第5話 明日も、おはよう
日曜日の朝、台所には二つのマグカップが並んでいた。
俺の青いカップと、姉ちゃんの白いカップ。ほかの食器はほとんど箱に詰められ、食器棚には広い空間ができている。昨日まで四人分の皿が重なっていた場所に、今は使いかけの調味料がいくつか残っているだけだった。
「おはよう」
姉ちゃんはトースターの前に立っていた。俺が返事をすると、振り向いて笑った。
昨夜、姉ちゃんは俺を好きだと言ってくれた。
それでも、恋人になるかどうかはまだ決められない。そのことを話したあと、姉ちゃんは「今日のことは、なかったことにしたくない」と言った。
今朝、顔を合わせるまで、俺は何となく落ち着かなかった。どんなふうに話しかければいいのか、以前と同じでいいのか、考えたところで答えは出なかった。
「パン、もう焼けるよ」
「うん。ありがとう」
姉ちゃんは焼き上がったパンを皿へ移し、テーブルへ運んだ。二枚とも同じ皿に載せてから、向かいの席へ座る。俺がバターを取ろうとすると、姉ちゃんが先に容器をこちらへ寄せてくれた。
目が合う。
姉ちゃんは少し照れたように笑ったが、今朝は目を逸らさなかった。俺もそのまま受け取り、パンにバターを塗った。
「引っ越し屋さん、九時半だって。お母さんが、それまでに細かい荷物を玄関へ出しておきたいって」
「じゃあ、食べたら始めようか」
「うん。あと、廊下にある小さい箱は最後にしてね。すぐ使うものが入ってるから」
姉ちゃんはいつもの調子で予定を説明し、俺はそれを聞きながら朝食を終えた。
話し方も、食べる速さも、以前と大きく変わらない。ただ、黙っていても気まずさをごまかそうとする必要がなくなったことだけは、何となく分かった。
食器を片付けると、姉ちゃんは白いマグカップを洗った。
いつもなら水を切って食器棚へ戻すところを、今日は布巾で丁寧に拭いている。持っていく食器の箱はすでに閉じてしまったので、別の小さな手提げ袋へ収めるらしい。
「これ、割れないかな」
「タオル巻いとけば大丈夫だろ」
「じゃあ、そうしよ」
姉ちゃんは手近にあったタオルでカップを包み、袋の底へ入れた。
俺の青いマグカップは、流しの脇に残っていた。
◇
九時半を少し過ぎた頃、引っ越し業者のトラックが家の前に停まった。
そこからは、時間の流れが急に速くなった。
父とお義母さんが運び出す家具を確認し、姉ちゃんは箱の番号を見ながら、すぐ使うものと後回しでいいものを説明している。俺は廊下の箱を玄関近くへ移し、業者の人が通れるよう場所を空けた。
大きな家具は業者に任せ、俺たちは小さな荷物を運んだ。
本の箱は見た目以上に重かった。何日もかけて詰めたはずなのに、運び出す段になると、あっという間に廊下から消えていく。
写真の箱を持ち上げたとき、姉ちゃんが近づいてきた。
「それ、アルバム?」
「うん。こないだ整理したやつ」
「向こうですぐ見られるところに置きたいから、分かるようにしておいてもらっていい?」
俺は箱の側面に書かれた『写真』の文字を、業者の人からも見える向きにした。
姉ちゃんは頷き、次の荷物を確認しに行った。
俺が撮影したアルバムの画像は、すでに父にも送ってある。元の写真は姉ちゃんたちが持っていくが、この家でも見返せるようになった。
本棚の板が運び出され、机がなくなり、最後にベッドが部屋から消えた。
業者の人が床や壁を確認して出ていくと、姉ちゃんの部屋には何も残っていなかった。
俺は廊下から中を覗いた。
本棚のあった壁は、周りより少し色が薄い。机を置いていた場所には小さな傷があり、家具のなくなった床には、午後の光が窓からまっすぐ差し込んでいた。
