二品目 魔獣鳥の唐揚げ
夜が深くなるにつれて、通りの音は少しずつ削ぎ落ちていく。
昼間は途切れなく続いていた車の走る音も、人の話し声も、この時間になると薄い膜を一枚隔てた向こう側へ退いていき、その代わりに店の中にある小さな音がよく立つようになる。
油が静かに熱を抱えていく気配や、まな板の上で包丁が細かく鳴る乾いた音は、客に聞かせるためのものではなく、ただ店がいつも通りに動いている証拠としてそこにあった。
火の前に立っていなくても、店の中にいるだけでわずかに汗ばむような温度があり、それがこの場所の時間の進み方を決めているようにも感じられる。
伊織はカウンターの内側で、使い終えた小皿を下げ、布巾を折り直し、水差しの残りを見て足していく。
どの動きも止まらず、次に何をするかを一つずつ考えているようには見えない。
店に入ったばかりの頃は、客の前に水を出すだけでも余計な力が入っていたのに、今はもう、流れの中で自然に身体が動くところまでは来ていた。
紬樹に言われなくても見えるものが増え、触らなくてもいい所と、先に整えておくべき所の区別もつくようになっている。
器の向きや箸の置き方一つとっても、客の手の動きを邪魔しない形が自然に選べるようになっていた。
だからこそ、この店で働けている手応えは確かにあったし、客の前に立つことそのものに不安はもうない。
入口の戸が開いたのは、伊織が湯呑みを拭き上げて棚へ戻した直後だった。
入ってきた男は、年の頃で言えば三十代の半ばくらいで、仕事帰りらしいスーツ姿のままカウンターへ座った。
よくある気負いのなさで、何か珍しいものを見に来たという顔ではない。
店の中を眺め回すこともなく、椅子を引いて腰を下ろすと、少しだけ肩の力を抜いて、それから紬樹の方へ顔を向けた。
「何かありますか」
紬樹は手を止めないまま答えた。
「今日は、魔獣鶏の唐揚げだね」
それだけで、客は「ああ」と短く返した。
特に説明を求めることもなく、驚きもしない。
魔獣料理そのものは珍しくないし、鶏もよく使われる。
違いが出るのは、何を出すかよりどう出すかの方だと、ここへ来る客はだいたい分かっている。
「定食でいけますか」
「いけるよ」
伊織はその会話が終わるのと同時に動き、水と箸を客の前へ置いた。
男は軽く礼を言い、それ以上は何も足さない。
伊織もそれ以上は言わず、自然な距離を残して引いた。
たったそれだけのやり取りだが、伊織はこういう時、自分がちゃんとこの店の流れに入れていることを感じる。
前なら紬樹の言葉のあとに一拍遅れて動き、客の手元を見すぎたり、逆に離れすぎたりしていた。
それが今はない。
少なくとも接客の面では、自分はもう新人ではない、と伊織は思っていた。
紬樹が冷蔵の引き出しから取り出した魔獣鶏は、今日の分として朝のうちに大まかな処理を終えていた個体だった。
伊織はその鶏を見て、昼の仕込みの時に感じた印象を思い出す。
脂が重くない。
皮の張り方も強すぎず、全体の密度もおとなしい。
極端なクセが出る個体ではないと、その時点で分かっていた。
「軽いですね、今日の」
伊織が口にすると、紬樹は「そうだね」とだけ返し、鶏肉をまな板へ置いた。
「動きが少なかった個体だね。
脂も素直だし、扱いやすいよ」
その言葉を聞いて、伊織はやはりそうかと思う。
扱いやすい個体なら、料理としてまとめるのは難しくない。
むしろこういう時ほど、仕上がりをきれいに揃えやすい。
紬樹が肉を切り分けていく。
刃は深く入れすぎず、関節の位置や筋の向きを確かめながら、必要な分だけを外していく。
ももに残った余分な脂や、皮の端の重い部分だけを落とし、食べた時に口へ残りそうな筋を数本拾う。
その手つきは無駄がないが、削る量は思っていたよりも少ないと伊織には見えた。
軽い個体なら、もう少し整えても味は痩せない。
むしろ唐揚げなら、その方が食べやすく、仕上がりも揃うはずだった。
「少し多めに抜いた方が、まとまりませんか」
伊織は訊ねるというより、自分の考えを置くように言った。
紬樹は手を動かしたまま、「まとまると思うよ」と返した。
