった。


 片付けを終えて自分の部屋へ戻ると、昼間から放置していた大学の課題が机に広がっていた。明日は引っ越しの手伝いで忙しくなるだろうし、今夜のうちに済ませておきたい。


 そう思って椅子に座ったものの、しばらくは教科書を眺めているだけだった。


 隣の部屋から、ときどき物を動かす音が聞こえる。


 もう荷造りはほとんど終わっているはずだった。それでも、引き出しを開け閉めする音や、床に何かを置く小さな音が続いていた。


 一度、手伝おうかと声をかけに行こうとした。


 しかし、昼間の姉ちゃんの様子を思い出して、やめた。


 何か話したいことがあるようにも見えたが、俺が勝手にそう思っているだけかもしれない。昨日、姉ちゃんは自分から話してくれた。今日も必要なら声をかけてくれるだろう。


 俺は課題へ目を戻し、途中まで解いていた問題の続きを書き始めた。


 廊下の電気が消え、家の中が静かになった頃、扉を叩く音がした。


「……起きてる?」


 姉ちゃんの声だった。


 俺はペンを置いて扉を開けた。


 姉ちゃんは薄いカーディガンを羽織り、髪を下ろしたまま立っていた。手には何も持っていない。いつものように何かを借りに来たわけではなさそうだった。


「ちょっと、話してもいい?」


「うん。入って」


 俺が道を空けると、姉ちゃんは部屋へ入ってきた。


 普段なら机の横から漫画を取って帰ったり、立ったまま用事を済ませたりすることが多い。けれど今日は、机の上に広げた教科書をちらりと見てから、ベッドの端に腰掛けた。


 俺は椅子を引き、姉ちゃんの方へ向けて座った。机のライトはつけたままだったが、部屋の中央までは明るくない。姉ちゃんの足元に、ベッドの影が長く伸びていた。


 話し始めるまでには、少し時間がかかった。


 姉ちゃんは膝の上で手を重ね、時折こちらを見たものの、すぐに視線を落とした。いつものように冗談で話を始めることもできず、俺も何を聞けばいいのか分からなかった。


 ようやく姉ちゃんが顔を上げたのは、廊下で父が部屋の扉を閉める音がしてからだった。


「今日さ、何回か変なこと言いそうになったんだ」


「変なこと?」


「うん。あんたに」


 姉ちゃんは少し笑ったが、すぐに口元を引き締めた。


「本棚の組み立て方、メモしてくれたでしょ。向こうでも困らないようにって」


「ああ。説明書がなかったからさ」


「うん。助かるなって思った。あれがあれば、一人でも何とかできそうだし」


 姉ちゃんはそこまで話してから、膝の上で指を組み直した。


 俺は続きを待った。


「でもね、あんたがそんなふうに準備してくれてるのを見てたら、ちょっと寂しくなっちゃって」


 予想していなかった言葉だった。


 姉ちゃんは、困ったように笑った。


「別に、手伝ってくれるのが嫌だったわけじゃないよ。むしろ嬉しかったんだけど……何だろうね。今までなら、分からなかったらあんたを呼べばいいやって思ってたから」


「向こうでも、必要なら手伝いに行くよ」


 そう言うと、姉ちゃんは首を横に振った。


「うん。それは分かってる。でも、そういうことじゃなくて」


 姉ちゃんは言葉を探しているようだった。


 ベッドの端に置いていた手を膝へ戻し、もう一度こちらを見る。今度はすぐに目を逸らさなかった。


「私、今までどおりにしてほしいって言ったでしょ」


「うん」


「それで、あんたは約束守ってくれてる。昨日も今日も、普通に手伝ってくれたし」


 姉ちゃんは少し間を置いた。


「でも、当たり前なんだけど、来週からは同じじゃないんだよね」


 窓の外を車が通り過ぎた。


 俺は姉ちゃんの言葉を聞きながら、昼間のことを思い出していた。何度も空の引き出しを確かめていたこと。俺が部屋から出ようとすると、少し遅れて返事をしたこと。


 何か言いたかったのかもしれない。


 けれど、そのときの俺には分からなかった。


「……姉ちゃん」


 呼びかけると、姉ちゃんは静かにこちらを向いた。


「俺が何か、変なことした?」


「ううん。違うよ」


 姉ちゃんはすぐに首を横に振った。


「むしろ逆。ちゃんと向こうの生活のことまで考えてくれてるんだなって思ったの。あんた、自分のことだけでも大変なはずなのに」