昨日まで、この部屋には姉ちゃんの本があり、服があり、大学のプリントがあった。
必要なものを探して姉ちゃんに呼ばれたこともあれば、勝手に入るなと追い出されたこともある。昨日まで当たり前にあったものが、今日は跡だけになっていた。
「何か忘れ物?」
背後から姉ちゃんの声がした。
「いや。何にもなくなったなと思って」
「そうだね」
姉ちゃんは俺の隣へ来ると、空になった部屋を見渡した。
玄関からは業者の人たちの声が聞こえている。家の中にはまだ人が何人もいるのに、ここだけは妙に静かだった。
「六年かあ」
姉ちゃんがぽつりと言った。
「そうだな」
「最初に来たときは、こんなに長く住むと思ってなかったな」
姉ちゃんは窓の方へ歩き、閉まっていることを確かめた。もう何もすることがないはずなのに、最後にもう一度部屋を見ておきたいらしい。
俺はその背中を眺めていた。
六年前、姉ちゃんがこの家へ来たとき、俺はまともに話すことさえできなかった。それがいつの間にか、隣の部屋から声をかけられれば、何も考えずに返事をするようになっていた。
その声が聞こえなくなるのは、明日からだ。
姉ちゃんは窓から離れ、俺のところへ戻ってきた。
「行こっか。お母さん、待ってる」
「うん」
俺たちは並んで部屋を出た。
廊下に出てから、姉ちゃんが一度だけ振り返った。部屋の扉は開いたままだったが、姉ちゃんは中へ戻らず、そのまま玄関へ向かった。
◇
昼過ぎには、すべての荷物を積み終えた。
お義母さんは車の中で書類を確認し、父は引っ越し業者の人と最後の打ち合わせをしていた。姉ちゃんは玄関の靴箱をもう一度覗き、忘れ物がないことを確かめている。
俺は玄関の内側で、姉ちゃんが靴を履くのを待っていた。
何か言うなら、今かもしれない。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
昨夜、姉ちゃんは俺を好きだと言ってくれた。けれど、恋人になることはまだ選べないでいる。
このまま見送れば、次にいつ会えるのかも分からない。
靴を履き終えた姉ちゃんが、壁に手をついて立ち上がった。肩に掛けた鞄を直し、玄関の扉へ手を伸ばす。
俺は口を開きかけた。
姉ちゃんの名前を呼んで、もう一度、付き合ってほしいと言うことはできた。
けれど、昨夜の姉ちゃんは、自分でもどうすればいいか分からないと言っていた。
今日ここで返事をもらっても、姉ちゃんが不安を抱えたまま頷くのなら、それは俺が望んでいたこととは少し違う気がした。
俺は代わりに、玄関の扉を開けた。
「荷物、もう全部大丈夫?」
「うん。ありがとう。朝からいっぱい手伝ってもらっちゃった」
「いつものことだろ」
「そうだね」
姉ちゃんは笑って外へ出た。
俺も敷居のところまで歩いた。
車へ向かいかけた姉ちゃんが、途中で足を止めた。振り返って俺の顔を見ると、何か言おうとして、少し迷ったように口を閉じる。
「あのさ」
「うん?」
「引っ越してからも、会ってくれる?」
思っていなかった質問だった。
姉ちゃんは鞄の持ち手を握り直した。
「大学もあるだろうし、毎週とかじゃなくてもいいんだけど。たまには……」
「会いたいよ」
俺が答えると、姉ちゃんは言葉を止めた。
「俺も、姉ちゃんに会いたい」
少しの間、姉ちゃんは俺を見ていた。
それから、ゆっくり笑った。
「……そっか」
鞄を肩に掛け直し、今度は迷わず頷く。
「じゃあ、私から連絡するね」
「分かった」
姉ちゃんは車へ向かい、乗り込む前にもう一度振り返った。
手を振る姉ちゃんに、俺も手を上げる。
車が角を曲がって見えなくなるまで、玄関の前に立っていた。
家の中へ戻ると、廊下が広くなっていた。
