三品目 魔獣河豚の薄造り
暖簾をくぐる音が、夜の静けさにやわらかく溶けた。
そのまま続く足取りはどこか軽く、「こんばんは」と弾む声が、店の空気をわずかに揺らす。
外の通りの音は遠く、引き戸が閉まると同時に切り離されたように静まり、店の中には湯気と出汁の匂いだけがゆっくりと広がっていた。
紬樹は手元の包丁を置き、顔を上げる。
「いらっしゃい」
カウンター越しに目が合う。
まだ若い。
二十代前半といったところか。
スーツは着ているが、身体に馴染みきっていない。
仕事帰りというより、“これから食事を楽しむ”側の空気をまとっている。
革靴のまま少しだけ足を揺らす癖や、店内を見回す視線の動きに、落ち着ききらない軽さが残っていた。
席に着いた男は、店内を見回しながら小さく笑う。
「思ってたより入りやすいですね。
もっとこう……高そうな感じかと思ってました」
「そう?」
「はい、ちょっと緊張してたんですけど」
言いながら肩の力を抜く。
その様子に、紬樹は軽く頷いた。
「そう見えたなら、よかったかな」
水を差し出すと、男はそれを一口飲み、喉を通る冷たさに少しだけ表情を緩める。
改めてメニューに目を落とし、指でなぞるようにして項目を追ったあと、ふと顔を上げた。
「フグ、あるんですね」
「あるよ」
「フグって、親とか祖父母がよく言ってて……昔は高級だったらしいですね」
“聞いた話”として出てくるその言葉に、紬樹はほんのわずかだけ目を細める。
「そうらしいね」
男は少しだけ身を乗り出した。
「一回くらい、ちゃんとしたの食べてみたいなって思ってたんですよ。
なんかこう……特別な感じのやつ」
“ちゃんとした”。
その言葉は悪気なく発せられているが、どこか輪郭が曖昧だった。
価値の基準が、どこか他人から借りてきたもののように浮いている。
紬樹は短く息を吐く。
「じゃあ、やってみようか」
「お願いします」
嬉しそうに頷くその様子を見てから、紬樹は静かに立ち上がり、奥へと向かう。
冷蔵庫を開け、取り出したのは一尾のフグだった。
形は見慣れたそれとほとんど変わらない。
ただ、よく見れば色味がわずかに濁り、皮膚の質感にほんの少しだけ重さがある。
光を受けたときの反射も鈍く、どこか“抜けきっていない”印象が残っていた。
まな板に置くと、包丁を握る。
刃先を軽く当て、静かに引く。
その最初の一手だけで、空気がわずかに締まる。
カウンター越しに、その様子を男が興味深そうに見ている。
「普通のフグと、違うんですか?」
「少しね」
短く答えながら、手は止めない。
包丁は迷いなく動き続けるが、その軌道は極めて繊細だった。
筋肉の走り方を読むように、わずかな抵抗を指先で確かめながら進めていく。
「でも、こうやって普通に出てくるってことは……安全なんですよね?」
問いかけは軽い。
日常の延長線にある、自然な疑問だった。
紬樹は刃を入れる角度をわずかに変えながら答える。
「最低限はね。
そこから先は、人の仕事かな」
「へえ……」
男は納得したような顔をするが、その理解はまだ表面に留まっている。
解体は進む。
内臓に手を入れ、位置を確かめる。
通常とは違う。
毒の位置が、ほんのわずかにずれている。
その差は小さいが、無視できるものではない。
指先で触れた感触が、教科書通りではないことを伝えてくる。
紬樹の指先が、ほんの一瞬だけ止まった。
空気が、わずかに張る。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように手は動き出していた。
刃が進み、余分な部分が切り離され、処理は滞りなく続いていく。
水にさらす。
透明であるはずの水が、わずかに濁る。
流れの中で細かな粒子が揺れ、その濁りはすぐに薄まるが、完全には消えない。
「あれ……ちょっと濁ってます?」
男の視線がそこに止まる。
「うん。
そういうものだから」
それ以上は言わないまま水を切り、紬樹は淡々と続ける。
「食べられるようにしてるだけだよ。
そのままだと、食べ物じゃないことも多いから」
男の表情がわずかに止まる。
「……え?」
「料理してるだけ」
短く言って、身を引く。
薄く切られた一枚が皿の上に重なっていく。
透けるような白が整然と並び、光を受けてほのかに艶を帯びる。
見た目だけなら、どこにでもあるフグの薄造りだった。
皿を差し出すと、男は箸を取り、一枚をすくって口に運ぶ。
噛んだ瞬間、確かに旨味が広がる。
しかし、その奥にわずかな違和感が残り、舌の上にほんの少しの重さが引っかかった。
飲み込んだあとも、余韻がすぐには消えない。
「……なんか、ちょっと違いますね」
「そう?」
「いや、美味しいんですけど……普通の魚って感じじゃないというか」
もう一枚、口に運ぶ。
今度は意識して味わう。
舌に触れた瞬間の温度、歯に当たる感触、噛み切ったときの繊維のほどけ方。
そのどれもが“知っているもの”とわずかにずれている。
旨い。
それは間違いない。
だが、それだけでは終わらない。
奥に何かが残る。
「これ……ちゃんと処理してるから、こうなってるんですよね」
自然に出た言葉だった。
紬樹は軽く頷く。
「うん、そうだね」
少しの沈黙が落ちる。
男は皿を見つめたまま、言葉を選ぶように続けた。
「……もし、これ、ちゃんとやってなかったら、どうなるんですか」
紬樹は手を止めず、しかし視線だけをわずかに上げる。
「食べ物じゃないかな。生で口にして、そのまま戻らなかった例もあるらしいから」
淡々とした声音だったが、その一言だけで十分だった。
説明はない。
だが、想像は止まらない。
男の手が止まる。
「え……」
「ちゃんと扱えば、食材になるけどね」
それ以上は何も足さない。
男はゆっくりと息を吐き、もう一度箸を動かした。
同じ一枚のはずなのに、さっきよりも重く感じる。
それでも口に運び、噛みしめると、味の輪郭が先ほどよりもはっきりと浮かび上がってきた。
旨味だけではない。
そこに至るまでの過程が、わずかに透けて見える気がする。
「……なんか、さっきよりちゃんと味が分かる気がします」
紬樹はわずかに笑う。
「そうかもね」
店の中に静かな時間が流れる。
箸が皿に触れる小さな音だけが、ゆっくりと重なっていく。
男は急がず、残りを一枚ずつ確かめるように食べていった。
食べ終えた頃には、最初の軽さは消えていた。
代わりに残っているのは、言葉にしきれない感覚だけだ。
会計を済ませ、立ち上がる。
「……ありがとうございました」
「こちらこそ」
暖簾の前で、男は一度だけ振り返る。
さっきまでのような勢いはなく、少し考えるような間を置いてから口を開いた。
「なんか……食べるって、思ってたより色々あるんですね」
紬樹は軽く頷く。
「あるかもね」
それ以上は言わない。
男もそれ以上は求めず、そのまま外へ出ていく。
扉が閉まり、外の音が一瞬だけ差し込んで、すぐに消えた。
店に、元の静けさが戻る。
紬樹は皿を下げ、水を流す。
透明な水がゆっくりと流れていくのを見ながら、小さく息を吐く。
さっきまでそこにあった濁りは、もう形を残していない。
「……普通にしてるだけだよ」
誰に向けるでもなく、ただ静かに呟く。
夜は、まだ続いていた。




