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魔獣割烹「縁」  作者: まっしゅ@
魔獣割烹「縁」

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4/10

四品目 魔獣鹿のロースト

 夕方の光が、店の奥まで静かに伸びていた。

 暖簾の向こうから差し込む橙色は強くもなく、ただゆっくりと空気に混ざって、木の匂いと出汁の香りを柔らかく引き伸ばしている。

 火にかけた鍋の中で、わずかに音が立つ。

 小さな泡が浮かんでは消えて、その繰り返しが、時間の流れをそのまま形にしているみたいだった。


 伊織は包丁を置き、布で手を拭く。

 音を立てないように動く癖は、ここに来てから自然と身についたものだった。

 何も言われたわけじゃない。

 ただ、この店では、大きな音が少しだけ浮く。

 それだけのことなのに、気づけば体が合わせている。


 棚に並ぶ器の配置を、ほんの少しだけ整える。

 揃っているのに、揃え直す。

 意味があるわけじゃない。

 ただ、この時間の中で手を動かしていないと、空気の流れから少し外れる気がした。


 その時、扉が開いた。


 乾いた音でも、軽い音でもない。

 少しだけ重さを含んだ、外の空気を連れてくる音だった。

 外の温度が、わずかに混ざる。


 入ってきた男は、迷いなく中に入る。

 足取りに無駄がない。

 店の中を見回すこともなく、そのままカウンターに立った。


「……やってるか」


 低くもなく、高くもない声だった。

 ただ、どこか乾いている。

 土と風の中に長くいたような、そんな質感が残っている。


 紬樹は顔を上げる。


「……久しぶり」


 それだけ言って、また手元に視線を戻す。

 その間に、ほんの少しだけ間があった。


 伊織はそのやり取りを見て、何か引っかかる。

 会話としては普通なのに、温度が違う。

 言葉の間に、知らない時間が挟まっているみたいだった。


 男はカウンターに置いていた袋を軽く持ち上げる。


「持ってきた」


 布をほどくと、肉が現れる。

 赤い、というより、深い色だった。

 まだ温度が残っているのか、空気に触れた瞬間、わずかに匂いが立つ。

 鉄に似た重さと、獣特有の濃さが混ざった、鼻の奥に残る匂い。


 その匂いはすぐに消えない。

 薄く広がって、店の中に留まる。

 出汁の香りと混ざり合って、どちらでもない重さになる。


 伊織は思わず視線を逸らしそうになる。

 けれど逸らさない。

 逸らしたら、分からなくなる気がした。


 紬樹は、そのまま手を伸ばした。


「……いいね」


 軽く触れる。

 押さえるでもなく、撫でるでもない。

 指先で確かめるだけの動き。


「状態、いい」


 男は小さく息を吐く。


「そうか」


 それだけで、何かが通じたようだった。


 伊織は、少しだけ戸惑う。

 この肉は、明らかに普通じゃない。

 処理も完全じゃない状態に見える。

 なのに、紬樹は迷わない。

 むしろ、選ぶように触れている。


 まな板の上に肉が置かれる。

 包丁が入る音は、ほとんど聞こえない。

 筋を外すときの感触だけが、わずかに指先に残るような、そんな静かな動きだった。

 血の残りを見て、角度を変える。

 無理に取らない。

 流れを見て、必要な分だけ外していく。


 包丁を入れる位置が、毎回わずかに違う。

 同じ形に整えない。

 その都度、肉の状態に合わせて変えている。


 伊織は、その手元を見ていた。


 何をしているのか、全部は分からない。

 ただ、“判断している”のだけは分かる。

 切っているんじゃない。

 見て、触れて、その都度変えている。


「……昔と変わってねぇな」


 男がぽつりと言う。


 紬樹は一瞬だけ手を止める。


「……そう?」


 それ以上は続かない。

 言葉はそこで切れるのに、不自然じゃない。

 むしろ、それで十分みたいに、空気が落ち着く。


 下処理が終わる頃には、匂いの角が少しだけ丸くなっていた。

 強さは残っているのに、刺さる感じがない。

 伊織はそれに気づいて、わずかに息を吸う。


 紬樹は肉を袋に入れ、温度を落とす準備をする。

 細かく調整された熱の中に、ゆっくりと沈めていく。


 時間が流れる。


 最初は、何も変わらないように見える。

 ただ静かに、肉が熱の中にあるだけだった。


 伊織はしばらくそのまま見ていたが、やがて視線を外す。

 見ていても、変化が分からない。

 けれど、完全に目を離すのも違う気がして、時々だけ視線を戻す。


 鍋の音が、一定のまま続いている。

 さっきと同じ音なのに、なぜか違って聞こえる。

 変わっているのは音じゃなくて、自分の感じ方の方かもしれないと、伊織はぼんやり思う。


 外を誰かが通る。

 足音が一瞬だけ近づいて、遠ざかる。

 店の中には入ってこない。


 時間が伸びる。


 匂いが、少しずつ変わる。

 最初にあった重さが、奥に沈む。

 その代わりに、別の柔らかさが出てくる。

 強さは消えていないのに、刺さる感じだけが抜けていく。