玄関脇の段ボール箱がなくなり、姉ちゃんの部屋の扉も閉まっている。父は居間で書類を片付けていたが、俺が戻ってきたのを見ると、夕飯は冷蔵庫にあるもので済ませようと言った。
俺は頷いて、台所へ向かった。
青いマグカップを食器棚から取り出す。取っ手の白い傷は、いつもと同じ場所にあった。
姉ちゃんの白いマグカップが並んでいた場所は、空いていた。
夕飯は父と二人で食べた。
普段四人で囲んでいたテーブルには、皿が二人分しか並んでいない。父は明日からの仕事について話し、俺も大学のことを少し答えた。
食後、皿を洗っていると、いつものように横へ差し出しかけた手が止まった。
姉ちゃんなら、受け取った皿を布巾で拭いて、棚へ戻してくれたはずだった。
俺は水道を止め、布巾を取った。
残っていた皿を一枚ずつ拭いている間、台所では冷蔵庫の低い音だけが続いていた。
◇
月曜日の朝、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。
廊下へ出ても、隣の部屋から物音はしない。台所では父がコーヒーを淹れていて、俺が来たのを見ると、パンならまだあると言った。
朝食を済ませ、いつもの時間に大学へ向かう。
講義を受け、昼休みに友達と話し、午後は図書館で課題を片付けた。特別なことは何もない一日だった。
ただ、帰宅するときだけは少し違った。
玄関を開けても、姉ちゃんの声がしない。
リビングには父がいて、テレビを見ている。俺はただいまと言い、自分の部屋へ戻った。廊下を通るとき、隣の部屋の扉が閉まっているのが目に入った。
そこに姉ちゃんがいないことを、頭ではもう分かっていた。
夕食のあと、課題をしているとスマホが震えた。
姉ちゃんからだった。
『本棚、できたよ』
続けて写真が送られてくる。
見慣れた本棚が、知らない部屋の壁際に置かれていた。棚板はきちんと収まり、傾いた様子もない。まだ本は半分ほどしか並んでいないが、姉ちゃんがよく使う辞書や参考書は、取り出しやすい場所に収まっている。
『ちゃんとできてるじゃん』
返事を送ると、すぐに既読がついた。
『お母さんに手伝ってもらったけどね』
『メモ、すごく助かった』
『ネジは余らなかった?』
『一本も!』
俺は思わず笑った。
姉ちゃんと一緒に金具を分けた土曜日の朝を思い出す。あのときは、引っ越し先でも困らないようにと考えていた。実際に組み立てられたのなら、手間をかけた甲斐があった。
『よかったな』
そう送ると、姉ちゃんからもう一通届いた。
『うん。できたら、すぐ見せたくなっちゃった』
俺は画面を見つめた。
何か特別なことを言われたわけではない。
それでも、姉ちゃんが新しい部屋で俺のことを思い出してくれたのが、嬉しかった。
『見せてくれてありがとう』
返事を送ると、姉ちゃんから笑った顔のスタンプが届いた。
それきり会話は終わった。
俺はスマホを机へ置き、課題の続きを始めた。
しばらくして、また画面を確かめたが、新しい通知はなかった。
火曜日の夜にも、姉ちゃんから連絡が来た。
今度は水切り籠の話だった。
『この前買ったやつ、ぴったりだったよ』
新しい台所に置いたところ、流しの横へきれいに収まったらしい。大きい方を買わなくて正解だったと書いてあった。
『よかった。使いやすそう?』
『うん。こっちの台所、結構狭いけど何とかなりそう』
俺は夕飯の片付けを終えたところだった。流しのそばには、洗い終わった二人分の食器が並んでいる。
向こうでも、姉ちゃんとお義母さんが夕飯を終えた頃なのだろう。
しばらく日用品の話が続いたあと、姉ちゃんから別のメッセージが届いた。
『そっちはどう?』
『お父さんとちゃんとご飯食べてる?』
