第1話 なかったことにして
姉ちゃんの本は、見た目よりずっと重い。
段ボール箱を持ち上げた途端、底が嫌な音を立てた。慌てて床へ戻すと、ガムテープを持った姉ちゃんが振り向く。
「だから半分にしなって言ったじゃん」
「言われたときには、もう詰め終わってたんだよ」
「じゃあ、持ち上げる前に気づいてよ。あんたの腰がどうこうなるより、床が抜けるほうが困る」
「俺の腰より床?」
「この部屋、まだ一週間使うからね」
姉ちゃんは涼しい顔で答え、箱の底を補強し始めた。俺も隣にしゃがんで本を数冊抜き取る。文庫本に混じって、大学の講義で使ったらしい分厚い本が何冊も入っていた。卒業まで半年を切った四年生の本棚には、もう使わない教科書も多い。
剥がしたガムテープの切れ端が、姉ちゃんのスウェットの袖にくっついた。教えてやると、姉ちゃんは片手でそれを外そうとして、別の場所に貼りつけた。仕方なく俺が取ってやる。
「助かった。引っ越し屋さん向いてるんじゃない?」
「運んだだけで腰より床を心配される仕事は嫌だ」
姉ちゃんが笑った。いつもならそれで終わる会話なのに、俺は開いたままの箱へ本を戻すタイミングを見失った。
今度の日曜日には、この部屋から姉ちゃんのものがなくなる。
父とお義母さんが離婚する、と聞かされたのは三週間前だった。大声で喧嘩をしたわけでも、どちらかが一方的に出ていったわけでもない。二人で長いこと話し合って決めたらしい。詳しいことは聞かされていないし、俺にも問い詰める気にはなれなかった。
ただ、姉ちゃんとお義母さんが家を出る日だけは、やけにはっきりしていた。
「ねえ、そっちの棚も見てくれる?」
姉ちゃんに呼ばれ、俺は立ち上がった。机の横にある棚には、古いノートや文房具が詰まっている。姉ちゃんが高校生だった頃から使っているものも混じっていた。
六年前、父が再婚したとき、俺は中学二年生で、姉ちゃんは高校一年生だった。いきなり姉ができたことより、洗面所の棚が半分埋まったことのほうが当時は重大だった気がする。歯ブラシが二本増えて、シャンプーの種類が増えて、朝のトイレを使う順番で何度か揉めた。
最初は遠慮していた姉ちゃんも、半年も経つ頃には俺の部屋へ勝手に入ってきて、借りた漫画を床に置いていくようになった。俺も姉ちゃんの帰りが遅ければ、夕飯を残しておくようになった。
そんなことを六年間続けてきた。
「これ、返しとくね」
姉ちゃんが机の端から取ったのは、小さな青いマグカップだった。取っ手の付け根に白い傷がある。
「俺のじゃん」
「棚の奥から出てきた。前に借りたままだったみたい」
「いつからここにあったんだよ」
「さあ。うちの台所、私のものとあんたのものが半分混ざってるでしょ」
確かに、六年も暮らせば持ち主の曖昧なものは増える。カップを受け取ると、姉ちゃんはまた箱の中身を確かめ始めた。
俺はそれを台所の流しに置き、戻る前に振り返った。床に座った姉ちゃんは、膝に本を載せて背表紙を読んでいる。髪を後ろで束ねているせいで、首のあたりがいつもよりよく見えた。
好きになったのがいつからか、うまく言えない。
姉ちゃんはよく喋るし、俺の知らないことを平気で知っている。なのに、俺が大学の合否を待っていた夜には、何も聞かずに居間で一緒に遅いテレビを見ていた。発表を見たあとで俺が「受かった」と言うと、最初に「よかったね」と言い、次に「これで夜中の冷蔵庫漁りが終わる」と笑った。
家族として嬉しかった出来事を並べれば、きっといくらでもある。それがいつから、姉ちゃんの帰宅する音を待つ理由にもなっていたのかは分からない。
けれど、ずっと黙っているつもりだった。
姉ちゃんには姉ちゃんの生活があって、俺たちは家族だった。気持ちを伝えれば、その両方を変えてしまうかもしれない。だから、好きだと知られないようにしてきたし、これからもそのつもりだった。
