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魔獣割烹「縁」  作者: まっしゅ@
魔獣割烹「縁」

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8/10

八品目 魔獣鮎の塩焼き

 暖簾を出す直前の店内には、まだ一日の輪郭が完全には立ち上がりきっていない静けさが残っていた。

 炭の奥でくすぶる熱が、ゆっくりと空気を温めていて、火はあるのに急かされる感じがない。

 外は少しずつ暗さを帯び始め、通りの音も遠くなり、店の中と外の境目が曖昧に溶け合っている。

 壁や床に残る昼の温度がゆっくりと抜けきらず、わずかに湿り気を帯びた空気が肌に触れるたび、時間の移ろいが遅れて伝わってくる。

 奥では炭が小さく弾け、細い音が断続的に空気を震わせていた。


 入口の前で、女性が一度足を止める。

 中を覗き、入る理由を探すように視線を揺らすが、決めきる前に暖簾が内側から出される。

 布が空気を切るその動きに、ほんの一拍遅れて合わせるように、女性は中へ入ってきた。

 暖簾の擦れる音が背中側で柔らかく閉じ、その瞬間、外の気配が少しだけ遠ざかる。

 足元の木の感触が変わり、外の硬さとは違うわずかな沈み込みが、踏み込んだ場所の違いを伝えていた。


 席に着くまでの動きが少しぎこちない。

 腰を下ろしてからも落ち着ききらず、視線が定まらない。

 水が出されるが、すぐには手を伸ばさず、少し間を置いてから口をつける。

 その遅れが、この場所にまだ馴染んでいないことを静かに表していた。

 コップの縁に唇が触れたとき、冷えた水の感触にわずかに肩が落ちる。

 喉を通る音が小さく響き、その音が自分のものだと気づくまでに、ほんの一瞬の遅れがあった。


 周りを見て、何かを探すように視線が動く。

 けれど、見つからない。

 手元にあるのは水と箸だけで、選ぶためのものはどこにもない。

 壁際に置かれた道具も、調味料も、どれも主張せず、ただそこにあるだけで、手を伸ばすための目印にはならない。

 視線が一度止まりかけては、また静かに流れていく。


「……あの、メニューって」


 女性が小さく聞く。

 声は控えめで、空気を乱さないように置かれる。


「ここ、メニューは置いてなくて。予約じゃなければ、その日の食材で一品か定食か、どっちかになります」


 伊織はすぐにそう答える。

 言葉は短く、間延びせず、自然に流れていく。


 女性は一度頷き、「そうなんですね……」と返すが、まだ掴みきれていないように少しだけ視線が揺れる。

 そのまま小さく息を整え、少しだけ考えてから口を開く。

 指先がコップの縁に触れたまま、離れるタイミングを探しているように見える。


「じゃあ……おすすめで」


 決めたというより、預けたような響きだった。

 言葉の終わりにわずかな揺れが残り、そのまま空気に溶ける。


 奥で手を動かしていた紬樹が、包丁を置かずに声だけを落とす。

 刃がまな板に触れたまま、動きだけが続いている。


「今日は……川魚、いいのがあるけど」


 その一言で、女性の動きがわずかに止まる。

 視線が一瞬だけ奥へ向き、すぐに戻る。


「川魚って……あんまり食べたことなくて」


 自分でもはっきりしないままの不安が、言葉の端に残る。

 指先が少しだけ動き、コップから離れる。


「海の魚より……少し香りが出るかもしれません。水が違うので、味も少し変わりますし」


 伊織が続ける。

 声は変わらず穏やかで、言葉だけが静かに置かれる。


 女性は少し考え、「じゃあ……それで」と言う。

 そのまま流れに乗るように、選択が決まる。

 肩の力がほんのわずかに抜ける。


 紬樹はそれ以上何も言わず、手元に戻る。

 魚を取り出し、水で軽く流す。

 水が鱗をなぞる音が、細く続く。

 指の腹で表面をなぞり、必要以上には触れない。

 包丁が入る音はほとんどなく、刃が滑る感触だけがわずかに残る。

 腹を開き、内臓を外すときも、手は止まらず、迷いがない。

 指先で触れる感触を確かめるように、しかし確かめる動きは外に出ないまま、処理が終わる。


 血の色はすぐに流され、残るのはわずかな匂いだけになる。

 その匂いも強くはなく、水の冷たさに押し流されていく。

 水気を拭き取る布が、表面を軽く押さえるたびに、音が小さく吸い込まれていく。


 塩を振り、魚を少し置く。

 粒が表面に触れる乾いた音が、わずかに耳に残る。

 そのまま動かさずに置かれる時間が、店の中に静かな層を作る。

 何もしていないようで、少しずつ水分が引き出され、表面がわずかに変わっていく。