『食べてるよ。今日は俺が作った』
『え、何作ったの?』
俺は冷蔵庫に残っていた野菜で炒め物を作ったことを伝えた。姉ちゃんは味付けについて聞いてきたので、使った調味料を答える。
いつもなら、台所に立っているときに交わしていたような話だった。
途中から姉ちゃんは大学のことも聞いてきた。俺が明日の講義について答えると、姉ちゃんもゼミの課題が残っていると返してくる。
気づけば、ずいぶん長いやり取りになっていた。
最後に姉ちゃんから、
『じゃあ、そろそろ課題やるね。おやすみ』
と届いた。
『おやすみ』
俺も返事をした。
既読がつき、画面が静かになる。
姉ちゃんが向こうで何をしているのか、もう分からない。課題に取りかかったのかもしれないし、まだ片付けの続きをしているのかもしれない。
前なら、隣の部屋で明かりがついていれば、起きていることくらいは分かった。
俺はスマホを伏せ、大学の教科書を開いた。
水曜日の夜、姉ちゃんから電話があった。
夕食を終えて皿を洗っていたときだった。テーブルの上でスマホが震え、画面に姉ちゃんの名前が表示される。
手を拭いて出ると、少し間を置いてから声が聞こえた。
『……もしもし。今、大丈夫?』
「うん。ちょうど片付け終わるところ」
『そっか。よかった』
姉ちゃんはそこで一度黙った。
電話の向こうから、かすかに生活音が聞こえる。何かを置く音と、遠くで扉が閉まるような音だった。
「どうした? 何か困ったことでもあった?」
『ううん。特にないんだけど』
姉ちゃんは少し笑った。
『何か、声聞きたくなっちゃって』
俺は台所の椅子を引き、座った。
昨日までなら、何か用事があるときにはメッセージで済ませていた。電話が来るとは思っていなかったので、少し驚いた。
「俺も、声聞けて嬉しいよ」
『……そっか』
姉ちゃんは小さく息を吐いた。
それから、いつものように大学のことを聞いてきた。俺も姉ちゃんのゼミの話を聞き、向こうの家の片付けがどこまで進んだのか尋ねた。
本棚はもう使えるようになったが、衣類の箱がまだ一つ残っているらしい。
何でもない話をしているうちに、俺も少しずつ緊張が解けていった。
電話越しの姉ちゃんの声は、すぐ隣で聞いていた頃と変わらない。ときどき言葉が重なり、どちらかが笑う。会話が途切れても、以前ほど慌てて何かを話そうとはしなかった。
しばらくして、姉ちゃんが声を落とした。
『あのさ、明日って時間ある?』
「明日?」
『うん。大学終わったあとでいいんだけど』
「あるよ。午後の講義、早く終わるし」
電話の向こうで、何かを動かす音がした。
『じゃあ、会えないかな』
俺は思わず背筋を伸ばした。
『私、そっちまで行くから』
「……うん。会おう」
そう答えると、姉ちゃんは少し笑ったようだった。
『よかった。じゃあ、いつもの駅でいい?』
時間と場所を決め、電話を切った。
通話の終わった画面を見つめていると、台所の椅子が少し冷たく感じられた。
姉ちゃんが自分から、会いたいと言ってくれた。
日曜日にも連絡すると言っていたし、その約束を守ってくれたのだと思う。
ただ、さっきの声を思い出すと、今までの買い物の約束とは少し違うような気もした。
俺はスマホをテーブルへ置き、洗いかけだった最後の皿を拭いた。
◇
木曜日の午後、待ち合わせ場所へ着いたのは約束の十五分前だった。
駅前には大学帰りの学生や買い物客が行き交っている。姉ちゃんと何度も待ち合わせた改札前の柱へ向かうと、すでに見慣れた姿が立っていた。
姉ちゃんは小さな鞄を肩に掛け、改札の方を眺めていた。俺に気づくと、少し驚いたように目を見開き、それから笑った。
「早いじゃん」
