第2話 消したくないもの
「バター、塗らないの?」
姉ちゃんに聞かれて、俺はようやく目の前のトーストに手を伸ばした。皿の横にはバターナイフが置かれている。いつもなら食べ始める前に塗っているのに、今朝はパンが少し冷めるまで手をつけずにいた。
「……ちょっと考え事」
「大学の課題?」
「まあ、そんなところ」
「二年生にもなると大変だねえ」
姉ちゃんはそう言って、自分のマグカップに口をつけた。何気ない調子だったが、いつもなら俺の寝癖くらいは指摘してくるのに、今朝はそれもない。スマホで予定を確かめながらトーストを食べ、食べ終わった皿を流しへ運ぶ。その間、一度も昨夜の話には触れなかった。
姉ちゃんは、告白をなかったことにしてほしいと言った。俺も承諾したのだから、これでいいはずだった。
「今日、本の箱よろしくね。帰るの何時くらい?」
「四時過ぎかな」
「じゃあ、それまでに軽いやつだけ詰めとく。昨日みたいに床を壊されても困るし」
「まだ言うか、それ」
いつもの調子で返すと、姉ちゃんは満足そうに笑った。食器棚から弁当箱を取り出し、冷蔵庫に用意してあったおかずを詰め始める。俺はバターを塗ったパンをかじりながら、その背中を眺めていた。
六年間、何度となく繰り返してきた朝だ。たった一度告白したくらいで、台所の使い勝手も、姉ちゃんの手際も変わるわけではない。
ただ、俺の知らないところで、姉ちゃんが少し無理をしているような気もした。そう思ってしまうこと自体、昨日までとは違っていた。
大学では二限の講義を受けた。教授が黒板に書いた式をノートへ写しているうちに、昨夜の会話が頭に浮かんできた。
『理由が分かったら、変えようとするでしょ』
姉ちゃんの言うとおりだった。
弟だから駄目なのなら、血がつながっていないことを説明する。世間体が問題なら、周囲に知られない付き合い方を考える。そうやって断る理由を一つずつ取り除いていけば、いつか頷いてくれるのではないかと思っていた。
けれど、姉ちゃんは理由を教えてくれなかった。そもそも、俺を男として好きになれないのかもしれない。その可能性を考えると胸の辺りが重くなったが、今さら本人に確かめるわけにもいかなかった。
ノートの端には、途中まで書いた式が残っている。俺は黒板へ目を戻し、抜けた部分を教科書で探した。講義が終わる頃には、姉ちゃんのことを考えていた時間の分だけ、周りより遅れてしまっていた。
帰宅すると、姉ちゃんの部屋の扉が開いていた。
昨日より段ボール箱が増え、本棚の上半分が空になっている。棚板には本を置いていた跡が四角く残り、窓際に積まれた箱の向こうでは、姉ちゃんが床に座って文庫本を仕分けていた。
「おかえり。鞄、そこに置いといていいよ。先にこっち片付けちゃおう」
姉ちゃんは顔を上げると、空の段ボール箱を俺の方へ押し出した。
今日は昨日の失敗を踏まえて、本を小さな箱に分けることにしたらしい。姉ちゃんが読み終えた本を手渡し、俺が大きさを揃えて詰めていく。床には売るつもりの本も積まれていたが、こちらはなかなか増えなかった。
姉ちゃんは昔から本を捨てるのが苦手だった。もう一度読むかもしれないと言って取っておき、結局何年も本棚に収めたままにする。俺がそれを指摘すると、いつも「本は置いといても腐らないから」と開き直る。
今日も、古い文庫本を一冊手に取ったところで、姉ちゃんの手が止まった。
「それ、売るの?」
「うーん。どうしようかな」
表紙の角は擦り切れ、ページも少し黄ばんでいる。俺が高校生の頃から見覚えのある本だった。姉ちゃんは裏表紙を確かめ、結局、持っていく方の箱に戻した。
「また荷物増やしてる」
「いいの。向こうで読むかもしれないし」
俺はそれ以上何も言わず、箱の隙間へ薄い文庫本を差し込んだ。姉ちゃんが折れたページを嫌がるのを知っているから、背表紙が無理に曲がらないように向きを揃える。
しばらくすると、手元を覗き込んでいた姉ちゃんが小さく笑った。
「丁寧だね。あんた、そんなに本を大事にする方だったっけ」
「姉ちゃんがうるさいから覚えたんだよ。ページの角を折るなとか、開いたまま伏せるなとか」
「ああ、言ったねえ」
「何回もな」
姉ちゃんは少し照れたように口元を緩め、自分の本を詰める作業へ戻った。
