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魔獣割烹「縁」  作者: まっしゅ@
魔獣割烹「縁」

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1/10

一品目 魔獣猪の炭火焼き

 完全新作です。

 雰囲気に合わせて文章の書き方が今までと違いますので、違和感があるかもしれません。

 

 まずはゴールデンウィーク期間中(4/27)〜の毎日投稿です。

 その後は不定期投稿となりますので、それでも良いという方は是非お付き合いください。

 第一話 縁 — 魔獣イノシシの炭火焼き


 仕事終わりの夜だった。

 ネクタイを緩める手つきが、いつもより少しだけ遅い。

 外に出ると、昼間の熱気はとうに引いていて、代わりに湿り気を帯びた空気が街を静かに覆っていた。

 その空気は肌にまとわりつきながら、身体の奥に残っていた熱をゆっくりとさらっていく。

 けれど、胸の内側に沈んだ重さだけは、どうしてもその場に居座り続けていた。

 足は前に出ているのに、どこかで立ち止まっているような感覚が抜けない。


 今日一日のことが、まとまりきらないまま頭の中に残っている。

 会議室の白い照明、机の上に並んだ資料、数字の揃った報告書。

 どれも間違ってはいなかった。

 求められていたことは、きちんとやったはずだった。

 それでも終わったあとに残ったのは、達成感ではなく、どこか噛み合っていない違和感だった。

 正解を出しているはずなのに、妙に薄い。

 うまくいったとも、失敗したとも言い切れないまま、その曖昧さだけが後を引いている。


 ポケットの中でスマートフォンが震える。

 取り出さなくても、内容はなんとなく想像がついた。

 修正依頼か、追加の確認か、明日の準備に関する連絡か。

 どれであっても、今この瞬間に向き合いたいものではない。

 画面を見れば、やるべきことが増える。

 見なければ、後回しになるだけで消えるわけではない。

 どちらを選んでも軽くならないことが分かっているからこそ、余計に手を伸ばす気になれなかった。


 男は結局、スマートフォンを取り出さないまま歩き続けた。

 小さく息を吐き出し、誰に聞かせるでもなく呟く。


「……もういいか」


 投げやりな言い方ではなかった。

 諦めるための言葉というより、少しだけ肩の力を抜くための言葉だった。

 やめるわけではないし、逃げるわけでもない。

 ただ、この瞬間だけは、無理に前へ進まなくてもいいと自分に許しただけだ。

 頑張ればまだやれる。

 そう思えないほど壊れているわけではない。

 けれど、その「まだやれる」を引っ張り出すための力が、今日はうまく噛み合わなかった。


 ふと、足が止まる。

 理由ははっきりしない。

 ただ、視界の端に入った灯りが妙に柔らかく見えたからだった。


 顔を上げると、小さな店があった。

 大通りから一本外れただけの場所に、自然に馴染むように佇んでいる。

 新しいわけでも古びているわけでもない。

 長く使われてきた木の引き戸には、過度な主張がなく、それでいて丁寧に手を入れられてきたことが分かる落ち着きがあった。

 こういう店は、妙に気負ったところがあるか、逆に気取らないことを売りにしすぎているか、そのどちらかであることが多い。

 けれど、目の前の店からはそういう匂いがしなかった。


 看板に刻まれた文字を、男は無意識に目で追う。


 ――魔獣割烹「縁」。


 聞き慣れない名前だった。

 魔獣料理の店自体は珍しくない。

 天外ウイルスの流行以降、魔獣は危険であると同時に、扱い方さえ間違えなければ食材でもあるという認識が、社会の中に定着している。

 スーパーに並ぶことはなくても、専門店や処理施設を通した流通は珍しいものではない。

 ただ、それでも「魔獣」を正面から掲げる店には、どこか癖の強さが付きまとうものだった。

 腕自慢か、物珍しさか、あるいはその両方か。


 それなのに、この店は静かだった。

 強く引き寄せるわけでもなく、かといってこちらを拒むわけでもなく、ただそこにある。

 その距離感が妙に気になった。


 空腹ではない。

 食べたいわけでもない。

 それでも、その場を離れる理由が見つからなかった。

 考えることを放棄するように、男は店の前に立つ。

 ほんのわずかに迷ったあと、引き戸に手をかけた。


 中へ入ると、思っていた以上に静かな空気があった。

 カウンターが数席あるだけの小さな空間。

 余計な装飾はなく、木の色合いと控えめな照明が、店全体を柔らかく整えている。

 奥の方から、出汁の香りがかすかに漂っていた。