「姉ちゃんこそ」
「何か、家にいても落ち着かなくて。早めに出ちゃった」
姉ちゃんは鞄の位置を直した。
四日ぶりだった。
たった四日なのに、こうして向かい合って立つのが少し不思議だった。以前なら大学の帰りに何度も会っていたし、わざわざ待ち合わせなくても、家へ帰れば顔を合わせられた。
「少し歩かない?」
姉ちゃんが駅前の通りへ目を向けた。
「いいよ」
俺たちは並んで商店街を抜け、駅から少し離れた公園へ向かった。
平日の夕方で、通りには買い物帰りの人が多かった。姉ちゃんは人の流れを避けながら、いつものように少し早足で歩いている。俺はその隣へ並び、新しい家の話を聞いた。
まだ片付いていない箱が一つあること。窓から西日が入るので、カーテンを替えたいこと。大学への通学時間が思ったより長くなったこと。
俺も父との二人暮らしについて話した。
買い物の量をまだ四人分で考えてしまうことや、夕飯を作っても少し余らせてしまうこと。姉ちゃんはそんな話を聞きながら笑っていたが、ふとした拍子に黙ることがあった。
公園へ入ると、通路の脇にあるベンチが空いていた。
姉ちゃんは先に腰を下ろし、肩から外した鞄を隣へ置いた。俺も少し間を空けて座る。背後には低い植え込みがあり、通路の向こうでは親子連れが遊具の方へ歩いていた。
夕方の風は少し冷たかった。
姉ちゃんは鞄の持ち手に触れたまま、しばらく公園を眺めていた。いつもなら会話が途切れると適当な話題を見つけてくれるのに、今日は何かを考えているようだった。
「……会えてよかった」
姉ちゃんが言った。
「俺も」
姉ちゃんは俺の方を向き、少し笑った。
それから、鞄を自分の反対側へ置き直した。俺との間にあったものがなくなり、ベンチの上に少し広い場所ができた。
「引っ越してからさ、何か変だったんだよね」
姉ちゃんはそう切り出した。
「本棚ができたときも、水切り籠を置いたときも、気づいたらあんたに話そうとしてるの。前なら、隣の部屋に行けばよかったのに」
俺は月曜日に届いた写真を思い出した。
あのとき、姉ちゃんが真っ先に見せたかったと言ってくれたことが嬉しかった。
「向こうでも普通に暮らしてるよ。お母さんとご飯食べて、大学に行って、帰ってきたら片付けして。でも、何かあると、ついあんたを探しちゃうんだよね」
姉ちゃんは少し困ったように笑った。
「昨日なんて、用事もないのに電話しちゃった」
「別に、用事なんかなくてもいいだろ」
「うん。そうなんだけど」
姉ちゃんは前を向き、しばらく黙っていた。
俺は昨日の電話を思い出していた。話しているうちにいつもの調子に戻って、気づけばずいぶん長電話になっていた。
「声を聞いたら落ち着くかなって思ったの。でも、切ったあと、余計に会いたくなっちゃって」
姉ちゃんは膝の上で指を重ねた。
「だから、昨日は我慢しないで聞いてみたんだ。明日、会えないかなって」
俺も、姉ちゃんの声を聞けたのが嬉しかった。
電話を切ったあと、あのまま話し続けていたかったと思ったことまで、よく覚えている。
姉ちゃんは鞄の持ち手から手を離し、少しだけ俺の方へ体を向けた。
「今日、会えて嬉しかった」
「俺も嬉しいよ」
「うん」
姉ちゃんは頷いたあと、少し照れたように笑った。
「駅であんたの顔見たら、何だかほっとしちゃった。ずっと会いたかったんだなって、思った」
その声は静かだった。
俺も、会いたかった。
姉ちゃんがいなくなってから、家の中で何度も声を聞こうとしてしまった。いつもそこにあったものがなくなって、初めて気づくことがあるのだと思った。
姉ちゃんは一度視線を落とし、隣に置いた鞄を確かめるように触れた。
「私ね、怖いのがなくなったわけじゃないよ」