 そう言ってから、姉ちゃんは少し俯いた。


「それなのに私、あんたにはずっと、今までどおりでいてほしいって思ってたんだよね」


 俺は返事ができなかった。


 姉ちゃんが引っ越しても、会えなくなるわけではない。連絡だって取れるだろう。俺もそう思っていた。


 ただ、それが今までと同じなのかと言われれば、違う。


 隣の部屋から呼ばれることも、朝になれば同じ食卓に座ることも、明日で終わる。


 姉ちゃんは膝の上に置いた手を見つめていたが、やがて何かを決めたように顔を上げた。


「昨日、怖いって話したでしょ」


「うん」


「恋人になって、もし別れたらって」


 俺は黙って頷いた。


 姉ちゃんは昨日、その話を自分からしてくれた。俺にはまだ答えが見つかっていない。けれど、今夜の姉ちゃんは、俺に答えを求めているわけではなさそうだった。


「私ね、付き合うのが怖いって言いながら、あんたにはずっと、今までみたいに私のことを気にしててほしかったのかもしれない」


 姉ちゃんの声は静かだった。


「でも、そんなの勝手だよね。あんたにだって、これからの生活があるんだから」


 俺は何か言おうとした。


 勝手じゃない。俺だって、姉ちゃんと今までどおりに過ごせるなら、そうしたい。


 そう言えばよかったのかもしれない。


 けれど、今までどおりに過ごしたいだけなら、初日の夜に告白なんてしなかった。俺は姉ちゃんとの関係を変えたかったし、そのためなら家族だった時間が終わることさえ、どこかで歓迎していた。


 姉ちゃんは俺の返事を待っていたが、何も言わない俺を見て、少しだけ笑った。


「……私、ずるいよね」


「そんなことないよ」


 ようやく答えると、姉ちゃんは首を横に振った。


「ううん。ちゃんと言っておきたかったの」


 姉ちゃんはベッドの端から少しだけ体を起こした。


 さっきまで膝に置いていた手は、今はシーツの上にある。指先で布を軽く押さえながら、俺の方をまっすぐ見ていた。


「私も、あんたのことが好きなの」


 耳に入った言葉を、すぐには理解できなかった。


 姉ちゃんは目を逸らさなかった。


「弟としてだけじゃないよ」


 胸の奥が、急に熱くなった。


 何か言おうとして口を開いたが、うまく声が出てこない。ずっと聞きたかった言葉だったのに、実際に言われると、どう返せばいいのか分からなかった。


 姉ちゃんはそんな俺を見て、少しだけ笑った。いつもの余裕のある笑い方ではなく、自分もどうしていいか分からないような顔だった。


「……そんなに驚く?」


「そりゃ、驚くだろ」


 声が少し上ずった。


 姉ちゃんの方も緊張していたのか、俺が返事をすると、ようやく肩の力を抜いた。それでもベッドの端から動こうとはせず、次の言葉を探しているようだった。


「昨日の話、嘘じゃないからね」


 姉ちゃんはゆっくり続けた。


「怖いのは本当。今でも、付き合っていいのか分からない」


 俺は頷いた。


 頭では分かっていたつもりだったが、実際に好きだと言われると、やはり期待してしまう。姉ちゃんのところへ行って、手を握って、もう一度付き合ってほしいと言いたかった。


 椅子の肘掛けに置いた手へ、知らずに力が入っていた。


「……俺は、付き合いたいよ」


 それだけは、はっきり言えた。


 姉ちゃんは小さく頷いた。


「うん。知ってる」


 俺は続きを言おうとした。


 好きなら、付き合えばいい。


 ずっと一緒にいよう。


 言いたいことはいくつもあった。けれど、そのどれもが、昨日の姉ちゃんの話を聞く前から考えていたことだった。


 今ここで言えば、姉ちゃんが頷いてくれるかもしれない。


 そう思う自分もいた。


 けれど、姉ちゃんはまだ不安そうだった。


 俺が何かを言うのを待っているというより、俺がどうするのか分からずにいるように見えた。


「……ごめん」


 気づくと、そんな言葉が出ていた。


 姉ちゃんは少し驚いた顔をした。


「何で謝るの?」


「何て言ったらいいのか分かんなくて」


 俺は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。机のライトが壁を照らしていて、普段なら気にも留めない小さな傷が見えた。


