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魔獣割烹「縁」  作者: まっしゅ@
魔獣割烹「縁」

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7/10

七品目 鱓の白焼き

 暖簾が揺れる前に、包丁の音が先に止んだ。

 刃がまな板から離れる、そのわずかな間に、店の空気が一段だけ静かになる。

 火は落としていないのに、熱だけがゆっくりと残り、油の匂いが薄く層をつくっていた。

 湿った木の匂いと、ほんの少し焦げの残り香が重なって、鼻の奥に引っかかる。


 外からの足音が、少しだけ遅れて届く。

 砂利を踏む音が一度だけ止まり、それから引き戸に手がかかる気配がする。


 扉が開き、女が入ってくる。

 外の空気が一瞬だけ流れ込み、店内の温度を薄く揺らす。

 視線は真っ直ぐではなく、店の奥から手前へと滑るように動いた。

 席の位置、火の強さ、使われている道具。

 必要なものだけを拾い上げるような見方だった。

 目に映るものを確かめるより、空気の“違い”を測っているような、そんな止まり方をする。


 カウンターに腰を下ろし、椅子の軋みが小さく鳴る。

 メニューには手を伸ばさない。

 指先は一度だけ木の表面をなぞり、すぐに止まる。


「……何か、お願いできますか」


 声は落ち着いているが、どこか探るような余白がある。

 言い切らない響きが、空気の中で少しだけ長く残る。


 紬樹は短く頷き、冷蔵の扉を開ける。

 冷気が一瞬だけ流れ出し、店内の温度と混ざる。

 取り出した身は細長く、わずかに光を弾く。

 魔獣ウツボ。

 表面には粘りが残り、触れればすぐに指に絡みつくような質感だった。

 光を受けるたびに、ぬめりがゆっくりと形を変える。


 女の視線が、ほんの少しだけ止まる。

 瞳がわずかに細くなり、そのまま外れない。


 水を流す。

 勢いは抑え、表面をなぞるように当てる。

 最初は水を弾いていた粘りが、徐々にほどけていく。

 ぬめりがゆっくりと流れ落ちるが、すぐには消えない。

 指先で確かめるように触れ、ぬめりの重さを測るように軽く引く。

 もう一度水を当てる。

 水の当たる音が、細く長く続く。

 何度か繰り返すうちに、粘りの質が変わっていく。

 指先に残る抵抗が、少しだけ軽くなる。


 女の眉が、わずかに寄る。

 その変化を見逃さないように、視線がさらに近づく。


 包丁を入れる。

 深く押し込まず、刃先を滑らせるように沿わせる。

 皮と身の間を、探るように進む。

 赤い液がじわりと滲み、水に混じって薄く広がる。

 その色が抜けきるまで、同じ動作が続く。

 血の匂いが一瞬だけ立ち、すぐに水の冷たさに押し流される。

 時間をかけているのではなく、抜けるまで終わらない、そんな手つきだった。

 水の音が途切れずに続き、店の静けさに細く入り込む。


「……そこまでやるんですね」


 声は小さいが、確かに観ていた人間のものだった。

 確認するでもなく、否定するでもなく、ただ零れる。


「……うん」


 紬樹は顔を上げずに返す。

 言葉は短いが、動きは止まらない。


 皮に手をかける。

 滑る表面に指を掛け、包丁を添えて少しずつ引き剥がす。

 刃を立てすぎず、寝かせすぎず、角度だけで外していく。

 途中で止めず、そのまま流す。

 皮が剥がれるときの、わずかな音が耳に残る。

 ぬめりの層が一枚ずつ剥がれていく感触が、指先に伝わる。

 動きは静かで、無駄がない。


 女は無言のまま、その手元を追う。

 呼吸が少しだけ浅くなり、視線の揺れが止まる。


 身を分けるとき、刃の使い方が変わる。

 押さず、引く。

 止めず、そのまま流す。

 繊維に逆らわず、沿わせるように切り分けていく。

 刃が入るたびに、抵抗が変わる。

 強くもなく、弱くもない、均一ではない感触を、そのまま受け流す。

 切り口は整っているのに、どこか揃いすぎていない。

 わずかな違いが、面ごとに残る。


「……」


 言葉にはならない違和感が、視線の奥に残る。

 理解しようとする動きが、どこかで止まる。


 火にかける。

 網に置いた瞬間、かすかな音が立つ。

 強くはしない。

 火は静かに保たれ、空気の揺れだけがわずかに見える。

 身がゆっくりと縮み始めるが、その動きは途中で止まる。

 脂の音は小さく、弾ける気配はない。

 じわり、と滲むような音だけが続く。

 焼ける匂いは立たず、代わりに水分が抜けていく乾いた気配が、鼻に触れる。