顔を上げた姉ちゃんは、まっすぐ俺を見た。
「恋人になって、もし別れたらって、今でも考える」
俺は黙って頷いた。
姉ちゃんがそのことをどれほど気にしていたのかは、もう知っている。四人で暮らした家がなくなることも、昨日まで当たり前だった生活が終わることも、俺たちはこの一週間で何度も見てきた。
姉ちゃんは少しだけ息を吸った。
「でも、だからって、ずっと今までどおりにしていればいいのかなって」
その言葉のあと、姉ちゃんはすぐには続けなかった。
ベンチの背へ軽く体を預け、空を見上げる。夕方の光が少し弱くなり、植え込みの影が通路へ伸びていた。
俺も何も言わずにいた。
姉ちゃんが今、何を考えているのかは分からない。けれど、答えを急がせたくはなかった。
「……昨日ね」
しばらくして、姉ちゃんがまた口を開いた。
「電話切ったあと、明日会えるんだって思ったら、すごく嬉しかったの」
姉ちゃんは俺の方を向いた。
「でも、会って、また普通に話して帰るだけだったら、たぶん私、同じこと繰り返すんだろうなって」
その声に、少しだけ緊張が混じった。
「会いたくなって、連絡して、会えて嬉しくて。でも、そのたびに、あんたに何も言えないまま帰るのは嫌だなって思った」
俺は姉ちゃんを見た。
膝の上に置かれていた姉ちゃんの手が、ゆっくり動いた。
俺の手に触れそうなところで一度止まり、それから、指先がそっと重なった。
「……私、あんたと付き合いたい」
姉ちゃんは手を引かなかった。
「まだ怖いけど。それでも、恋人になりたい」
俺は握られた手を見下ろした。
ずっと聞きたかった言葉だった。
今は、姉ちゃんが別の家で暮らしている。毎朝同じ食卓に座ることもなくなり、こうして会うにも約束が必要になった。
それでも姉ちゃんは、自分からここへ来てくれた。
「……俺も、姉ちゃんと付き合いたい」
返事をすると、姉ちゃんの手に少し力が入った。
俺も握り返した。
姉ちゃんはしばらく俺を見ていたが、やがて口元を緩め、長く息を吐いた。
「よかった」
その一言が、ひどく姉ちゃんらしく聞こえた。
俺も笑った。
何か特別なことを言おうとしたが、うまく思いつかなかった。今まで何度も恋人になったあとのことを想像していたはずなのに、実際にこうして隣に座っていると、何から話せばいいのか分からない。
姉ちゃんはそんな俺の様子を見て、少しおかしそうに笑った。
「何、その顔」
「いや……何か、まだ実感なくて」
「私も」
姉ちゃんは笑ったまま、つないだ手を見下ろした。
六年間、何度も隣に座った。
肩が触れることも、荷物を渡すときに手が重なることもあった。けれど、こんなふうに互いの手を握ったまま、何もせずに過ごしたことはなかった。
姉ちゃんの指先は、少し冷たかった。
風が吹くと、姉ちゃんが空いている方の手で髪を押さえた。それでも、俺の手は離さなかった。
しばらくして、姉ちゃんが静かに言った。
「……これからも、喧嘩するかもしれないね」
「今までだってしてたじゃん」
「そうだけど、今度は違うかもしれないし」
姉ちゃんは少しだけ考え、それから俺を見た。
「そのときは、ちゃんと話そうね」
「うん」
それなら、俺にも約束できた。
姉ちゃんは満足したように頷き、ベンチから立ち上がった。つないだ手はそのままで、俺が立つのを待っている。
俺も立ち上がり、隣へ並んだ。
帰り道、姉ちゃんはいつものように大学の話を始めた。
ゼミで提出する課題が残っているらしい。俺も明日までの課題がまだ終わっていないと言うと、姉ちゃんは呆れたように笑い、ちゃんとやりなさいよと注意してきた。
その言い方は、今までと少しも変わらなかった。