 伊織は、思わずもう一度だけ肉の方を見る。


 見た目はほとんど変わらない。

 それでも、違う。

 さっき触ったときの印象とは、明らかに違う気がする。


「……これ、まだなんですか」


 小さく、伊織が聞く。


 紬樹は温度を一度だけ確認して、すぐに視線を戻す。


「……もう少し」


 それだけ言って、手を止めない。


 男は腕を組んだまま、わずかに視線を動かす。


「急がねぇのか」


 紬樹はほんの少しだけ首を傾ける。


「……急ぐと、固くなるから」


 言い切らない声だったが、そこに迷いはない。


 男はそれを聞いて、小さく息を吐く。


「相変わらずだな」


 それ以上は何も言わない。


 時間がさらに伸びる。


 伊織は、何もしない時間の中にいることに気づく。

 手を動かすこともできる。

 けれど、この時間の流れを切る気がして、動けない。


 ただ、立っている。


 ただ、見ている。


 それでも、不思議と無駄な感じはしない。


 やがて、紬樹が肉を取り出す。


 袋から出した瞬間、空気がわずかに変わる。

 強くはないが、確実に違う匂いが立つ。

 尖りが取れた分、輪郭がはっきりしている。


 触れたときの弾力も違う。

 押すと、ゆっくり戻る。

 さっきのような張りはない。


 フライパンに火を入れる。


 強い火が立ち上がる。

 油が温まる匂いが、空気を一瞬だけ変える。


 肉を置いた瞬間、音が弾ける。


 ジュッ、と短く鋭い音。


 その音は一瞬だけ広がって、すぐに落ち着く。

 余計に鳴らさない。

 必要な分だけ、短く鳴って止まる。


 表面に色が乗る。

 淡い色から、少しずつ濃くなる。

 焦げではない、焼き目の色。

 香りが立つ。

 さっきまで奥に沈んでいた匂いが、今度は外に出てくる。

 ただ強いだけじゃない。

 まとまって、形を持った香りに変わっている。


 紬樹は何度も返さない。

 一度、位置を変えて、もう一度だけ当てる。

 火との距離を見ながら、音と匂いを揃えていく。


 伊織は、その一連の流れを見ていた。


 さっきまで分からなかったものが、少しだけ分かる。

 消しているわけじゃない。

 残しながら、整えている。

 その違いだけが、ようやく輪郭を持つ。


 皿に盛られた肉は、余計な主張がなかった。

 ただそこにあるだけなのに、さっきとは全く違う存在になっている。


 男は箸を取る。

 ためらいなく一切れを持ち上げる。


 口に入れる。


 一度、噛む。


 すぐには飲み込まない。


 もう一度、ゆっくり噛む。


 その間、何も言わない。


 伊織は、その沈黙に少しだけ息を止める。

 長くはないのに、やけに長く感じる間だった。


 男の表情は変わらない。

 ただ、噛むたびに、わずかに力が抜けていく。


 三度目に噛んだとき、肩がほんの少し落ちる。


 それから、ゆっくりと飲み込む。


 一度、息を吐く。


「……ああ、これだ」


 短い言葉だった。

 でも、さっきよりも少しだけ深く落ちる。


 もう一口食べる。

 今度は噛む前に、ほんの少しだけ間を置く。


 口に入れて、同じように噛む。


 今度は、口の端がわずかに緩む。


「無理に消してねぇな」


 紬樹は軽く肩をすくめる。


「……消すと、別のになるから」


 それ以上は続かない。

 けれど、そこにある意図は十分に伝わる。


 店の中に、また静けさが戻る。


 男は箸を置く。


「お前、外に戻る気は?」


 不意に投げられた言葉だった。


 紬樹はすぐには答えない。

 火を落とし、フライパンを少しずらす。

 余熱の中で残る音を聞くように、ほんのわずかだけ間を置く。


 それから、手元の肉を軽く押さえる。


 その動きの流れの中で――


 ほんの一瞬だけ、伊織の方を見る。


 伊織は気づかない。

 布を整えながら、いつも通りの手つきで作業を続けている。


 紬樹は視線を戻す。


「……今は、戻る気ないかな」


 言い切らない形で、言葉が落ちる。


 男は、そのやり取りを見ていた。


 少しだけ目を細める。


「……そっか」


 それ以上は聞かない。


 立ち上がり、軽く手を上げる。


「また持ってくる」


「……ありがと」


 短いやり取りで、男は店を出る。

 扉が閉まる音がして、外の気配がゆっくりと遠ざかっていく。


 しばらく、何も言葉が出ない。


 伊織は手を止める。


「……あの人、何者なんですか」


 紬樹は少しだけ考えるように、視線を落とす。


 火はもう消えている。

 鍋の音も止まっている。

 静けさだけが残っている。


「……料理、しない人かな」


 伊織は眉を寄せる。


 答えになっていないのは分かる。

 でも、それ以上聞けない。

 聞いても、同じように返される気がした。


 店の中に、またいつもの空気が戻る。


 さっきまでと同じはずなのに、どこか違う。


 伊織はそれを言葉にできないまま、手を動かし始めた。

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