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魔獣割烹「縁」  作者: まっしゅ@
魔獣割烹「縁」

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9/10

九品目 魔獣鴨の定食

 暖簾をくぐって入ってきた二人は、並んでいるのに、どこか揃っていなかった。

 歩幅がほんの少しずれていて、そのまま席まで来る。

 戸の閉まる音が店内の空気を一枚だけ揺らして、すぐに元の静けさへ戻った。

 外の湿った空気が一瞬だけ入り込み、すぐに炭の熱に押し返される。

 その境目が、店の内と外をゆっくり分けていく。


「いらっしゃいませ」


 伊織が声をかけると、女性が先に軽く会釈をして、男性が少し遅れて続く。

 見覚えのある二人だった。

 頻繁ではないが、時折ふらりと立ち寄る。

 普段はもっと自然に言葉が流れていたはずの距離だと、覚えている。

 扉を開けた瞬間に、その日の温度が少しだけ変わるような、そんな来方をする二人だった。


 今日は、その流れがない。


 椅子を引く音がわずかにずれて、座るタイミングも揃わない。

 隣にいるのに、視線が交わらず、言葉も続かないまま、水だけが先に置かれる。

 グラスに触れる指先が、置き場を一度迷ってから止まる。

 その小さな遅れが、何度も繰り返されている。


「本日のおすすめは、鴨になります」


 伊織が静かに言うと、女性が一瞬だけ顔を上げる。

 男性もそれに遅れて反応するが、どちらもすぐには言葉を返さない。

 その間に、ほんのわずかな迷いが滲む。

 炭の奥でくすぶる熱が、ゆっくりと空気を持ち上げる。


「……それでいいよ」


 女性が小さく言うと、男性も短く「うん」とだけ返す。

 その「うん」は、普段より少しだけ短く、そこで終わってしまう。


「畏まりました」


 伊織はそれ以上触れず、紬樹へ視線を流す。

 カウンターの向こうでは、すでに仕込みが始まっていた。

 包丁がまな板に当たる音が、乾いたまま一定に続いている。


 鴨の胸肉を取り出し、余分な血を拭い、繊維に沿って浅く刃を入れる。

 刃が入るたびに、肉の表面がわずかに開き、内部の色が一瞬だけ覗く。

 まな板の上で細い音が重なり、切り分けた端肉や骨の周りの身が丁寧に寄せられていく。

 削いだ身は細かく刻まれ、包丁のリズムが少しだけ軽くなる。

 そこに香味を少しだけ合わせて、形を崩さないようにまとめられる。

 指先で転がすようにして空気を含ませ、小さく丸めていく。

 小さく丸めて表面だけをさっと焼き固めると、脂と香りが一瞬だけ立ち上がり、すぐに火から外される。

 焼きすぎないところで止めることで、内側の柔らかさが残る。


 骨と端肉は鍋に入れられ、水を張って火にかけられる。

 最初は静かだった水面が、じわりと揺れ始める。

 沸かしすぎないように火を保ち、浮いたものを静かにすくう。

 掬い上げるたびに、液面が少しだけ整い、透明度が増していく。

 澄んだままの出汁が、ゆっくりと輪郭を持つ。

 鼻に届く香りが、まだ弱いまま、少しずつ深さを持ち始める。


 二人の間には、まだ言葉が戻らない。

 グラスに触れた指が、少しだけ迷うように動いて、また離れる。

 その動きが重なりそうで重ならず、どちらも相手を気にしているのに、どこに合わせればいいのかが分からない距離が残っている。

 氷がわずかに当たる音が、必要以上に響いて、すぐに消える。


「近いとさ……分かんなくなる時、あるよね」


 女性がぽつりと落とす。

 男性は少しだけ間を置いて、短く息を吐く。

 その息が、言葉の代わりのように落ちる。


「……あるかも」


 それ以上続けない。

 言葉を探しているというより、踏み込みきれないまま止まっているような沈黙だった。

 指先がグラスの縁をなぞって、途中で止まる。


 カウンターの奥で、紬樹がフライパンを火にかける。

 弱めの火でゆっくり温度を上げ、皮目を下にして鴨を置くと、脂がじわりと滲み出して、小さな音を立て始める。

 その音は急かさず、ただ静かに広がる。

 脂が表面を覆い、色がゆっくりと変わっていく。


 一度火から外して肉を休ませ、余分な熱を抜く。

 内部に残った熱が、じわりと中心へ移っていく。

 再び火に当てるとき、わずかに時間を変える。

 片方は皮目に少しだけ長く火を当てて、脂を残す。

 もう片方は火を入れすぎず、余分な脂を落とす。

 焼き色の濃さが、ほんのわずかに変わる。

 その差は、見た目にはほとんど出ない。


「……近いほど、混ざるから」


 紬樹が肉を切り分けながら、独り言のように言う。

 その声は、聞こうとすれば拾えるくらいの距離で落ちた。

