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魔獣割烹「縁」  作者: まっしゅ@
魔獣割烹「縁」

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3/10

三品目 魔獣河豚の薄造り

 暖簾をくぐる音が、夜の静けさにやわらかく溶けた。

 そのまま続く足取りはどこか軽く、「こんばんは」と弾む声が、店の空気をわずかに揺らす。

 外の通りの音は遠く、引き戸が閉まると同時に切り離されたように静まり、店の中には湯気と出汁の匂いだけがゆっくりと広がっていた。


 紬樹は手元の包丁を置き、顔を上げる。


「いらっしゃい」


 カウンター越しに目が合う。

 まだ若い。

 二十代前半といったところか。

 スーツは着ているが、身体に馴染みきっていない。

 仕事帰りというより、“これから食事を楽しむ”側の空気をまとっている。

 革靴のまま少しだけ足を揺らす癖や、店内を見回す視線の動きに、落ち着ききらない軽さが残っていた。


 席に着いた男は、店内を見回しながら小さく笑う。


「思ってたより入りやすいですね。

 もっとこう……高そうな感じかと思ってました」


「そう?」


「はい、ちょっと緊張してたんですけど」


 言いながら肩の力を抜く。

 その様子に、紬樹は軽く頷いた。


「そう見えたなら、よかったかな」


 水を差し出すと、男はそれを一口飲み、喉を通る冷たさに少しだけ表情を緩める。

 改めてメニューに目を落とし、指でなぞるようにして項目を追ったあと、ふと顔を上げた。


「フグ、あるんですね」


「あるよ」


「フグって、親とか祖父母がよく言ってて……昔は高級だったらしいですね」


 “聞いた話”として出てくるその言葉に、紬樹はほんのわずかだけ目を細める。


「そうらしいね」


 男は少しだけ身を乗り出した。


「一回くらい、ちゃんとしたの食べてみたいなって思ってたんですよ。

 なんかこう……特別な感じのやつ」


 “ちゃんとした”。

 その言葉は悪気なく発せられているが、どこか輪郭が曖昧だった。

 価値の基準が、どこか他人から借りてきたもののように浮いている。


 紬樹は短く息を吐く。


「じゃあ、やってみようか」


「お願いします」


 嬉しそうに頷くその様子を見てから、紬樹は静かに立ち上がり、奥へと向かう。


 冷蔵庫を開け、取り出したのは一尾のフグだった。

 形は見慣れたそれとほとんど変わらない。

 ただ、よく見れば色味がわずかに濁り、皮膚の質感にほんの少しだけ重さがある。

 光を受けたときの反射も鈍く、どこか“抜けきっていない”印象が残っていた。


 まな板に置くと、包丁を握る。

 刃先を軽く当て、静かに引く。

 その最初の一手だけで、空気がわずかに締まる。


 カウンター越しに、その様子を男が興味深そうに見ている。


「普通のフグと、違うんですか?」


「少しね」


 短く答えながら、手は止めない。

 包丁は迷いなく動き続けるが、その軌道は極めて繊細だった。

 筋肉の走り方を読むように、わずかな抵抗を指先で確かめながら進めていく。


「でも、こうやって普通に出てくるってことは……安全なんですよね?」


 問いかけは軽い。

 日常の延長線にある、自然な疑問だった。


 紬樹は刃を入れる角度をわずかに変えながら答える。


「最低限はね。

 そこから先は、人の仕事かな」


「へえ……」


 男は納得したような顔をするが、その理解はまだ表面に留まっている。


 解体は進む。

 内臓に手を入れ、位置を確かめる。

 通常とは違う。

 毒の位置が、ほんのわずかにずれている。

 その差は小さいが、無視できるものではない。

 指先で触れた感触が、教科書通りではないことを伝えてくる。


 紬樹の指先が、ほんの一瞬だけ止まった。


 空気が、わずかに張る。


 だが次の瞬間には、何事もなかったかのように手は動き出していた。