 その香りを吸い込んだ瞬間、胸の奥に張りついていた緊張が、ほんの少しだけほどける。


「いらっしゃいませ」


 声に顔を上げると、若い女性が立っていた。

 二十歳前後だろうか。

 落ち着いた表情で、店の空気と同じ温度でそこにいる。

 明るく愛想がいいというより、余計に構えさせない自然さがあった。


「お好きな席へどうぞ」


 促されるままカウンター席に腰を下ろす。

 背もたれに身体を預けた瞬間、自分が思っていた以上に疲れていたことが分かった。

 肩に入っていた力が、ようやく少し抜ける。


 女性は水を置き、軽く会釈した。


「初めてのお客様ですよね。私は伊織といいます」


 柔らかな口調だった。

 続けて、カウンターの向こうを手で示す。


「こちらが店主の、紬樹です」


 その言葉で、男はカウンターの向こうへ視線を向ける。

 そこにいた男は三十代半ばほどに見えた。

 手元の準備を淡々と進めている。

 忙しなく動いているわけではないのに、止まっている感じもしない。

 ただ、そこにあるべき速度で動いていた。


 視線が合う。


「いらっしゃい」


 短い言葉だった。

 愛想よく話しかけてくるわけでもないし、客を値踏みするような目でもない。

 ただ、来た人間を静かに受け入れるだけの声だった。

 そのくらいの距離が、今の自分にはちょうどよかった。


 男は一度店内を見回してから口を開く。


「……お品書きは、ありますか」


 紬樹は手元を止めず、ゆっくりと答えた。


「うちはね……ご予約のお客様以外は、本日のおすすめか、定食だけなんだよ」


「どっちもこちらで……いい感じに出す形になるけど……どうする?」


 任せてもいいと思えた。


「……じゃあ、おすすめで」


「うん……分かった」


 会話はそれで終わり、自然な流れで調理に移っていく。


 取り出された肉を見た瞬間、男はわずかに眉を動かした。

 分厚く、繊維が粗い。

 見ただけで分かる。

 扱いを間違えれば、硬く、臭みの強い仕上がりになりそうな肉だった。

 日常的に料理をするわけではない男にも、それくらいは想像できる。

 少なくとも、家のフライパンで適当に焼いて美味くなる種類のものではない。


 紬樹は包丁を入れる。

 押し切るのではなく、繊維の流れを読むように刃を滑らせる。

 筋を外し、余分な脂を削ぎ、残すべき部分だけを整えていく。

 大袈裟な見せ方ではない。

 手さばきが速すぎるわけでも、ゆっくりすぎるわけでもない。

 ただ、必要な動きだけが無駄なく続いていく。


 一度手を止め、指先で肉に触れる。

 弾力と水分を確かめているのだろうかと男は思う。

 ほんの少し包丁の角度が変わり、また刃が入る。

 その小さな違いが大事なのだと、説明されなくても感じさせられる。


 つい、口をついて出る。


「……それ、食べられるんですか」


 紬樹は手を止めずに答えた。


「食べられるようにするのが……こっちの仕事だからね」


 淡々とした言い方だったが、妙な説得力があった。

 誇るでもなく、謙遜するでもない。

 ただ、自分の仕事をそのまま言葉にした声音だった。


 下処理が終わると、炭火が用意される。

 炎を上げて勢いよく焼くのではなく、熱を使う位置に肉を置く。

 じっくりと火を入れるための距離なのだろうと分かった。

 じゅ、と小さな音が立ち、最初に立ち上るのはわずかな獣の匂いだった。

 だが、それは嫌な臭みとして広がる前に、炭の香りと重なって少しずつ輪郭を変えていく。


 肉は一度火から外される。

 すぐに切るのではなく、しばらくそのまま置かれる。

 そうしている間にも、香りは静かに変わっていった。

 再び火に戻し、また休ませる。

 その繰り返しの中で、強いだけだった匂いが、次第に落ち着いていく。

 尖っていたものが丸くなり、重さだけが残るような感じだった。


 紬樹は肉の位置をほんの少しずつずらしていく。

 その数センチに意味があるのだろうと分かる。

 熱の当たり方を見て、細かく調整しているのだ。

 雑に扱えば雑な仕上がりになる。

 そういう素材なのだと、見ているだけでも伝わってきた。


 男は気づけば、その手元を見続けていた。

 いつからか、スマートフォンのことも、会議のことも、頭から少し離れている。

 ただ、目の前で変わっていく肉の様子を眺めていた。


 伊織が静かに水を注ぎ足す。


「今日はイノシシなんです」


 男は目を肉から離さないまま、軽く頷く。


「魔獣イノシシって……やっぱり普通のより、ずっと扱いが難しいんですか」


 伊織は声の大きさを変えないまま答えた。


「難しいですね。