少なくとも、離婚の話を聞くまでは。
夕食のあと、俺が食器を洗っていると、姉ちゃんが布巾を持って隣に立った。皿洗いは、大抵、先に食べ終わったほうがやる。今日は俺が先だったが、姉ちゃんも何となく残っていた。
「明日、大学何限から?」
「二限。姉ちゃんは?」
「午後からゼミ。午前中に本の箱、もう一つ作りたいんだよね。帰ってからでいいから、また持ってくれる?」
「いいよ。底抜けない程度にな」
「さっきのはあんたが詰めすぎたんだからね」
「半分くらいは姉ちゃんが詰めてたけど」
「細かいなあ」
食器が乾いた音を立てて重なる。姉ちゃんは水切り籠から四人分の皿を取って、いつもの場所へしまおうとしたところで手を止めた。
「この大皿、どっちが買ったんだっけ」
「さあ。前からなかった?」
「そうだっけ」
姉ちゃんは少し考え、食器棚の真ん中に皿を戻した。
「これは置いていくね。向こうでも使うだろうけど、お母さんが新しく買うって言ってたし」
「別に持っていってもいいんじゃない?」
「ううん。あんたたちも使うでしょ」
そう言って、姉ちゃんは次の皿に手を伸ばした。
離婚したからといって、食器の一枚一枚に持ち主が書いてあるわけではない。使っているうちに、誰が買ったのかも忘れる。家族四人で使ってきた食器が、これからは別々の家で使われることになるのだ。
俺は水を止め、棚に戻された大皿を見た。
来週もこの皿はここにある。俺も父も、この台所で夕飯を食べる。けれど、そのとき姉ちゃんは別の家にいて、明日の予定を聞かれることも、本の箱を持ってくれと頼まれることもない。
今はまだ、こうして隣に立っているのに。
「……どうしたの?」
姉ちゃんが手を止めていた。布巾を持ったまま、俺の顔を覗き込んでいる。
「いや、何でもない」
「疲れた? もういいよ。あとは私がやるから」
「違う。そうじゃなくて」
言いかけて、口を閉じる。
姉ちゃんは少し不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。残りの皿を片付けると、布巾を掛け、手を洗い始める。
引っ越してからも連絡は取れる。会おうと思えば会えるだろう。それくらいは俺にも分かっている。
ただ、別々の家で暮らし始めた姉ちゃんを、わざわざ呼び出して告白できる気はしなかった。今ですら言えずにいることを、距離ができてから言えるとも思えない。
何も言わなければ、姉ちゃんは俺が弟として別れを惜しんでいるとしか思わないまま、この家を出ていく。
そのことが、急にどうしようもなく嫌になった。
「姉ちゃん」
「ん?」
姉ちゃんはタオルで手を拭きながらこちらを向いた。俺が呼び止めた理由を何も知らない顔だった。
「ちょっと話、いい?」
「いいけど。何か買い忘れた?」
「そうじゃなくて」
廊下の向こうで、父が風呂の蓋を開ける音がした。俺は濡れた指先をズボンで拭きかけてやめる。姉ちゃんはタオルを差し出してくれた。受け取って手を拭くと、逃げ道まで用意してもらったような気がして、余計に言いにくくなった。
それでも、今言わなければ、きっとこの先も言えない。
「俺、姉ちゃんのことが好きだ」
姉ちゃんはすぐには返事をしなかった。
「家族としてじゃない。ずっと、そういう意味で好きだった。付き合ってほしい」
差し出したタオルを返そうとしたが、姉ちゃんの手は動かなかった。俺は乾いたタオルを握ったまま、言葉を足した。
「急なのは分かってる。でも、来週には別々に暮らすだろ。俺たち、血もつながってないし……もう姉弟じゃなくなるんだから」
姉ちゃんの目が、俺の顔からタオルへ落ちた。
「……それ、嬉しいことみたいに言わないで」
「え?」
「ううん。ごめん」