 姉ちゃんから好きだと言われた。


 それだけで、こんなに嬉しいことはないはずだった。


 なのに、どうしていいのか分からない。


「俺、姉ちゃんと付き合いたいんだよ」


 もう一度そう言うと、姉ちゃんは頷いた。


「うん」


「でも、姉ちゃんが怖いって言ってるのも分かる。だから……」


 言葉が続かなかった。


 待つと言えばいいのかもしれない。


 けれど、いつまででも待てると約束できるほど、俺は自分のことを分かっていない。


 諦めると言えば、姉ちゃんは安心するのだろうか。


 そんなことも言えなかった。


 姉ちゃんはしばらく俺を見ていたが、やがて少しだけ笑った。


「私も、分かんないよ」


 その声が、いつもの姉ちゃんに少し似ていた。


「分かってたら、こんなに悩んでないもん」


 俺もつられて笑った。


 笑ったところで、何かが解決したわけではない。姉ちゃんはまだ恋人になるとは言っていないし、明日にはこの家を出ていく。


 ただ、今夜は俺だけが答えを探しているわけではなかった。


 姉ちゃんはベッドの端に座ったまま、しばらく何も言わなかった。


 俺も急かさずにいた。


 窓の外を通る車の音が遠ざかり、部屋の中には時計の秒針の音だけが残った。姉ちゃんは何度か息を吸い、何か言おうとしてはやめていたが、やがて立ち上がった。


「……そろそろ戻るね」


「うん。明日、早いしな」


 俺も椅子から立ち上がった。


 姉ちゃんが扉へ向かう間、俺は少し後ろを歩いた。狭い部屋だから、二、三歩で廊下へ出られる。いつもなら、用事を済ませた姉ちゃんが先に扉を開け、俺は机へ戻るだけだった。


 今日は、姉ちゃんが扉の前で立ち止まった。


「……明日になったら、また普段どおりに……」


 そこまで言って、姉ちゃんは黙った。


 俺は続きを待った。


 姉ちゃんは開いた扉の向こうへ目を向けた。廊下には、明日運び出す段ボール箱が並んでいる。昼間、二人で片付けた本棚の板も、傷がつかないよう布に包まれて壁際に立てかけられていた。


 姉ちゃんはしばらくその光景を見ていたが、やがてゆっくりこちらを向いた。


「……やっぱり、違う」


「姉ちゃん?」


 姉ちゃんは少し照れたように笑った。


「今日のことは、なかったことにしたくない」


 俺は姉ちゃんを見た。


 初日の夜、姉ちゃんは告白をなかったことにしてほしいと言った。


 あれから毎朝、俺たちは何も変わっていないように振る舞ってきた。


 けれど、今夜の姉ちゃんは、俺が何か答えるまで目を逸らさなかった。


「……うん」


 ようやく頷くと、姉ちゃんは小さく息を吐いた。


「ありがとう」


「別に、お礼なんて」


「ううん。言いたかったから」


 姉ちゃんはそう言って、廊下へ出た。


 俺は扉のところに立ったまま、姉ちゃんが自分の部屋へ戻るのを見ていた。明日になれば、この廊下に積まれた箱はすべてなくなる。姉ちゃんの部屋も空になる。


 廊下の途中で、姉ちゃんが振り返った。


「おやすみ」


「……おやすみ」


 姉ちゃんは少し笑って、自分の部屋へ戻っていった。


 俺はまだ扉の前に立っていた。


 向こうの扉が閉まる音がしてから、ゆっくり自分の部屋へ戻る。机の上には途中まで解いた課題が残っていて、ペンも置いたままだった。


 椅子へ腰掛け、教科書を開き直す。


 けれど、続きを書こうとしても、なかなか手が動かなかった。


 廊下の向こうでは、姉ちゃんがまだ何かを片付けているらしく、ときどき小さな物音が聞こえていた。

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