 刃が進み、余分な部分が切り離され、処理は滞りなく続いていく。


 水にさらす。

 透明であるはずの水が、わずかに濁る。

 流れの中で細かな粒子が揺れ、その濁りはすぐに薄まるが、完全には消えない。


「あれ……ちょっと濁ってます?」


 男の視線がそこに止まる。


「うん。

 そういうものだから」


 それ以上は言わないまま水を切り、紬樹は淡々と続ける。


「食べられるようにしてるだけだよ。

 そのままだと、食べ物じゃないことも多いから」


 男の表情がわずかに止まる。


「……え?」


「料理してるだけ」


 短く言って、身を引く。

 薄く切られた一枚が皿の上に重なっていく。

 透けるような白が整然と並び、光を受けてほのかに艶を帯びる。

 見た目だけなら、どこにでもあるフグの薄造りだった。


 皿を差し出すと、男は箸を取り、一枚をすくって口に運ぶ。

 噛んだ瞬間、確かに旨味が広がる。

 しかし、その奥にわずかな違和感が残り、舌の上にほんの少しの重さが引っかかった。

 飲み込んだあとも、余韻がすぐには消えない。


「……なんか、ちょっと違いますね」


「そう?」


「いや、美味しいんですけど……普通の魚って感じじゃないというか」


 もう一枚、口に運ぶ。

 今度は意識して味わう。

 舌に触れた瞬間の温度、歯に当たる感触、噛み切ったときの繊維のほどけ方。

 そのどれもが“知っているもの”とわずかにずれている。


 旨い。

 それは間違いない。

 だが、それだけでは終わらない。


 奥に何かが残る。


「これ……ちゃんと処理してるから、こうなってるんですよね」


 自然に出た言葉だった。


 紬樹は軽く頷く。


「うん、そうだね」


 少しの沈黙が落ちる。

 男は皿を見つめたまま、言葉を選ぶように続けた。


「……もし、これ、ちゃんとやってなかったら、どうなるんですか」


 紬樹は手を止めず、しかし視線だけをわずかに上げる。


「食べ物じゃないかな。生で口にして、そのまま戻らなかった例もあるらしいから」


 淡々とした声音だったが、その一言だけで十分だった。

 説明はない。

 だが、想像は止まらない。


 男の手が止まる。


「え……」


「ちゃんと扱えば、食材になるけどね」


 それ以上は何も足さない。


 男はゆっくりと息を吐き、もう一度箸を動かした。

 同じ一枚のはずなのに、さっきよりも重く感じる。

 それでも口に運び、噛みしめると、味の輪郭が先ほどよりもはっきりと浮かび上がってきた。


 旨味だけではない。

 そこに至るまでの過程が、わずかに透けて見える気がする。


「……なんか、さっきよりちゃんと味が分かる気がします」


 紬樹はわずかに笑う。


「そうかもね」


 店の中に静かな時間が流れる。

 箸が皿に触れる小さな音だけが、ゆっくりと重なっていく。

 男は急がず、残りを一枚ずつ確かめるように食べていった。


 食べ終えた頃には、最初の軽さは消えていた。

 代わりに残っているのは、言葉にしきれない感覚だけだ。


 会計を済ませ、立ち上がる。


「……ありがとうございました」


「こちらこそ」


 暖簾の前で、男は一度だけ振り返る。

 さっきまでのような勢いはなく、少し考えるような間を置いてから口を開いた。


「なんか……食べるって、思ってたより色々あるんですね」


 紬樹は軽く頷く。


「あるかもね」


 それ以上は言わない。

 男もそれ以上は求めず、そのまま外へ出ていく。

 扉が閉まり、外の音が一瞬だけ差し込んで、すぐに消えた。


 店に、元の静けさが戻る。


 紬樹は皿を下げ、水を流す。

 透明な水がゆっくりと流れていくのを見ながら、小さく息を吐く。

 さっきまでそこにあった濁りは、もう形を残していない。


「……普通にしてるだけだよ」


 誰に向けるでもなく、ただ静かに呟く。


 夜は、まだ続いていた。

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