「食べやすくもなるね」
そこまでは、伊織の考えと同じだった。
だが紬樹はそこで終わらせず、少しだけ間を置いてから続ける。
「でも、今日はあんまりそこまでやらなくていいかな」
伊織は口をつぐむ。
否定ではない。
自分の考えを間違いだと切り捨てられたわけでもない。
ただ選び方が違う。
それが、逆に引っかかった。
切り分けた肉がボウルへ移される。
紬樹は醤油を少量、酒を少し、生姜のすりおろしをほんの少しだけ加えた。
にんにくは使わない。
伊織はその量を見て、また同じ引っかかりを覚える。
これでは弱い。
唐揚げとして考えれば、もう少し下味を入れて輪郭を立てた方が、衣をまとったあとにちょうど良くなる。
今日の個体はもともと強くないのだから、なおさらだ。
それでも紬樹の手は止まらない。
肉を強く揉むことはせず、調味が表面へ広がる程度にだけ返し、そのまま少し置く。
味を入れるというより、肉の状態を崩さない範囲で触れているだけのようにも見える。
伊織はその手元を見ながら、自分の中で何度か手順をなぞる。
やれることは分かっている。
だが、やらない理由までは見えてこない。
片栗粉を広げたバットに肉を移し、衣をつける。
ここでも紬樹は、粉を厚くまぶさない。
余分を落とし、表面に薄く、しかし途切れない程度につける。
均一に整えようとすればいくらでも整えられるのに、そこまでやらない。
わずかなばらつきが残ったまま、油の方へ目をやる。
鍋の油は、すでに十分に温まっていた。
高すぎはしない。
最初から表面を固めてしまう温度ではなく、中へ熱をゆっくり入れていける辺りに保っている。
紬樹は肉を一つずつ滑らせるように落とした。
油は細かく鳴り、衣の表面を静かに持ち上げていく。
伊織はその音を聞きながら、頭の中でもう一つのやり方を並べていた。
温度をもう少し上げて、外側を早めに立たせる。
下味をもう少し強くして、衣の内側の芯をはっきりさせる。
軽い個体なら、その方が分かりやすくまとまる。
客にとっても、料理として受け取りやすい。
だが紬樹は、そうしない。
途中で箸を入れて形をいじることもなく、浮いてくるのを待ち、色づきの具合だけを見て一度だけ返す。
均一なきつね色を作るというより、火が通る速度の違いをそのまま受け入れているような揚げ方だった。
揚がった唐揚げはいったん網へ上げられ、余分な油を落としてから、少しだけ休ませる。
その間に熱が中へ回る。
伊織は何度も見てきた工程だ。
それでも今日は、見ている側の自分がどこか置いていかれる感じがあった。
同じ手順を知っているのに、同じ考え方で追えていない。
紬樹は短く二度目の火を入れた。
長く揚げ足すのではなく、表面だけを締める時間だけを与えて引き上げる。
皿に盛られた魔獣鶏の唐揚げは、整っているのに揃いすぎていない。
衣は軽く立ち、中の肉の線がまだ残っているように見える。
横に添えた葉物も大袈裟ではなく、最後に檸檬を一片置いて、定食として客の前へ出された。
伊織は配膳しながら、皿の匂いをわずかに吸い込む。
強くない。
けれど薄くもない。
はっきりさせる手前で止めたような匂いだった。
男は箸を取り、まず一つ食べた。
食べる前に形を観察したり、匂いを確かめたりはしない。
慣れた手つきで口へ運び、そのまま噛む。
衣が軽く鳴る。
客の動きは止まらない。
二口目へいくまでに妙な間もない。
「いいですね」
それだけ言って、もう一つ取る。
「軽いのに、残ってる」
その言い方が、伊織の耳に残った。
軽いのに、残ってる。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
軽い個体だからこそ、味を補って整えた方がいいと思っていた。
その方が“料理として分かりやすくなる”と考えていた。
だが、今目の前で出された皿は、その逆の方向で成立している。
軽いまま、残っている。
足されていないのに、消えていない。
何が残っているのかは、まだはっきりしない。
ただ、残り方が違うことだけは分かる。
男はそれ以上、料理について語らない。