 焼いているはずなのに、焼いている感じがしない。

 焦げの気配も、香ばしさも強くは出ない。

 ただ、空気の中で何かが変わっていく気配だけが残る。

 温度が一点に留まらず、ゆっくりと広がっていくような感覚がある。


 紬樹は時折、指先で軽く触れて確かめる。

 押さず、弾かず、触れて離す。

 その一瞬で、硬さと戻りを拾う。

 触れるたびに、わずかな調整が入る。

 火との距離、置き方、向き。

 そのすべてが大きくは変わらないのに、確実に違っていく。


「……それ」


 女が口を開きかけて、止める。

 言葉にする前に、何かがずれる。


 紬樹は何も言わない。

 火の前で、ただ手を動かしている。


 しばらくして、身を引き上げる。

 網から離すときの音が、ほんの少しだけ残る。

 皿に置かれたそれは、見た目だけなら白焼きと変わらない。

 色も形も、特別なものはない。

 表面にはうっすらとした艶があり、煙はほとんど上がらない。


 女は一瞬だけ、肩の力を抜いた。

 ほんのわずかに、呼吸が深くなる。


 箸を取る。

 ひと口分を持ち上げると、重さが予想よりも軽い。

 けれど、持ち上げた感触は頼りないわけではない。

 間を置いてから口に運ぶ。

 唇に触れた瞬間、温度が穏やかに伝わる。


 そのまま、動きが止まる。


 噛んだ瞬間、表情がわずかに揺れる。

 歯が入る感触が、想像とずれる。

 崩れるわけではない。

 ただ、何かが合わないように、静かにずれていく。

 弾力があるのに、引っかからない。

 ほぐれるのに、散らない。


 ゆっくりと咀嚼し、飲み込むまでに少しだけ時間がかかる。

 喉を通るとき、余計な重さが残らない。


「……これ」


 言葉が続かない。

 口の中に残る感触を、言葉に当てはめようとして、合わない。


 もう一口、確かめるように食べる。

 今度は少し早く口に入れるが、やはり同じところで止まる。

 噛むたびに、同じズレが繰り返される。


「……何をしたんですか」


 紬樹は皿の縁を整えながら、少しだけ間を置く。

 指先で皿の位置を整え、そのまま視線を落とす。


「……捌いて、焼いてるだけだよ」


 女の眉が、はっきりと寄る。

 視線が皿と手元を行き来する。


「そんなわけ……」


 言い切らずに、言葉が落ちる。

 声の端が、わずかに揺れる。


 紬樹は視線を火元に戻す。

 残っている熱を、軽く整える。


「……そう思うよね」


 それ以上は続かない。

 言葉が空気に沈み、音だけが残る。


 女は黙ったまま、皿の上の身を見ている。

 箸で軽く触れ、断面を確かめる。

 押すと戻るが、戻りきらない。

 ほぐれるのに崩れない。

 弾力があるのに、噛み切れる。

 そのどちらにも寄らない感触が、言葉にならないまま残る。


「……」


 何かを言いかけて、やめる。

 視線が一度だけ下に落ち、すぐに戻る。


 最後の一切れを食べ終え、箸を置く。

 その動きは、来たときよりもわずかにゆっくりしている。

 指先が一度だけ止まり、それから離れる。


「……私」


 小さく声が落ちる。

 喉の奥で一度止まり、それから出る。


 紬樹は顔を上げない。

 手元で布巾を軽く絞る音がする。


「……逃げたんだと思います」


 説明ではなく、ただ置かれた言葉。

 空気の中に、そのまま沈む。


 少しだけ間が空く。

 火の残りが、かすかに音を立てる。


「……そうかもね」


 それだけが返る。

 肯定でも否定でもなく、ただ触れて離す。


 女はそれ以上何も言わず、静かに立ち上がる。

 椅子が小さく鳴る。

 会計を済ませ、出口へ向かう。

 その途中で一度だけ厨房を見る。

 視線は長く続かず、すぐに外れる。


 暖簾をくぐり、外の空気に出る。

 夜の冷たさが、肌に触れる。

 店の中の熱が、背中からゆっくりと離れていく。


 扉が閉まると、音は元に戻る。

 油の残り香と、わずかな火の気配だけが残る。

 静けさが、少しだけ深くなる。


「……あの人」


 伊織がカウンターの端で、小さく口を開く。

 声は抑えられているが、余韻が残る。


「料理、する人でしょ」


 紬樹は手を止めて、ほんの少しだけ間を置く。

 視線は火から外さない。


「……今はしてた人、かもね」


 それ以上は続かない。

 言葉が置かれたまま、動かない。


 火の音が、静かに戻ってくる。

 空気がゆっくりと整い、店の温度がまた同じ位置に落ち着いていく。

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