大きな家具を動かすときも、部屋の模様替えをするときも、俺たちはよくこうして一緒に作業をした。姉ちゃんが手順を考え、俺が力仕事を引き受ける。途中で意見が合わなくなっても、最後には何となく片付いている。
今日も同じだった。ただ、箱を一つ閉じるたびに、次に姉ちゃんの部屋へ来る理由が減っていくような気がした。
本棚の残りが少なくなった頃、姉ちゃんは居間から持ってきたマジックで箱に中身を書き込み、その下に自分の名前を添えた。並んだ箱を見渡してから、明日は写真を整理しなければならないと話し始める。
居間の棚にあるアルバムを、母親から整理しておくよう頼まれたらしい。古い写真も混ざっていて、姉ちゃん一人では確認するのが大変だという。
「明日も少し手伝ってくれる? 時間があればでいいけど」
「いいよ。大学終わったら帰ってくるし」
「助かる。さすがうちの弟」
姉ちゃんは軽い調子でそう言い、書き終えた箱を壁際へ運んだ。
俺は持ち上げかけていた本から手を離した。
弟。
これまでも何度となく呼ばれてきたのに、今日はその言葉が妙に耳に残った。姉ちゃんは気づいた様子もなく、次の箱を組み立てている。俺も何事もなかったように手を貸した。
翌日、帰宅すると、居間のローテーブルが写真で埋まっていた。
姉ちゃんは床に座り、古いアルバムを開いている。横には年代ごとに分けた封筒と、まだ手をつけていない写真の束があった。普段ならテーブルに置かれているリモコンや雑誌は、テレビ台の上にまとめられている。
「思ったより多かったんだよね。お母さんが昔の写真も全部持ってきたから」
俺が鞄を置いて向かい側へ座ると、姉ちゃんは古いアルバムを一冊差し出した。再婚前の写真らしく、そこには俺の知らない小さな姉ちゃんが何人も写っていた。
運動会の写真では黄色い帽子をかぶって走り、誕生日の写真では大きなケーキを前に笑っている。小学生の姉ちゃんは、今と同じように少し目を細めて笑う癖があった。
「昔から同じ顔してるな」
「それ、褒めてる?」
「半分くらい」
姉ちゃんは鼻で笑い、写真を入れ直したアルバムを脇へ寄せた。俺も古い写真を眺めながら、封筒に書かれた日付を確認していく。
何冊か整理したところで、六年前の夏に撮った写真が出てきた。
父とお義母さんが再婚した年、四人で出かけた旅行の写真だった。宿の玄関前で並んでいる俺たちは、どこかぎこちない。父とお義母さんは笑っているが、俺はほとんど無表情で、姉ちゃんも少し離れた位置に立っていた。
宿の名前を見て、あの日のことを思い出した。
旅行そのものが嫌だったわけではない。ただ、突然できた家族と一緒に出かけることに慣れていなかった。父からもう少し愛想よくしろと言われても、何を話せばいいのか分からなかったのだ。
写真の端には、宿の人が撮影したときに入り込んだらしい木の枝が写っている。俺がそれを眺めていると、姉ちゃんが身を乗り出してきた。
「ああ、これ。懐かしいね」
「俺、ひどい顔してる」
「ほんとだ。あの頃は何を話しかけても、うん、とか別に、とかしか言わなかったもんね」
「そんなにひどかったか?」
「まあ、私も緊張してたから、お互い様かな」
姉ちゃんは写真を手に取り、端の折れ目を指で伸ばした。古い写真は光沢が少し失われていて、四人の顔も今よりぼんやりしている。
俺はそのまま、姉ちゃんがどちらの束へ置くのかを見ていた。
父とお義母さんの離婚が決まってから、俺は家の中のものを、残るものと持っていくものに分けて考えていた。食器も家具も、親たちが相談して決めている。写真だって同じだと思っていたし、父が写った写真を姉ちゃんがどう扱うのか、少し気になっていた。
姉ちゃんはしばらく写真を見てから、自分が持っていくアルバムを開いた。
そして、空いているページへその写真を差し込んだ。
「それも持っていくんだ」
思わず口にすると、姉ちゃんは手を止めた。俺が何を気にしたのか分からなかったらしく、写真と俺の顔を交互に見ている。
「父さんも写ってるからさ」
「ああ」
姉ちゃんは納得したように頷き、アルバムへ目を戻した。
「でも、この旅行は楽しかったから」
それだけ言って、透明なフィルムを静かに戻す。姉ちゃんの指が写真の上を滑り、小さな気泡が端から抜けていった。
俺は少し黙っていた。
楽しかった、というのは嘘ではない。あの旅行で、俺は初めて姉ちゃんとまともに話をした。帰ってきてからも、廊下ですれ違えば声をかけるようになり、少しずつ同じ家で暮らすことに慣れていった。