姉ちゃんはそこで一度口を閉じた。俺が渡したタオルをゆっくり畳み、流しの脇に置く。普段は丸めて掛けるだけなのに、四つの角を揃えるのに妙に時間をかけていた。
「気持ちは、ちゃんと聞いたよ。でも、付き合えない」
心臓が一拍遅れて動いたような気がした。断られる可能性を考えていなかったわけではない。ただ、断られたあとの姉ちゃんの声までは想像していなかった。
「……やっぱり、弟だから?」
「今は、そういう話にしたくない」
「じゃあ、何が駄目なんだよ」
思わず声が強くなった。姉ちゃんが肩を引いたのを見て、慌てて言い直す。
「ごめん。責めたいんじゃない。理由が分かれば……」
「理由が分かったら、変えようとするでしょ」
言い返せなかった。図星だったからだ。
姉ちゃんは流しの縁に寄りかかり、足元へ目を落とした。居間ではテレビがついたままで、誰も見ていない番組の笑い声が廊下まで聞こえてきた。
「お願いがあるの」
「……何?」
「あと一週間だけ、今までどおりにしてくれない?」
顔を上げた姉ちゃんは、笑っていなかった。
「明日からは、今日のことを持ち出さないでほしい。せめて、引っ越すまでは」
俺は床の継ぎ目を見た。正直、無理だと思った。付き合えないと言われたことも、その直前まで姉ちゃんがいつもどおりに皿を拭いていたことも、もう忘れられそうにない。
それでも、今ここで嫌だと言えば、姉ちゃんは明日からこの台所に立つことさえ気まずくなるかもしれない。
「……分かった」
返事をすると、姉ちゃんの指が流しの縁から離れた。
「ありがとう」
「ただ、ひとつだけ。今言ったことは、冗談じゃないから」
「うん」
姉ちゃんは今度は迷わず頷いた。それ以上何も言わず、タオルを元の場所に掛けて居間へ戻っていく。
俺は残ったコップを一つ洗い、いつもなら姉ちゃんがやるはずの水切り籠の片付けまで終わらせた。手を動かしている間だけは、次に何を言えばいいのか考えずに済んだ。
最後に拭いたのは、昼間、姉ちゃんから渡された青いマグカップだった。
水切り籠の上で取っ手の傷を確かめてから、いつもの場所に戻す。隣には姉ちゃんが普段使っている白いカップが並んでいた。来週には片方だけになるのだと思うと、食器棚の扉を閉めるのが少し嫌になった。
部屋に戻ると、床に置いた本の箱がまだ開いていた。姉ちゃんの講義の本が何冊か、俺が抜き出したまま脇に積まれている。明日もこの続きをする約束だった。
姉ちゃんに頼まれたとおり、明日からは今までどおりにする。
そう決めてベッドに入ったものの、目を閉じると、姉ちゃんがタオルを畳んでいたときの手元ばかり思い出した。
翌朝、いつもより早く目が覚めた。
洗面所には姉ちゃんの歯ブラシがあり、台所からはパンの焼ける匂いがした。廊下で足を止めた俺の耳に、食器棚を閉める音が届く。六年間、数え切れないほど聞いた音だった。
台所へ入ると、姉ちゃんはトースターの前に立っていた。髪はまだ下ろしたままで、片手にはバターナイフ。俺を見ると、いつもと同じ調子で言う。
「おはよう。今日、二限からだよね。パン、食べる?」
昨夜のタオルも、皿も、あの言葉も、何ひとつなかったみたいだった。
「……食べる」
「じゃ、そこ座ってて。今焼けるから」
姉ちゃんがトースターを覗き込む。その背中に向かって、おはよう、と言い忘れたことに気づいた。
「姉ちゃん」
「何?」
振り返った姉ちゃんの顔に、一瞬だけ身構えたようなものがよぎる。俺は用意していた言葉を飲み込んだ。
「……おはよう」
姉ちゃんは少し目を丸くし、それから笑った。
「うん。おはよう」
焼き上がったパンを、姉ちゃんが俺の皿へ載せる。バターは塗っていない。いつも自分で塗るからだ。
向かいの椅子に姉ちゃんが座るまで、俺はパンに手を伸ばせなかった。