 刃が入るたびに、断面の色が少しずつ揃っていく。


 鍋の中では、つくねが静かに火を通している。

 最初に表面が締まり、そのあと内側がゆっくりと温まる。

 沸かさず、動かしすぎず、温度の中に置くようにして味を含ませていく。

 出汁の中で形を保ったまま、わずかに膨らむ。


 皿に盛られた定食は、一見すると同じに見える。

 鴨の主菜に、つくねの入った澄まし、軽い副菜と香の物。

 配置も整いすぎず、崩れすぎない位置に収まっている。

 湯気が静かに立ち上り、空気の中に溶ける。


 ただ、主菜の鴨だけが、ほんのわずかに違う。

 片方は表面にわずかな艶があり、もう片方は少しだけ落ち着いた色をしている。

 脂の乗り方が、光の受け方を変えている。

 その差は、意識して見なければ通り過ぎる程度だった。


「お待たせいたしました」


 伊織が二人の前にそれぞれ置く。

 器が置かれる音が、軽く揃わない。

 説明はしない。

 ただ、同じように見える定食が並ぶ。


 最初は、それぞれの皿にだけ箸を伸ばす。

 男性は一口食べて、わずかに頷く。

 噛むごとに、脂が少しずつほどける。

 女性も同じように口に運び、目を伏せたまま味を確かめる。

 こちらは軽く、香りが先に抜ける。


 椀に手が伸びる。

 澄んだ出汁の中で、つくねが静かに沈んでいる。

 口に含むと、やわらかくほどけて、温度がゆっくりと広がる。

 出汁の輪郭が、後からついてくる。


 食べ進めるうちに、女性がふと隣の皿に目をやる。

 同じように見えるのに、どこか違う気がして、少しだけ首を傾げる。

 男性も同じタイミングで視線を上げる。

 一瞬だけ視線が触れて、すぐに外れる。


「……ちょっと、もらっていい?」


 女性が言うと、男性は無言で皿を少し寄せる。

 自分の皿も差し出して、自然と位置が入れ替わる。

 箸を伸ばすタイミングは重ならず、すっと噛み合う。

 皿の縁が軽く触れて、すぐに離れる。


 口に入れた瞬間、同じなのに違う、と分かる。

 強さと軽さ、そのわずかな差がはっきりと残る。

 女性はもう一口確かめるように食べ、男性も同じように違う皿を口に運ぶ。

 噛む速さが、ほんの少しだけ揃う。


 言葉は交わさないまま、皿は元に戻る。

 けれど、その戻し方が、最初よりも少しだけ自然になっている。

 水を注ぐ手もぶつからない。

 箸を置くタイミングも、ずれすぎない。


 食べ終える頃には、二人の間の空気は完全には戻っていない。

 それでも、引っかかっていたものが、少しだけほどけている。

 沈黙が、さっきよりも軽くなる。


 会計を済ませて、二人は並んで店を出ていく。

 ぴったり揃ってはいないが、無理に合わせようとしていない歩き方だった。

 暖簾が揺れて、その後ろ姿が見えなくなる。

 外の空気が一瞬だけ入り込み、すぐに消える。


 静けさが戻った店内で、伊織がグラスを拭きながら口を開く。


「無理に合わせようとして、結局うまくいかなかったこと、ありますか?」


 手は止めないまま、言葉だけを置く。

 少しだけ間を置いてから、続ける。


「揃えた方がいいと思っていたんですけど……合わせてるうちに、どこが良かったのか分からなくなってしまって」


 グラスの水滴を拭き取る手が、一瞬だけ止まる。

 布がガラスに当たる音が、少しだけ遅れる。


「ちゃんとやろうとしたんですけど」


 わずかに間を空けて、続ける。


「……駄目でした」


 その言葉は、少しだけ下に落ちる。


 紬樹は包丁を置き、火加減を見ながら口を開く。


「……無理に揃えようとしても、結局は崩れてしまう」


 そのまま、少しだけ言葉を重ねる。


「揃わないなら、揃わなくてもいい」


 鍋の中を一度だけ見てから、視線を戻す。


「その代わりに、その違いを分かってやればいい」


 一呼吸置いてから、続ける。


「それでも、その時やったことは残るよ」


 伊織は小さく息を吐いて、少しだけ視線を落とす。

 布を持つ手が、ほんの少しだけ緩む。


「……残ってるのかな?」


 紬樹は迷わず、短く返す。


「うん、絶対に残ってる」


 珍しく言い切る声だった。

 迷いが一切混ざらない分、そのまま真っ直ぐ落ちる。


 伊織は少しだけ目を伏せて、それからまた手を動かし始める。

 同じ動きなのに、少しだけ力が抜けている。


「……そうですか」


 それ以上は続けない。

 店の中には、また調理の音だけが残る。

 炭がはぜる小さな音と、鍋の中でわずかに揺れる水の気配が重なる。

 その音は、さっきよりも少しだけ深く、静かに響いていた。

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