けれど、写真を見つけるまで、その旅行のことはほとんど思い出していなかった。
姉ちゃんは次の写真を手に取っていた。父の写った写真を避けることも、特別に選り分けることもない。旅行先の風景や、四人で食べた料理の写真を確かめながら、残す方のアルバムへ収めていく。
すでに整理した写真の中には、俺の卒業式で四人並んで撮ったものもあった。姉ちゃんの高校の文化祭へ父とお義母さんが行ったときの写真もある。
これらを全部持っていくと、この家にはほとんど写真が残らない。
俺はアルバムを開き直し、姉ちゃんの手元へ寄せた。
「こっちにも残しておきたいから、写真撮っていい?」
「もちろん。でも、結構な枚数になるよ」
「ページごとに撮れば何とかなるだろ。父さんにも見せられるし」
姉ちゃんは少し考え、テーブルの端に積んだアルバムをこちらへ移してくれた。自分が整理していた写真もいったん脇へ置き、撮影しやすいよう場所を空ける。
俺はスマホを構えたが、天井の照明が透明なフィルムに映り込み、うまく撮れなかった。角度を変えると今度は自分の影が落ちる。結局、アルバムを窓際へ運ぶことにした。
カーテンを少し開けると、午後の日差しが床に広がった。姉ちゃんは窓の下に座り、俺が上から撮影できるよう、開いたアルバムの端を押さえてくれる。
最初はページをめくるたびに位置がずれ、何度も撮り直した。それでも何冊か続けるうちに、俺が撮り終える頃合いを見て姉ちゃんが次のページを開くようになった。
写真の中には、俺がまったく覚えていない出来事もあった。
誕生日のケーキを囲む四人。台所で何かを作っている姉ちゃんとお義母さん。旅行先の土産物屋で、父が妙な帽子をかぶらされている写真もある。
姉ちゃんはときどき作業を止め、写真を指さして笑った。俺も思い出せる範囲で話をしたが、昔のことを覚えているのは、姉ちゃんの方が少し多かった。
アルバムを一冊撮り終え、次の束を取りにテーブルへ戻ったときだった。
古いアルバムのポケットに、同じ写真が二枚重ねて入っているのが見えた。
宿の部屋で、姉ちゃんと俺が並んでテレビを見ている写真だった。
俺は画面の方へ体を向け、姉ちゃんは隣から何かを話しかけている。今見るとずいぶん不自然な距離だが、そのときは二人きりで同じ場所に座っていることさえ珍しかった。
撮ったのはお義母さんだったと思う。
写真を見ているうちに、あの夜の記憶が少しずつ戻ってきた。
夕食のあと、俺は部屋でテレビを見ていた。姉ちゃんが隣に座り、何を見ているのか聞いてきた。たまたま同じ番組を知っていて、そこから好きな登場人物の話になったのだ。
それまで何を話せばいいのか分からなかった相手と、気づけば二時間ほど喋っていた。
姉ちゃんも写真を覗き込み、懐かしそうに笑った。
「これ、あの日の写真だ。覚えてる?」
「うん。テレビ見てたときのやつだろ」
「そうそう。あんた、あのとき初めて自分から話してくれたんだよね」
俺には、どちらから話し始めたのかまでは覚えていなかった。けれど姉ちゃんは、あの夜のことをよく覚えているようだった。
「それまでは、嫌われてるのかなって思ってたからさ。帰ってからも普通に話せるようになって、ちょっと安心したんだよ」
姉ちゃんは写真の上で指を止めた。
「懐かしいなあ」
その声を聞きながら、俺は写真の中の自分を見た。
当時の俺は、姉ちゃんがそんなことを気にしていたなんて知らなかった。ただ、同じ番組を知っている相手ができたのが嬉しくて、翌日も何となく話しかけただけだった。
六年前の俺にとっては小さな出来事だったのに、姉ちゃんの記憶にも残っていたらしい。
姉ちゃんは重なっていた二枚の写真を取り出し、裏返して日付を確かめた。同じ日に現像したものらしく、どちらも少し色が褪せている。
しばらく二枚を見比べてから、一枚を俺の方へ差し出した。
「これ、あんたも持っとく?」
俺は写真を受け取った。
今の俺たちなら、こんな距離を空けてテレビを見ることはないだろう。隣に座れば肩が触れることもあるし、くだらないことで言い争いもする。そんな六年間を過ごすことになるとは、写真の中の二人はまだ知らない。
「……もらっとく」
「なくさないでよ。せっかく二枚あるんだから」
姉ちゃんは残った方をアルバムへ戻した。