黙々と食べ進め、唐揚げを食べ切り、飯と味噌汁を終えて、最後に茶を一口飲んで席を立つ。
会計を済ませて店を出るまで、特別なことは何もない。
だが、伊織の中には小さな引っかかりだけが残り続けていた。
戸が閉まり、夜の音がまた少し遠くなる。
伊織は空いた皿を下げ、洗い場へ置き、戻ってきてカウンターを拭き始めた。
布巾の動きは変わらない。
いつも通りの速さで、いつも通りに往復する。
それでも考えはさっきの皿の上に残ったままだった。
「……まだ、しっくりきてないです」
紬樹は器を片付けながら、「そうだね」とだけ返した。
「整えた方が、もっと唐揚げらしくなる気はするんです」
「そうだね。
そういう出し方もあるよ」
伊織は布巾を動かしたまま、少しだけ間を置く。
「でも、あれだと……残るんですよね」
自分で言いながら、言葉の形がまだ曖昧だと分かる。
何が残るのか、どこに残るのか、説明できるほど整理はできていない。
ただ、整えたときの仕上がりとは違う方向に、何かが続いている感触だけがある。
「同じようにやってみる?」
紬樹の言葉は軽かった。
「……やります」
伊織はすぐに頷く。
紬樹は新しい肉を出す。
今日の個体の中から、近い部分を選んでまな板へ置く。
伊織はその前に立った。
やっていることは見ていた。
順番も覚えている。
切り分ける場所も、抜きすぎないことも、下味を強く入れないことも、粉を厚くしないことも、全部、頭では分かっている。
刃を入れる。
切り落としすぎないように気をつける。
余分だけを拾うつもりで脂を外し、筋も必要最低限だけを取る。
だが途中で、自分の手が無意識に整えようとしているのが分かる。
少しでも形を揃えたくなる。
切り口をきれいにしたくなる。
その癖を抑えるのに、思っていたより意識が必要だった。
下味も浅く入れる。
揉み込まず、広げるだけで止める。
ここでも、もう少し入れた方がいいのではないかという考えが頭をよぎるが、それを止める。
粉も厚くつけすぎない。
揚げの温度も変えない。
触りすぎない。
二度目の火も短くする。
工程は同じだ。
動きも、見ていた通りになぞっている。
それでも、どこかで自分の判断が混ざっている感覚がある。
完全に同じにはできていないという違和感が、ずっと手の中に残る。
出来上がった見た目は、遠目にはさっきの皿とよく似ていた。
少なくとも伊織にはそう見えた。
だが、口へ運んだ瞬間に違いが出る。
音は近い。
だが、そのあとが違った。
肉がほどけるというより、切れる。
噛んだあと、すぐに形がまとまってしまう。
味はある。
整っている。
だが、続かない。
口の中で収まり、そのまま消える。
さっきのように、どこかに残る感触がない。
伊織はもう一つ食べる。
同じだ。
悪くない。
むしろ十分に美味い。
普通に出せば、客は何も違和感なく食べるはずだ。
だが、さっき客が言った言葉には届いていない。
軽いのに、残ってる。
そこにだけ、届かない。
皿を見下ろしながら、伊織は小さく息を吐く。
「……整いすぎました」
その言葉は、さっきよりもはっきりした形で出た。
紬樹は「うん」とだけ返す。
「抜きすぎた、ってほどじゃないんですけど」
「そうだね」
「でも……残らないです」
伊織は自分の口から出たその言葉を、もう一度頭の中でなぞる。
整えると、消える。
全部ではない。
味は残る。
形も残る。
だが、何かが残らない。
それが何かは、まだ分からない。
けれど、そこに違いがあることだけは、もう見えている。
紬樹はそれ以上何も言わない。
伊織もそれ以上聞かない。
分からないまま残る感触が、そのまま残っている。
伊織は皿を下げ、洗い場へ持っていき、戻ってきてまたカウンターを拭く。
布巾の動きはいつもと同じなのに、頭の中ではさっきの食感と、客の言葉と、自分の皿の違いが何度も並び直されていた。
夜はまだ終わらない。
店は変わらず動いている。
伊織はその中で、さっきより少しだけ手を止めずに考えている。
分かったわけではない。
だが、どこが分かっていないのかは、前よりもはっきりしていた。