 見た目にはほとんど分からない変化が、時間の中で積み重なっていく。


 やがて炭の音がわずかに立ち、火が少しだけ強まる。

 魚が網に乗せられると、金属に触れる軽い音が鳴り、そのまま動きは止まる。

 すぐには触らず、位置だけを整える。

 火の熱が下から上へとゆっくりと上がり、内部に染み込んでいく。

 しばらくして、表面から水分が抜ける気配が出始め、遅れて煙が上がる。

 その煙が細く揺れながら空気に混ざり、香りが広がる。


 女性がふと顔を上げる。

 最初に抱いていた印象と、どこか違うものに触れたような反応だった。

 鼻先で空気を捉えるように、ほんのわずかに呼吸が変わる。

 会話は自然に止まり、匂いだけが場に残る。


 紬樹は火との距離を少しだけ変える。

 網の上で魚の位置がわずかに動き、熱の当たり方が変わる。

 皮の表面が少しずつ締まり、張りが出てくる。

 その変化を見ながら、触れずに時間を置き、必要なところでだけ手を入れる。

 裏返す動きも大きくはなく、最小限の力で角度だけを変える。


 火が入りすぎる手前で止め、最後に少しだけ火を近づける。

 皮が一瞬だけ強く熱を受け、表面にわずかな張りが出る。

 その瞬間を過ぎる前に引き、余熱に任せる。

 火から外された後も、内部で熱が動き続け、わずかな変化が続いている。


 ここで一度、魚を手に取る。

 焼き上がった身の状態を崩さないように持ち上げ、指先で軽く確かめる。

 そのまま、頭から尾へ、一本の串をゆっくりと通す。

 焼きで締まった身に合わせて、抵抗の少ない位置を選ぶように、わずかに角度を変えながら差し込まれていく。

 串が通ることで、魚の形がそのまま保たれる。


 魚は串のまま出される。

 皿に触れる音は小さく、余計なものは添えられていない。


「熱いから……気をつけて」


 それだけを置いて、紬樹は離れる。


 女性は目の前に置かれた魚を見て、少しだけ手を止める。

 串に刺さったままの形を眺めるようにして、箸を持ち上げかけて、また止める。

 どこから手をつければいいのか分からないまま、視線だけが魚の上をなぞる。


「これ……どうやって食べるんですか」


 少しだけ困ったように、言葉が出る。


「そのままでもいいし……ほぐしても」


 紬樹が短く答える。


「骨、気になるなら……上から外して」


 指先で軽く示すような動きが入り、そのまま手を引く。


 女性は小さく頷き、まず箸で身を少しだけ割る。

 表面を崩すと、中から湯気が細く立ち上がり、香りが少し強くなる。

 その変化を見てから、箸で一口分を取り、口へ運ぶ。


 最初の一口は慎重で、確かめるような動きだった。

 口に入れてもすぐには反応は出ず、そのまま咀嚼し、飲み込む。

 噛むたびにわずかに広がる香りに、意識が追いつくまでに少し時間がかかる。


 もう一口。

 さっきよりも少しだけ自然に動く。

 歯が当たる感触を確かめるように、ゆっくりと噛む。

 途中で手が止まり、魚を一度見る。

 皮の張りや身の色を確かめるような視線が落ちる。


「なんか……」


 言いかけて、止まる。

 言葉にしきれないまま、そのまま閉じる。

 視線だけが少し揺れる。


「海のと……ちょっと違いますよね」


 女性は小さく頷き、また食べる。

 今度は少しだけ身をそのまま口に運ぶ。

 箸の動きが少しだけ丁寧になり、骨を避ける指先に意識が乗る。

 崩さないように持ち替える動きが増え、口に運ぶ速度もわずかに変わる。

 最初の戸惑いは消えないが、それでも拒むものではなくなっている。


 食べ終わり、水を一口飲む。

 口の中に残る余韻が水で薄まりきらず、わずかに残る。

 そのまま少しだけ視線を落とし、何も考えていないような時間が流れる。

 指先がコップの縁をなぞり、すぐに離れる。


 やがて立ち上がり、会計を済ませる。

 足の運びは来たときよりもわずかに自然で、迷いが少ない。

 大きな言葉はなく、やり取りは短い。

 帰り際、ほんの一瞬だけ何かを言いかけるように間ができるが、そのまま暖簾の外へ出る。


 布が揺れ、外の空気が入り込む。

 少し冷えた風が店内の温度に触れ、境目が一瞬だけはっきりする。

 店の中の匂いが少しだけほどけ、さっきまであった気配が静かに残る。


 奥ではまだ炭が音を立てている。

 火は強くならず、弱くもならず、そのままの温度で続いている。


 何も起きていないようで、わずかに何かが残ったまま、店の時間はまた元の位置に戻っていった。

 その余りが、すぐには消えず、静かに空気の中に留まり続けていた。

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