 筋も強いですし、臭いも出やすいですし。

 乱暴にやると、すぐ全部そっちに寄っちゃうので」


 乱暴にやると、すぐそっちに寄る。

 妙に引っかかる言い方だった。

 仕事でも、人付き合いでも、最近の自分はそういうふうに物事を雑に受け止めていたかもしれない。

 向き合う前に面倒くさくなって、最初から手を抜いた距離で済ませようとしていたのではないか。

 そんな考えがよぎる。


 やがて肉が取り上げられる。

 すぐには切らず、もう一度だけ休ませる。

 そのあとで包丁が入った。


 断面を見て、男は思わず息を止めた。

 余計な赤みはなく、かといって火が入りすぎて乾いているわけでもない。

 しっとりとした状態が均一に保たれている。

 肉そのものの強さを残したまま、きちんと食べ物の顔に整っていた。


 皿に盛られ、目の前に置かれる。

 立ち上る香りは、強すぎず、それでいて薄くもない。

 深く残る匂いだった。

 ここまで来ると、さっきまで感じていた獣の荒さは、どこか輪郭だけを残して別のものになっている。


「魔獣イノシシの炭火焼き」


 紬樹が短く言う。


 男は箸を取り、一口、口に運ぶ。

 思わず動きが止まった。

 弾力がありながら、噛むほどに繊維がほどけていく。

 旨味が広がり、そのあとから炭の香りが重なる。

 強さはあるのに荒くない。

 臭みはなく、素材の輪郭だけが静かに残る。

 分かりやすく柔らかいわけではないのに、食べにくさはまるでない。

 むしろ、ちゃんと噛むたびに味が深くなっていく。


 思わず言葉が漏れる。


「……なんで、こんなに」


 うまく続かない。

 何がどうすごいのか、自分では言葉にしきれなかった。

 ただ、最初に見た肉からは想像できない仕上がりだということだけははっきりしていた。


 紬樹は静かに答える。


「そのままだと食べにくいものでもね……ちゃんと向き合えば、食べられるようになるよ」


 それ以上は言わない。

 説教でも、励ましでもなく、ただ料理について言っただけのような声だった。

 けれど、その一言は妙に残った。


 男は黙って食べ進める。

 一口ごとに、胸の奥にあった重さが少しずつほどけていくような気がした。

 消えたわけではない。

 明日の仕事がなくなるわけでもないし、今日の違和感が解決するわけでもない。

 それでも、それを抱えたままでも、少しは大丈夫だと思える程度には軽くなっていた。


 皿の上から肉がなくなっても、すぐには立ち上がる気になれなかった。

 店の空気は変わらない。

 急かされることもなく、何かを求められることもない。

 ただ、そこにいることが許されているような静けさがある。

 その感じが、妙に心地よかった。


 やがてスマートフォンを取り出す。

 未返信のメッセージが並んでいる。

 消えてはいない。

 読めば面倒なことが待っているのも変わらない。

 それでも、さっきよりは少しだけ向き合える気がした。

 全部じゃなくていい。

 今は、少しだけでいい。


 男は静かに口を開いた。


「……明日、もうちょっとだけやってみます」


 独り言のような言葉だったが、紬樹は軽く頷いた。


「そっか」


 それだけだった。

 気の利いた励ましも、前向きな言葉もない。

 なのに、その返事だけで十分だった。

 分かったような顔をされるよりも、ただ受け取ってもらえたことの方がありがたかった。


 会計を済ませて立ち上がると、伊織が静かに見送ってくれる。


「ありがとうございました」


 男は小さく頭を下げた。

 引き戸に手をかける前に、一度だけ店の中を振り返る。

 紬樹はもう次の片付けに移っていて、伊織は使い終わった器を下げていた。

 特別なことは何もない。

 けれど、その何もなさが、今は妙にありがたかった。


 外に出る。

 夜の空気は変わらない。

 街灯の色も、車の音も、さっきまでと同じだ。

 それでも、足取りだけはわずかに軽かった。

 大きな変化ではない。

 ただ、止まらずに済んだ。

 それだけだった。


 背後で引き戸が静かに閉まる音がする。

 振り返ることはなかったが、あの店はまたそこにあるのだろうと自然に思えた。

 今日だけ偶然入った場所ではなく、必要になればまた来られる場所として、静かにそこにあるのだと。


 魔獣割烹「縁」。


 その名前だけが、夜道を歩くあいだ、ずっと静かに残っていた。

 ※作者は料理自体はしますが、専門的な知識はありません。本職の方が見れば、「そこは間違ってる」等のご指摘があるかもしれません。

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