ただ、俺たちは手をつないで歩いていた。
駅へ向かう途中、商店街の交差点で信号に止められた。
向かい側では、買い物袋を下げた人たちが青信号を待っている。姉ちゃんは俺の手を握ったまま、少し前へ出かけてから足を止めた。いつも歩くのが速い姉ちゃんらしい。
信号が変わるのを待っていると、姉ちゃんがこちらを向いた。
「ねえ、今度の日曜って空いてる?」
「日曜? 午後なら空いてるけど」
「朝は?」
「朝も大丈夫だけど……何かあるの?」
姉ちゃんは少しだけ考えてから、俺の手を軽く引いた。
「一緒に朝ごはん、食べに行かない?」
「朝ごはん?」
「うん。駅の近くで、朝からやってるお店を見つけたんだ。行ってみたいなって」
姉ちゃんはそこで少し言葉を切った。
「……初めてのデートが朝ごはんって、変かな」
俺は思わず姉ちゃんの顔を見た。
これまで、二人で出かけたことは何度もある。買い物をしたり、映画を見たり、外で食事をしたり。それでも、姉ちゃんからデートに誘われる日が来るとは、数日前まで考えられなかった。
「全然。行きたい」
答えると、姉ちゃんは嬉しそうに笑った。
「よかった。じゃあ、日曜日ね」
「うん。何時にする?」
「九時くらいかな。あんた、休みの日は寝坊するから」
「姉ちゃんだって、人のこと言えないだろ」
「私はちゃんと起きるもん。……たぶん」
最後の一言が小さくなったので、俺は笑ってしまった。
姉ちゃんも笑い、俺の手を握り直した。
信号が青に変わり、二人で横断歩道を渡った。向こう側へ着く頃には、姉ちゃんはもう日曜日に何を着ていこうかと考えているらしく、少し先を歩く人たちの服装に目を向けていた。
俺はその隣を歩きながら、さっき交わした約束を思い返していた。
日曜日の朝、九時。
姉ちゃんと朝ごはんを食べる。
少し前まで、そんなことに約束はいらなかった。
駅へ着くと、姉ちゃんは乗り換え案内を確かめた。新しい家へ帰るには、ここから別の電車に乗らなければならない。
以前なら、一緒に同じ電車へ乗っていた。
今日は改札の前で別れることになる。
俺たちは人の流れを邪魔しないよう、少し脇へ寄った。
「じゃあ、日曜日に」
姉ちゃんはそう言って、つないでいた手をゆっくり離した。
「うん。寝坊するなよ」
「あんたこそ」
姉ちゃんは笑い、改札へ向かった。
途中で一度振り返り、もう一度手を振る。俺も手を上げると、姉ちゃんは満足したように頷いて、人の流れの中へ消えていった。
俺は少しの間その場所に立っていたが、やがて自分の乗る電車のホームへ向かった。
◇
金曜日の朝、いつもの時間に目が覚めた。
台所へ行き、食器棚から青いマグカップを取り出す。取っ手の白い傷に親指が触れた。
お湯を沸かし、トースターにパンを一枚入れる。
父はまだ起きてこない。台所には換気扇の音と、お湯の沸く小さな音だけがしていた。
パンが焼けるのを待っていると、テーブルの上でスマホが震えた。
姉ちゃんからだった。
画面に表示されたメッセージは、たった四文字。
『おはよう』
俺は青いマグカップをテーブルへ置き、返事を打った。
『おはよう』
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
澄野 朔です。
全5話完結の現代恋愛を中心に、さまざまな物語を書いています。
ほかにも義姉・義妹などをヒロインにした独立作品を公開していますので、気に入っていただけましたら、シリーズ「5話で完結する、少し特別な恋愛物語」も覗いてみてください。
作品への評価や感想、作者のお気に入り登録なども、今後の創作の励みになります。
また別の物語でお会いできたら嬉しいです。