俺は受け取った写真を、鞄から取り出したクリアファイルに挟んだ。大学のプリントを入れているものだったが、端のポケットは空いている。折れたり汚れたりしないよう、奥まで差し込んでから鞄を閉じる。
姉ちゃんはもう次のアルバムを開いていた。窓のそばに座り直し、俺が撮影を始めるのを待っている。
日差しは先ほどより傾き、床に伸びた窓枠の影が長くなっていた。俺も隣へ戻り、スマホを構える。写真に映り込まないよう、姉ちゃんは自分の手を少し外側へずらした。
残りのアルバムを撮り終える頃には、窓の外が夕方の色に変わっていた。
俺はスマホの画面で撮影した写真を確かめた。多少傾いたものもあるが、どれも顔は分かる。姉ちゃんがページをめくるのを急がず待ってくれたおかげで、撮り直しも少なく済んだ。
アルバムを箱へ収める作業は、二人で分担した。俺が底を補強した箱に姉ちゃんが一冊ずつ入れ、隙間には古いタオルを詰める。箱を持ち上げても中身が動かないことを確かめてから、俺は蓋を閉じた。
マジックで『写真』と書き、壁際へ運ぶ。
本の箱や衣類の箱に並べると、姉ちゃんの荷物は思った以上の量になっていた。日曜日には、これらが全部この家から運び出される。
箱の一つには、姉ちゃんが大切にしている本が入っている。別の箱には、俺が知らなかった子供の頃の写真。そして今運んだ箱には、父とお義母さんが再婚してからの六年間が収まっていた。
俺は『写真』と書いた文字を見ながら、初日の夜のことを思い出していた。
『もう姉弟じゃなくなるんだから』
あの言葉を聞いた姉ちゃんは、嬉しいことみたいに言わないで、と答えた。
俺はそれまで、別々に暮らすことばかり考えていた。姉ちゃんと恋人になるなら、今までの関係が変わるのも仕方がないと思っていた。
けれど今日、姉ちゃんは家族だった頃の写真を一枚も手放そうとしなかった。俺が忘れていた六年前の会話まで覚えていて、同じ写真を一枚分けてくれた。
あの夜、俺は何をそんなに急いでいたのだろう。
床に置いた箱をもう一度壁際へ寄せ、ほかの箱と高さを揃える。引っ越しの準備は順調に進んでいたが、姉ちゃんが持っていくものについて、俺はまだ知らないことがあるような気がした。
「そろそろ休憩しよっか」
姉ちゃんが声をかけてきた。
振り向くと、窓際に座っていた姉ちゃんが立ち上がり、膝についた埃を払っている。床には、まだ整理していない封筒がいくつか残っていた。
「残りは明日やる。今日はもう十分でしょ」
「そうだな。アルバム、結構重かったし」
「本と違って、思い切って捨てられないからねえ」
姉ちゃんは最後に箱の数を確かめ、マジックやガムテープをまとめて片付けた。俺も使っていたクリアファイルを鞄へ戻し、テーブルの上に残った封筒を重ねておく。
作業を終えると、今まで気にならなかった手の汚れが目についた。古いアルバムを触ったせいか、指先に薄く埃がついている。洗面所で手を洗って戻ると、姉ちゃんはすでに台所へ向かっていた。
「お茶淹れるけど、あんたも飲む?」
「うん。俺も何かやろうか」
「いいよ。今日はいっぱい働いてもらったし」
姉ちゃんはそう言って、食器棚を開けた。
俺はローテーブルの前に座り直し、鞄の中のクリアファイルを取り出した。六年前の写真を一枚だけ抜き、改めて眺める。
写真の中では、姉ちゃんが俺の方を向いている。俺はテレビばかり見ていて、隣から話しかけられていることにさえ気づいていないような顔をしていた。
あの日、姉ちゃんが何を話しかけてくれたのか、もうはっきりとは思い出せない。それでも、帰ってから少しずつ話すようになったことは覚えている。
写真を戻していると、姉ちゃんが居間へ戻ってきた。
手にはマグカップが二つ。白い方を自分の前に置き、取っ手に小さな傷のある青い方を俺の前へ置いた。
「これ、あんたのでしょ。お茶はこれでいい?」
「うん」
姉ちゃんは俺の返事を聞いて台所へ戻り、棚から茶葉の入った缶を取り出した。お湯が沸くまでには、まだ少し時間がかかりそうだった。
俺は青いマグカップを持ち上げ、取っ手の白い傷に親指を当てた。
六年前、このカップはまだ家になかった。姉ちゃんがいつから白いカップを使っているのかも覚えていない。いつの間にか二つとも食器棚の同じ場所に並び、どちらかが欠ければ、もう片方が気づくようになっていた。
台所から、姉ちゃんが茶葉の缶を開ける音がする。
俺はカップをテーブルへ戻し、その音を聞いていた。




